九
為信が森岡を呼び出したのは屋敷に戻った三日後だった。
全て急いで実行した方が他の者に疑われずに済み、残った家臣達も納得してくれるだろうというお福の判断である。
いざ呼び出してから彼が来るのを待つ間、時が経つ感覚が今までよりも長く感じた。足に指を動かしたり、手の指を膝上で叩いたりと気を紛らわすが、ますます周りが遅く感じてしまうため、すぐにやめた。
心に迷いはない。
お福は為信に指示を出し、誰を決行する者として傍に置いておくかを指定し、彼もかつてやましいことを犯した者に脅しをかけて仲間に引き入れた。
全てお福が裏で監視していたために出来た速さである。
改めて為信は妻の偉大さに感服し、付いていこうと心を改めた。
それに応えるべく、森岡を早く仕留めておきたい。
その焦りが行動に出てしまうほどに彼は飢えていた。廊下から微かに足音が聞こえるだけで顔を上げるが、これまで全て家の者が往来をしている足音のため、近付いたと思えば静かに消えていく。
「森岡、ただいま参上仕り申した」
「入れ」
いつも以上に所作が恭しく感じる。これから天下を左右する大戦が起こる前に呼ばれたとすれば、為信がそれに向けての策を講じて欲しいと思っている。
これまでもそうだったように為信は信じていると彼は思っている。
滑稽に感じつつも平静を装い、為信は口を開く。
「待っておったぞ」
森岡は所作通り頭を下げる。
「良い。頭を上げ、こちらへ参れ」
「はっ」
森岡は素早く為信の前で膝を下ろす。僅かに見える表情には興奮を押さえている様子が感じられた。
案の定、待ちきれないと森岡の方から口を開いてきた。
「して、此度はいかなることでございましょうか」
「他でもない。太閤が亡くなられ、これより我らは如何に動くべきか、お主の考えを聞かせてくれ」
心なしか森岡の瞼が動いたように感じた。「はっ」と声を出すと勢い良く頭を上げる。やはり押さえていても興奮を覚えているのだろう。
「某としては、敵味方を定めるべきではないかと」
「どっち付かずを演じろ、と……が、それはかなり難しいな」
「まったくその通りでございまする。されど、殿であれば可能かと」
「何故」
「徳川の本拠は関東。毛利や宇喜多らは中国から畿内。双方が戦うとすれば畿内から信州の辺りとなるかと。いずれも日ノ本最北端である陸奥から遠く、我らを見ることは少ないかと。これを利用し、利を得ることが肝要かと」
「具体策は」
「双方に書状を出し、味方すると伝えましょう。それよりは最上や伊達、上杉の動きを見て決めるべきかと」
為信は納得したと何度も小さく頷く。いつもなら為信に命じられてから策を練り、主を立てる森岡だが、間髪入れずに策を披露してくるあたり、これからの戦いには何か熱を入れるところがあるのだろう。
「やはり壁になるのは、あ奴らか」
「御意。毛利は遠国故に不明でござるが、徳川は調略の手をこちらにも伸ばしていると報せが」
「上杉は、豊臣と近しい故、おそらく毛利らにつくであろう。伊達と最上は縁戚とはいえ、仲違いをしておる。これはどう見る」
「これから先、東北随一を決めるとはいえ、伊達も最上も徳川に近付いているかと。つまるところ、前の関白との一件で豊臣に不満を抱いていると考えれる者は自ずと徳川に付きましょうぞ」
「ならばこそ、徳川に付くべきではないか」
「殿、真の敵は中央の徳川と毛利、宇喜多にござる。たとえ我らが戦自体で敗北を喫しようと勝った方になびけばそれで良いのでございます」
「うむ……さすが森岡だ。良い策だ」
「恐悦至極に存じます」
「すぐにでも書状を認めねばな。誰か、紙と筆を持て」
為信が声を上げると襖が開き、外に控えていた奉公人二人が無言で帯刀したまま中に入ってきた。
「何をしておる。無礼であるぞ」
領主と筆頭格の家臣に対して奉公人如きが無言で部屋に入り、帯刀したまま平然と立っているのはその場で首を刎ねられても文句は言えない。
しかし、彼らは詫びることもなく、ゆっくりと一歩一歩着実に森岡に近付き、刀を抜いた。刀を向けられた森岡は目を見開き、奉公人達を見比べている。おそらく為信が先程から奉公人達を咎めないで平然としているところから、この状況下を作ったのが自身の主であることにもう気付いているかもしれない。
だが、確信を得たいという思いが彼を聞かずにはいれないという意識を働かせ、口を動かさせた。
「誰がかようなことを命じた」
「俺だ」
為信は立ち上がり、驚いて振り返る森岡を指差す。
「やれ」
迷いの無い声で命じると同時に「お待ち下され」と声が上がり、森岡が必死な形相でこちらを見てくる。
「某が何をしたと」
「謀反人である貴様を討つ。ただそれだけよ」
「左様な二心、某は持ち合わせてはござらぬ。何者かによる讒言でありましょう」
「黙れ。今は皆、一所懸命に天下の趨勢を見定め、動く時。火種は絶やしておかねばならぬ」
為信は自身の言うことが正しいと心中で言い聞かせ、もう一度森岡を指差す。だが、本人は全く怯まず鼻で笑うと嘲るような目つきで主を見てきた。
「……そう、奥方様に言われたのでござるか」
為信は心の中で舌打ちをする。以前よりお福の追放を叫んでいた彼が二人の間をこれで確信したと考えても不思議ではない。だが、死人に口なしである。
「某の意志を福のせいにするでない」
「否、某には見えるのでございます」
冷徹な口調で突き放すが、森岡は構わず近付いてくる。為信の奥底までを見抜こうとする眼光は不快極まりない。
「殿が某ではなく、奥方を選び、その歪な関係を望むのであれば、某は邪魔な存在……」
森岡はようやく事実を認めたのか、肩を落とす。よく見えないが、悔しさが何もせずとも感じられる。
今だと為信は奉公人に向かって口を開こうとしたが、森岡は思った以上に早く顔を勢いよく上げた。先程まで言葉にせずとも命乞いをする表情だったが、不満を全面に押し出している。
実に不快な表情だと丸い目で睨むが、森岡は構うことなく鼻で笑ってきた。
「ふんっ、長年仕えてきた臣下より変えの効く女を選ぶとは、最期まで信じていた某が愚かだったということか」
「無礼な」
今まで静かにしていた奉公人の一人が一歩踏み出たが、為信は「待て」と厳しい口調で制する。代わりに自身が森岡へ近付き、卑下の目を向けてくる彼に口端を限界まで吊り上げ、嘲笑を浴びせる。
「所詮罪人の戯言、死ぬ前の悪足掻きだ。好きに言わせれば良い」
「随分と図太くなったものでございますな。かつて迷うていた時の殿とは思えませぬ」
「主を幼子の如く扱うとは、死を前にして本性が現れたか」
「迷うていたことは事実でございましょう。これまで奥方も某も殺めずにいたのが紛れもない証」
「否、お主を利用していただけに過ぎない」
「ならば、何故に今、某を殺めるのか、お聞かせ願いたい」
「価値が無くなったが故」
森岡はその言葉を聞き、高笑いをする。
「これより大戦が始まるというこの時、最側近たる某に価値が無くなったと仰るか。結構、実に結構」
「おのれ……」
「いい加減にしろ……よい。お主らは一度出て行け」
「されど」
「命だぞ。従え」
家人達は森岡に対してこれみよがしに舌打ちをすると外に出て行く。襖が閉められたのを確認すると為信はすぐさま口を開いた。
「お主の価値は既に無くなっている。紛れもない事実ぞ」
「これより大戦で……これは先程も申し上げましたな」
「戦にお主の知恵はいらぬ。これで日ノ本が真の泰平を成し遂げたのであれば、過ぎたる家臣は邪魔な存在でしかない」
「某が殿に対してどれほど滅私奉公を重ねてきたにもかかわらず、この所業。これでは残る者達も報われませぬな」
「構わぬ」
「我らが道端の土になろうとも天に昇るは殿と奥方のみで良いと」
再度、鼻で笑ってきた。先程から勝手に自身で解釈して小馬鹿にした嘲笑を浮かべる様がどうも腹立たしい。
きりがないと考え、為信は終わりだと外に控えていた奉公人達を部屋に入れ、入れ替わるように部屋の出入り口近くまで歩を進め、振り返る。
「そろそろ評定に向かわねばな」
わざとらしく声を上げ、森岡に最期であることを伝えると再度、彼は鼻で笑った。
「この場で某を処断するのであれば、さっさと斬れば良かったものを」
森岡の口調は相変わらずだが、少し哀しさを持っているような感じがする。それぐらいのことは分かるぐらい長い付き合いだった。だからこそ、最期の茶番にも付き合っていたが、これ以上温情をかけても森岡を調子に乗らせて地獄に送ることになる。
「貴様が長々と講釈を垂れるが故だ」
「途中で斬られようと怨霊となって語り続けるつもりであったのだが」
「もうよい。言い遺すことがあれば聞こう」
「武人たる者、死は常に覚悟してい申す。されど、これで殿も修羅となりましょうぞ」
為信は奉公人に「やれ」と命じる。待ってましたと言わんばかりに奉公人達が森岡の心臓と首に刀を突き刺す。
森岡は刺された瞬間こそ痛みで顔を歪ませたが、為信に勝ち誇ったような笑みを向ける。
「何だ」
森岡は口を動かしたが、首を刺されているため、声を出すことなく仰向けに倒れた。
滴る血が黒く着実に床を汚し、為信の方へと流れてくる。蔑む目でそれを避けるように数歩下がり、息絶えているのを見定める。
「元よりそのつもりだ」
為信は鼻で笑いながらうつ伏せになっている森岡の亡骸を足で仰向けにし、部屋から辞した。
そして、すぐさま家の者に森岡の処分を命じ、評定が行われる館に向かう。
その間、為信の脳裏では森岡の最期が無限に浮かんでは消えていた。彼の最期の言葉を直接聞くことはなかったが、為信に向かって発した言葉がその光景を何度も思い浮かばせる原因となっている。
『終わりを覚悟せよ』
どういう意味を込めて伝えたのかは分からない。しかし、為信が森岡を捨てたことへの発言であれば正しく愚かなことだ。心中、勝者としての優越感を抱くが、いつまでも浮かぶ光景が鬱陶しい。
蝿を追い払うように頭の周りを
評定の間には既に全ての家臣が揃っており、為信の姿を認めた途端、全員が頭を下げる。
森岡の席が空いているが、気にせずに上座へと進む。いつも以上に昂揚感が高まり、為信の心臓の鼓動を早くしている。
「待たせたな」
座ると同時に口を開き、顔を上げるように命じる。
「皆、揃っておるな」
「殿、森岡殿がまだにござるが」
「よく聞け」
声の主も確認せずに為信は口を開く。
「森岡は謀反を企んでいた故に、俺が叩き斬った」
視線が一斉にこちらへ向かい、動揺が部屋中に広がる。隣の者と眉間のしわを寄せ合ったり、おとがいに手を当て、推測を立てて頭を横に振る者など反応は様々である。
「静まれ。あやつは俺がここを留守としている間に、この国を乗っ取らんとした。その証も間もなく奴の屋敷からも上がるであろう」
それでも納得のいかない者達は互いに顔を合わせ、首を捻ったり、目で本当にそうなのかと訴えてくる。
だが、津軽家の主は為信であり、既に自ら森岡を処断しているため、もはや分かる術がない。
分かっていても納得出来ないほどに森岡の存在は家中で大きかったのだと知らされる。思い返せば評定で為信に対して反論をする時、ほとんどが森岡によって行われていた。他の者達も何か言いたげな表情をしていたこともあったが、時間がかかり、結局、森岡がその代弁を務めていた。
今回も同様に家臣達が何か言いたげにこちらを見てくる。為信はこのままでは埒が明かないと考え、話題を強引に切り替えようと口を開こうとした。
「皆、静まれよ」
評定の間に響いた声が為信の微かに動きかけた唇が反射的に閉じさせた。
「我らはこれまで殿のご英断によってここまで来たのだ。殿のご裁量が違ったことが今までもあるか」
為信を含めた全員の視線が発言した者の方向へと向かう。普段はあまり自ら発言をしない沼田が威圧的な声を上げたからだ。
「南部からの独立は無論、東北の諸大名や織田、豊臣との交渉において我らがこうして殿にお仕えできるのは殿がご決断なされてきたが故、それに過ちなどあったか」
家臣達が押し黙る。
為信はこれまで南部からの独立や豊臣との最盛期など、常に危機の中で的確に立ち回り、今や宿敵の南部よりも陸奥の中で安定した地盤を築き上げている。それは偽りの無い事実であり、家臣達も彼を信じてここまで付いてきた。
そして、為信はその期待に応えて失敗の許されない局面を乗り越え、家の発展に繋げてきた。たとえ非情と思えることも平然と行ってきた。それでも不要に家臣を傷付けることはしてこなかった。だからこそ、森岡という側近中の側近を殺めたのは確固たる証拠と事情があるのだ。
皆が一目置くほどに切れ者である沼田の言葉にはそれまでの津軽家の歩みを全て思い出させるような懐かしさと厳しさを物語らせていた。
不満げだった家臣達も沼田の発言を聞き、しばらくして無理やり納得したようにゆっくりと頭を下げた。
全員が落ち着きを取り戻したのを見計らい、沼田の方を向き、軽く頭を下げる。
「沼田。俺とて森岡が裏切ったこと、未だに信じ難い。されど、紛れもない事実故に斬ったのだ。よくぞ俺の決断を聞き入れてくれた」
褒めてやると沼田は口元を歪ませ、深々と頭を下げる。
「殿の御心のままに」
わざとらしい。為信は心中で舌打ちをした。
いかにも懐に入り込みたいという見え見えの魂胆がよく伝わってくる。
だが、これでやりやすくなったのも事実である。
ただの暗愚な主であればこれで佞臣の意のままに動くが、為信は自身がそうではないと自覚していた。国や民のために命令を下し、戦に勝利するために動く。
全て、お福の願いを叶えるためにだ。為信が彼女の操り人形なら、家臣達は操られている彼にさらに操られる哀れな傀儡の末端である。
「これより、日ノ本は再び戦が起きる。我らも津軽の名を後世に残すべく動く。それ故、今は静観し、機が熟すの待ち行動する。これに異論のある者はいるか」
為信の号令に家臣達も黙って頭を下げた。たった今、彼らは傀儡となることを受け入れ、己が知らないまま、人であることを捨てたのだ。
為信は皆の様子を満足気に見回し、話題をこれからの具体的な動きに変える。
家臣達に戦の支度や南部の動きを探ること、東北の大大名である最上や伊達の動向を探り、周辺の者達の調略を行うように矢継ぎ早に指示を出す。
家臣達は一切の文句を言わず、頭を下げていく。
森岡が為信の指示に違うと口出ししてきたり、さらにこうした方が良いと提言をしてきた時よりも評定が半刻も早く終わった。
終えるべきことを終え、屋敷に戻ると上機嫌なお福が待っていた。
「家人が森岡の骸をどうするのかって迷っているわ」
「首を斬り、耳と鼻を削いで城下に晒せば良い」
浮かれているところにさらに良いことを聞いたためか、ますます唇の両端がつり上がっていく。
「そうね。良い見せしめになるわ」
お福は外が見える窓際に座り直す。開いている障子からは星空が見えるが、今日は月が見えない。謀を行うには実に良い天気だ。
しばらく無言で外を見ていると流星が落ちた。何か凶兆があるのかと為信は唇を噛む。だが、共に流星を追っていたお福は唇を吊り上げ、肩を震わせた。
「これで邪魔者は消えたわ」
あの流星を森岡が死んだためだと捉えたのだろう。為信は彼女に合わせなければと気持ちを落ち着かせる。
「そうだな」
「喜びなさい。これからこの陸奥という国は私の思うがまま。ひいては、貴方もここの支配者として君臨し続けられる」
「これからどうすれば良い」
「まずは、徳川に書状を送りましょう。確か浅野も徳川と近付こうとしているとか」
「真なら申し分ない」
「ああそうだ。これから先、徳川が天下を取ったらちゃんと南部を潰していくのはもちろんだけど、もう一つやってもらいたいことがあるわ」
「なんだ」
「ふふふ。この戦が終わったら教えるわ」
為信はすでに齢四十を越えているのに妖艶さを感じさせる笑みに酔っていた。
自分の欲のままに動いている彼女の夢を叶えるための存在であると改めて知らされ、その甘美な快楽が素晴らしいほどに体中を走る。
何ものにも変えられないそれを改めて知ってしまった彼の体はもはや抗う力など無い。そう自覚してなお、お福に付いて行こうとする姿は正に餌を与えられた犬よりも醜い。
だが、彼にとってそれこそが生きる希望である。
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