八
「馬鹿なことほざきやがって」
為信の口中に血に味が広がっていく。左頬を擦りながら歯が折れていないか確認するが、幸い無事なようだ。
もしかしたらと発言に込めた淡い期待は鉄扇の一撃によって打ち砕かれた。
「なに。大谷もそうだけど、貴方も気が狂ったのね」
「いや、違う……」
「そう……躾が必要ね」
言い終えるより先に福の一撃が右頬に入る。それで終わりなはずもなく、続けて無防備になっていた腹に蹴りが入り、為信は倒れ込む。
髪の毛を掴まれると福の顔が目の前に映る。満面の笑みの笑みを浮かべながら彼女は「下らない」と一言発すると再び鉄扇で何度も何度も頬に痛烈な攻撃を喰らわせる。殴るのに飽きたと一息つくと今度は蹴りを腰や腹、顎に入れて楽しそうに声を上げて笑い続ける。
蟻の行列を踏み潰すことを楽しむ子供のように様々な角度から踏み付けてくる。その時も力加減を変えたり、足裏やかかと、つま先での感触を楽しんでいる。
「どう。正気に戻った……うーん、まだまだね」
為信は言葉を発することが出来なかった。何故問うただけなのにここまでされなければならないのか。これまでも提言してきて一蹴されることは幾度もあったが、喋ることもままならないほどに否定されるのは初めてである。
「ただ……一つの腹案として、だだ……あくまでも実行するのはお前に確認してから」
「確認するまでもないでしょうが」
躊躇いの無い鉄扇の追撃が頬に二発入る。
「石田が勝つ。万が一にもそんなことがあると思っているの。だとしたらよっぽどめでたい頭になってしまったのね」
為信は痛みに体を震わせ、何も言わずに俯くことしかできない。その様子に興醒めしたのか、福は握っていた鉄扇を自身の肩に当て、労るように二度三度叩く。
「策でも伝えられたのか、大層大きな見返りを約束されたのか知らないけど、そんなもの、叶えられないから与えられると言えるのよ」
「だが……」
「何、どんな美味しい餌をくれたの」
「南部の治める地の他にも働き次第で十三湊を……」
「ふーん、確かに悪くない。けど、それこそ罠じゃないの」
どういうことだと目で聞いてくる為信を、福は憐れむように溜め息をつくと見下す瞳をさらに険しくする。
「いい。十三湊を取ったところであそこは東北随一の要衝である港。交易が盛んで収入源として多大な益をもたらすあの場所を無条件で渡してくれると思う。いくら大谷が裏であれこれと調略していても実際に表立って動くのは石田よ。あんな頭が固い奴なんて外様が力を伸ばすことをただ指を咥えて見ているだけなはずがない」
「それは……」
「大谷も大谷よ。それだけのものを与えるとしたら必ず見返りを今後お願いしてくるはずだし、大きな戦に巻き込むつもりよ。そもそも、明らかに調略が上手く行っていないからそんなこと言える」
そのことは為信も思った。調略が上手く行かないから非現実的なことも織り交ぜた交渉を行い、丸め込むつもりだであると。だが、魅力というのは現実的な思考を忘れてしまうほどに甘く理性を揺らがせるには十分なものである。ましてや個人として自身の才を褒められればなおのこと。
為信の何も言わずにただ俯く様を見て、心底呆れたとお福は盛大な溜め息をつく。
「これなら貴方も玩具としては廃棄かな」
目を見開いて福の顔に視線を上げると家畜を見るような目でこちらを見ている。
間違いなく本気で捨てようかと考えている。だが、後家になったところですでに高齢になってきている彼女を拾うような者などいないだろう。
それでも簡単に言えるということはあてがあるということである。津軽家の当主である自身のことを特別な存在だと思っていたが、現実はこの有り様。屈辱的かつ受け入れ難い現実を突き付けられ、ただ呆然とするしかない。
その様子を見て福は呆れて「あーあ」と首を横に振りながら扇子を肩に置く。
「さっさと森岡に鞍替えすれば良かった」
「な……」
生来丸い為信の目が血筋が見えるほどに丸くなる。
「正直、彼の方が素質はあるのよね。優し過ぎるし、頭が固いから御していくのは難しいけど」
「なら何故に殺せと」
「あんたとやっていくのに邪魔だったからよ」
福の目つきがさらに険しくなる。今まで疑問に思っていたがこれまでの話の中でようやくその意味を理解した。
彼女が味方となれば為信も森岡も同じ存在となってしまう。それだけの力を持つ森岡を為信は頼りになるからと傍に置いていた。本人にその気が無くとも津軽の領土を守る代わりを亡き者とすることが為信と福が統治することに対する安全性の確保となる。
逆に言えば彼女にとって為信と森岡は同等の価値しか無く、変わりないただの木偶にしか過ぎない。
彼女はたまたま為信といち早く出会い、無色のそれに自身が好む色を与えただけであり、忠実に従っていた彼は本当にただの玩具にしか過ぎなかった。
「あんたも所詮、私の玩具の一つに過ぎないと今改めて知らせなきゃいけないのかしら」
「いや」
今一度、振り上がった鉄扇を見て為信は慌てて首を振る。
「その命乞いをするような目。本当にいつまで経っても変わらない」
下ろした鉄扇を袖にしまうと為信の顎に人差し指を食い込ませ、目線を向けさせる。
「あんたも所詮、ただの田舎大名よ。私の助力が無ければ何も出来やしなかったじゃない。違う」
否、と答えられない。実際に南部からの独立から豊臣への帰順まで全て福の考えに沿って行われたものであり、為信による主体的な作戦の取り決めは無かった。提案してもほとんどが却下され、ほとんどが彼女の思惑通りに進んだ。
確かにそれで失敗したことはない。
だから為信も徐々に任せておけば良いという考えを持つようになり、実際に戦に出る時以外の策略を立てることはかなり減った。
それでも手柄は主である為信のものになるため、それで良い気になっていただけかもしれない。
主が変わることは比較的平穏となっている現在の日ノ本では滅多に無いが、簡単に言い切れるということは、すなわち自信があるからと考えて良い。
手段は分からないが、津軽家当主の交代劇を周囲は少々の騒ぎの後、落ち着いてすんなりと新たな当主を祭り上げ、徳川の下で安定した発展を遂げることが出来るということだ。
同時にそれは為信にとって絶望を味わうことになる。
下剋上を与える喜びを覚え、それを受ける者の屈辱的な顔を見てきた為信にとってあの思いを受けるのだけは回避したい。
最初に抱いていたはずの張りぼての強い心はあっさりと土壌を崩されてしまった。
「俺は、どうすれば良い……」
屈服するしかない悔しさを握った拳に秘め、弱々しい口調で尋ねる。
無力であることを痛感させられる。乱世で生き残るために必要なそれなりの力を持っているつもりだった。しかし、実際には目の前にいる怪物の玩具にしか過ぎないと思い知らされる。
彼女のせいでどれだけの純真無垢な人間の命が奪われ、心に傷を負い、手玉に取られてきたか分からない。
思い返す内に為信は自身がいかに未熟で本来の自分が心優しい人間であるのか気付かされる。所詮は悪に染まりきれない半端者。黒く染めていたはずの心があっと言う間に白く塗り替えられる。
何と脆い張りぼての信念だったのだろう。
何故あの時大谷の誘いを口にしたのだろう。
どうすれば彼女と同じ土台に立ち、認められるようになったのだろう。
後悔と願望が頭の中を駆け回り、吐き気を催すほどに不快な感覚が体全体を襲う。
懊悩を振り払うようにお福は小刀を取り出すと為信の目の前に突きだした。
「嫌ならさっさと森岡を排除して私への忠誠を見せなさい」
「……」
沈黙してしまった。当主として森岡の実力は御家を支えてもらうには欠かせない存在であり、策略の中を生きてきた為信にとって心を支える友でもある。
「森岡と私。どちらを取るべきか。過去の貴方だったら何て言うかしら」
過去の為信なら瞬時に福を選び、森岡を弑しただろう。しかし、本当の己の素性を露わにして対することが出来る人物が彼しかいないことを知っている今、どうすれば良いのか分からなくなった。
どちらを選んでもどちらかを斬る。だがどちらも為信を支える柱であり、今の彼にとって損失は甚だしい。
汗にまみれた顔から畳に滴が落ち続け、しみになってきている。強い意志など持っていない彼にとって決断は無縁に等しく、困難な壁である。
己の無力さに嫌気を感じた時、手拭いによって汗が丁寧に拭われた。
「私の言うとおりにすれば必ず幸福になる。そうして貴方は陸奥を支配する大名となれる。だからこそ、私の玩具となったのではないの」
福の優しくも強い口調で為信の心を揺さぶってくる。
どうすれば自身がこの苦難を乗り越えて全てを丸く収めることが出来るのか。捨てる他に選択肢は無いのだろうか。
おそらく彼女はその答えとは無縁の存在である。しかし森岡がいない今、すがることができるのは彼女だけ。
思いを察したのか、福は為信の頭を優しく撫でる。
「大丈夫よ。大谷を頼らなくても貴方は東北に名を轟かす大名になれる。そのために努力してきたじゃない。たった二人で、そう……」
彼の肩を強く掴み、静かで殺気を含んだ口調でとどめを刺してきた。
「何もかもを犠牲にしてね」
為信の心につかえていた何かが一気に流れていった。
答えは思いの外、簡単なところにあったのだ。
森岡と出会うよりも遥かに前に為信はお福と出会い、夢を共に誓った。そのために彼は人の形をした傀儡となり、手段を選ばない鬼畜となった。
「じゃ、後はよろしくね」
福が出ていくのと見計らうと為信は仰向けに倒れた。
嘘でもあれほどの慈悲を見せてくれる彼女は恐ろしい。だが、それ故に惹かれたのだ。
そのような簡単なことを何故思い出せずに複雑にしていたのか。
「迷うほどに森岡の支えは素晴らしかったのだな……」
何かが切れて、空が曇りから一気に晴れ渡ったような気分になる。
決断の早さと人を見る目は畿内の名将とも劣らない。顔立ちの良さも相まって家臣達からも親しまれていた。為信のお気に入りであることもひけらかさずに真摯に主家を支える姿勢は主を魅了した。
だからこそ主に取って代われる人物であったのだ。下剋上で成り上がってきた為信もその恐怖は分かっている。それでもその時から付き従ってくれていた彼を最後まで信じていきたいという思いもある。
だが、それこそが下剋上を許してきた今までの東北の大名達であり、南部家の末路。
「なに、今までと変わらないことだ」
今まで人の心身に傷を追わせ、冷酷に奪ってきた。
何事も迷ったら初心に帰るべきだ。
またあの頃のように心を持たない冷酷な自身に戻り、裏切り、斬り捨てる。
それだけで幸せになれるのであればそうすれば良い。
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