三
為信とお福の念願は天下を得ることではない。
あくまでも津軽一統と南部信直が治める領地。
互いに天下には興味が無いと二人で確認し合っている。
その目的に邪魔となる南部とそれに加担する者たちと戦い、勝利のために心を砕いてきた。
しかし、所詮は東北の片田舎の大名に、上方からの時代の流れに抗うことは出来ない。
「東北にも来るのね」
「関東が片付いたら間違いないだろう」
豊臣秀吉が本能寺にて倒れた織田信長の遺志を引き継ぎ、天下統一を目前にしてきた。
彼は四国、九州を素早く平定すると東の方へ目を向け始めた。間者からの報告では北条や伊達に帰順を促す書状を頻繁に送っているらしい。
大浦に書状が一回しか来ていないのは正直どうでも良いと思われているのだろう。
しかし、それでは大浦としての野望を果たせない。何としても記憶に残させることをしなければならない。
「最上は豊臣に帰順しようとしているらしい。使者を送り、豊臣との誼を図る」
「直接豊臣に帰順の意を示した方が早いと思うけど」
「まだ我々の領地は安定しておらぬ。最上のような大大名を出し抜くような真似をすれば後の災いとなろう」
大名にとって名誉は命よりも大切なものだ。最上はまだ正式に豊臣と盟約を結んでいるとは公にしていない。先に津軽のような小さな勢力が豊臣の懐に入り込んでいることは面白くないだろう。
領土を欲する津軽が最上に対する讒言で領地を拡大させようとするかもしれない。
為信にそのつもりは無いが、最上の心境はおそらく疑念に満ちたものになるだろう。東北の大名たちの豊臣に対する思いが一致していない以上、下手に出し抜く真似は出来ない。
「最上に書状を認める。急がねば、南部に先を越される」
「伊達は」
「奴は、確かに力はある。されど、若さ故に時を見定める力がない。惣無事令が出ているにもかかわらず、堂々と戦っているだろう」
「恩を売っておくのも良いと思うけどね」
「まだ先のことだと思うがな」
「いずれは伊達に鞍替え?」
「最上次第だがな」
「そ。まぁ、良いわ」
話が区切れたのを見計らい、紙を出して筆を進める。
後ろで退屈そうにお福が扇子をあおいでいるのが背中越しでも何となく分かる。
それよりも今は一刻が惜しい時。
どちらが話を切り出すか難しい気まずい雰囲気の中で為信は筆を走らせる。勢いを付けて書く方が慎重に言葉を考えるよりも良い内容が出来るような気がする。
外から風も入ってこないため、紙も吹き飛ばされることもなく集中していられる。
気付けばあっという間に一枚の書状が完成した。
一通り見直して問題無いことを確認すると字を乾かすための重石を置いてお福の方を向く。
いつの間に移動したのか窓際で外の風景を見ている。季節ごとに変わるとはいえ景観は何年も変わっていない。正直、何が楽しくて見ていられるのか分からない。
問いかけてもいつも笑ってごまかす。
初めて聞いた時、珍しく穏やかな笑みを浮かべる様に不気味さを感じた。幾度か聞いたが、その度に同じようなことをされた。普段なら一度で覚えろと扇子を振り上げる彼女が普通の女らしいことをする。
とはいえ今はいつもの冷徹な目を向けるお福である。行動するなら迅速にと目で訴えている。
「いつ出すの?」
「今宵だ」
彼女は少し目を見開いたが、すぐに納得したのか何度か頷いた。
「南部に出し抜かれたら大変だものね。何か贈り物も考えないと」
「ともかく、使者だけは直ちに最上に向かわせる。何としても今の領地は安堵してもらわなければ」
「当然ね。出来ないと困るわ」
お福の鋭い目が為信に向けられる。それぐらいのことも出来ない奴を私の夫にする価値は無い。口にはしないが、彼女はそう目で言っている。為信はたまらず外に出た。
「誰かいるか」
「はい」
遠くから女中がやってくる静かな足音が聞こえる。
「殿、何用にございますか」
「直ちに豊臣へと使者を出す。それから秋田にも使者を出せ」
「御意」
襖が閉じられると同時に為信は一息つく。安東とは浪岡を討ってしまった因縁から幾度と衝突があったが、先代の愛季が亡くなり、幼少の実季に変わってからは名を秋田に改めたかの家で起きた内乱に乗じて和睦を結んだ。
以前、為信は松前から海路を使い、上洛を試みたが、失敗した。ならばと陸路で進んだが、南部と安東の妨害を受けて撤退し、お福から散々な目に遭った。
どちらかと和睦すべきと思っていた矢先に丁度良く安東愛季が死んでくれた。
気難しい者の後に来た者の何と扱いやすいことか。補佐役の重臣も愛季ほど思慮深くなく、利益をぶら下げたら簡単に乗ってくれた。
家臣達の反対をよそに大浦と手を組むことを選んだ安東のおかげで反大浦包囲網を崩れ、為信は中央への連絡が取りやすくなった。
おかげで家臣を何度も派遣して鷹を献上するなど、それなりの誠意というものは見せることが出来ている。
「さて、最上にも書状を送らなければな」
「伊達は相変わらず豊臣に膝を着かないわね」
「代わりに最上は豊臣に昵懇だ。伊達ももう少し中央に間者を置けば良かったものを」
「ま、こちらとしては好都合。上手く懐に入れば領地を増やしてくれる機会も多くなるでしょうし」
「後は、俺次第か」
「南部との関わりも考えなさいよ」
「言われるまでもない」
会話が終わったと見て、お福は外に顔を向ける。四季を伝える外の風景を眺めるのに何が楽しいのだろう。
「それから……」
「何?」
「何かあれば必ず報告してくれ」
「分かっているわ。内々のことは任せなさい」
どうしても為信は義弟の死から逃れられずにいる。常にお福も含めた家臣達の一挙手一投足に目を配り、完全に把握したがるようになってきた。限界があるのは分かっているし、お福が大浦の行く末を握っているのも分かっている。だが、当主としての誇りはどうしても譲れない。
「早く支度なさい」
「外を見るは楽しいか」
「ええ。退屈しないわ……それが」
「いや。別に」
「そ……」
目を外に向けたままお福は扇子を廊下へ続く襖へと向ける。為信はその合図で何も言わずに外に出た。
廊下の地面から伝わる冷たさがいつもより体にくる。
お福に聞こえないように溜め息を小さく吐くと城へと向かう。家臣達は関東に向かう号令を今か今かと待っている。落ち着かせつつも動かなければならないことを伝えてあらかじめ決めていた配置を整理する。
これまで最上に使者を差し向けて豊臣の下にいち早く帰参の意を示せた。後は為信自らが秀吉に謁見すればより確実な忠義立てとなる。
だが、因縁のある安東や完全に離叛した南部が為信の関東への出兵を許すとは思えない。たとえいざこざが起こってもいざとなれば彼らが惣無事令を無視したと言えば良い。
問題は中央の者にとって東北など人が住む所では無いと思われていることだ。彼らからすれば東北の勢力など誰がどうなっても構わない。忠義だけでなく、より利用しやすい者が加増されるだろう。
そのためにいち早く馳せ参じておき、どこにでも駆けつけることが出来る人間だと思わせる。
城に入ると為信は真っ先に執務部屋に入り、地図を取り出す。東北から関東にかけての道を探ろうと腕を組む。為信は数年前より単独で豊臣との接近を図っていた。家臣を大阪に派遣もしていたが、為信自身が向かうとなると周りの勢力も黙っていない。現に秋田や南部には彼の秀吉への謁見を何度も阻止されていて失敗に終わっている。
これまでは八方塞がりだったが、秋田実季のおかげで道は見えた。
為信は味方に据え置いた白い碁石を地図の左側にずらして回り込ませると敵に見せた黒い碁石を一つ飛ばした先にある黒い碁石の所に付け合わせた。
「さて……」
碁石を全て片付けると為信は号令をかけるべく、評定の間に向かった。
だが、翌日に間者から南部が前田利家を通じて豊臣への帰参が認められ、その途上で津軽が逆賊であるという方向に向かっていると聞かされる。
「何ということか」
為信は森岡以外が去った評定を行う広間で頭を抱えていた。
「徳川より返書は」
森岡の問いに首を横に振る。
津軽は徳川と前田を通じて豊臣への帰順を示すと昨日の評定で言ったばかりだ。
「前田は豊臣と昵懇の仲と聞く。これを覆すには徳川では難しいな」
「側近となる者ならば、石田という者がいるようで、その者を頼っては」
「伝手はあるのか」
「いえ……」
再び沈黙が訪れる。
だが、石田という男の噂はこの日ノ本最北端にも届いている。
奉行として各大名や有力商人に対して法令遵守を呼びかけ、規律を守らせているらしい。
はたして、それが長らく自身が権力の頂点だった者たちに快く伝わるかは分からないが。
「されど、殿。このままでは南部の思うがまま。急ぎ文を認めてくだされ」
「分かった。だが、俺たちが惣無事令を無視した戦をしたのは事実。ましてや、俺は南部の血を引いている。このままでは主家に楯突いた逆賊のままだ」
「確かに、惣無事令は最北端故に遅れたことを詫びれば良いこと。されど、殿の出自は……」
森岡も俯いてしまう。
為信の出自は南部の庶流である久慈氏となる。
この出自をそのまま活用すると為信は南部を支える家に生まれながら主家に刃向かった者とされる。
討伐対象から逃れるには何か手を打たなければならない。
自身が大浦の者であるという確固たる経緯が欲しい。
「……今、思い描いたものにございますが、一つだけ手があり申す」
「申せ」
森岡は頷くと為信に耳打ちをする。
そして、全てを聞き終える頃には正気を疑うように彼を睨み付ける他無かった。
「真にそうする他ないのか」
「某にもこれぐらいしか思い付きませぬ。されど、石田殿に認められれば活路は確かにありましょう」
為信は頷くと素早く立ち上がり、広間を後にする。
未だに当主が留守することができない状況下、豊臣内で南部寄りの意見が通っている中で自ら赴くのは危険すぎる。
執務をする部屋で筆を取り、慎重に書き進める。
ここで祈っても仕方ないが、石田に無事、思いが届かなければ文字通り大浦は死ぬのだ。
その後、大浦は最上を通じて石田三成を仲介に持ってくることに成功した。
返書では三成から秀吉に話をしてみると明記され、森岡と共に安堵の息を吐いた。
森岡の意見を聞き、続け様に石田だけでなく、織田信長の次男、織田信雄や秀吉の甥、羽柴秀次に鷹などを献上し、南部より独立した正当性を認めてもらえるように工作を始めた。
そして、二人からも感謝の意を示す書状をもらい、秀吉にも口添えをすると書状にて約定を交わし、ようやく京への本当の道が開いた。
そして、豊臣より上洛するようにと使者を遣わされた二十日後、為信は森岡に後事を託し、十数騎にも満たない部隊を率いて最上の仲介を経て秋田の領地を通り、京へと上った。
初めて見る京の景色に為信以下、視線を真っ直ぐにしておくことに必死だった。
あらかじめ、情報は得ていたが、大坂の町から町の間も人通りが絶えず、少しでも裏や堀の外にある所に入れば怪しい者がいるような堀越城の城下町とは全く異なる。
「かような町を作るとは、流石に天下人にございますな」
付き従ってきた沼田祐光が後ろで緊張気味の口調で言う。
「畿内であればかような光景は当たり前であろう。いかに我らが遅いか分かる」
それ以降は何も言葉を交わさずに大坂城を目指す。
しばらくすると武家屋敷に続く門が見え、門番に名を名乗り、上洛を命じられた書状を見せる。
門番についていた兵は中に入っていき、しばらくすると一人の将らしき人物と共に戻ってきた。
為信はそれを確認すると付き従う者たちに馬から降りるように指示をして、自身も降りる。
そして、会話ができる距離になると同時に相手側から口を開いてきた。
「石田治部少輔にございまする。大浦右京亮殿とお見受け致す」
「いかにも、大浦右京亮にござる。石田殿、お会いできて恐悦至極」
「褒めそやすことなどない。某はあくまでも成すべきことを成したまで」
石田三成は無感情な口調で、無言で振り返る。その後ろに付いて来るようにということだろう。
為信は従者たちと歩を進める。
三成は眉間にしわを寄せているが、よくよく見ると鼻が高く、つり上がった目とよく合っている。
「されど、石田殿には我らが主張を通していただいた恩義がございまする」
「決めたのは関白殿下であらせられる」
ぶっきらぼうに返してくる。顔からしてややきつい性格をしていると思ったが、そこは間違いないだろう。
だが、今は彼のことを詮索している場合ではない。
「して、石田殿。関白様はいかがか」
「ご案じ召されるな。処断すべき者を呼び寄せて叩き斬るような卑怯な真似は致さぬ」
「ならば」
「はっきりと申せば、某も関白様より正確な処置を聞かされておらぬ故、明言することはできませぬ」
明るくなりかけた心の天気がまた曇り始めた。
諦めるべきではないが、先程の三成の言い方を紐解くと処断ではなく改易などが直接通達される可能性もある。
「関白様が我らをどうするか不明なのは分かり申した。いつもかようにされているのですか」
「いや。普段は我ら奉行を行っている者にも言うべきことは伝えてくださるが、まだ定まっておらぬのやもしれませぬ……ああ、されど、ご案じ召されるな。必ずや話は聞いてくださる」
それ以降、三成は何も話さなくなり、為信の不安感が二人の空気を重くした。
城内に入ると様々な者たちとすれ違い、ほとんどから好奇な視線を送られた。
田舎者を見ている。それは覚悟の上でここに来たが、やはり気分の良いものではない。
「あまり気にされるな。申し訳ないとは思うておるが、皆、知らぬ者や遠国から来た者にはああなる」
「貴殿は違うのか」
「某は関白様が取り上げていただかなければ、近江の豪族として生涯を送ったであろう」
「関白様はやはり身分を問わずに登用されるので」
「ご自身がそうである故」
為信はそれを聞いて何となく秀吉の性格が見えてきた。
人望が厚いと聞いていたが、それは機転の良さからだろう。おそらく農民の出である彼にとって人脈を作るのはかなり苦労することだったに違いない。
「着きましたぞ」の声と同時に三成の足が止まる。
派手な襖を開くと堀越城の倍以上はあるでろう数十畳の広さの客間に通される。
三成は「しばし待たれよ」と言い、一旦部屋を辞した。
その間に為信は周りを見る。
高価そうな障子紙を用いた襖や音に聞こえる狩野氏が書いたと思われる屏風、飾られている掛け軸など、流石に天下人の財力を示すものがずらりと並んでいる。
身分の低い出自故にその反動で派手好きになったのだろう。
為信も他の武将に漏れず、質実剛健を基にしているため、あまり分からない。
周囲に夢中になっていると背後の襖が開かれる音が聞こえ、すぐに居直る。
「今少し待たれよ」
三成は言いながら斜め後ろに座る。
それからさらにしばらくすると斜め前にある襖が開かれる。
頭を下げたままその先から聞こえる足音が聞こえなくなるまで心の震えが続いた。
「津軽右京亮にござる」
「面を上げい」
言われるがままに顔を上げる。
目の前には小顔の中でひときわ特徴的な大きな目。決して端整とは言えないしわの多い頬回り。そして、何より為信が驚いたのはそのどっしりと構えている様だった。
(覇気が全く感じられぬ)
主は家臣に対して慈悲と畏怖をもって上に立ち、統率する者だと父や晴政から教わった。しかし、目の前にいる天下人には人々に畏怖を感じさせる威圧感は全く感じられない。しかし、疑っても天下人が御前にいる。間者からは影武者を持っているという知らせも来ていない。
「津軽よ、遠路はるばるよう参った」
「関白様のご下命あらば、某、東奔西走致す覚悟にて」
ありきたりな回答だが、とりあえずそう返すのが妥当だと判断した。
「ふむ。ありきたりだな」
秀吉はつまらなそうに脇息に肘を付く。
性格を知らない手前、こればかりは許してもらいたいと願っていると急に険しい表情を見せてきた。
「して、惣無事令に反し、事もあろうに主たる南部に反旗を翻したというのは真か」
為信は思わず上下の唇に力を入れ、互いを潰し合う。
当然、回答は用意しているが、いきなり本題に入られるとは思っていなかった。
あくまでも為信の想像だが、京や大阪など日ノ本の主要地にいる上流の者は話をしている最中でそれとなく疑問を聞いてくると思っていた。
かつて兵糧攻めなど時間のかかることを行っていたと聞いていたが、本質には短気な面があるのかもしれない。
為信は一呼吸置いて、口を開く。
「南部がいかに関白様に申したか存じませぬが、某が南部を討つは先の主である晴政様より今の主を討つべきという命に従ったまで」
秀吉の眉間のしわが少し動いた。
嘘のようだが、実際に南部は晴政と信直からの家督相続の間で一悶着が置き、晴政の実子、晴継が死んだ後に紆余曲折あって彼が当主に収まった。
その際に晴継派と信直派に家臣が分裂し、晴政は信直が一旦次期当主の座を譲った後も彼を恐れて何度か亡き者にしようと動き、信直派の家臣への圧力をかけるなど行ってきた。
為信も晴継派として動き、晴政が生きている間は力を蓄えるために動いてきた。その中で晴継が早逝し、信直が当主となったのは僥倖だった。
大浦が独立する時期が早まり、信直を倒すために立ち上がる勢力はいくつもあった。
「その言葉に偽りはあるまいな」
「南部が主を正しき系統に戻すために動き、叶わずにやむなく南部より出奔いたしました」
秀吉の目が真っ直ぐに為信を捉える。ここで目を離せば疑われるだろう。
「一月もせぬうちに北条を討つ。間に合わねば分かっておろうな」
「すでに我が軍勢を関東に向けて出立させる支度は本国にて整っております」
「良かろう」
秀吉は扇子を床に強く叩き付け、立ち上がる。
「大浦右京亮、直ちに本国に使いを出せ。関東にて再び相見え、共に北条を討とうぞ」
「ならば、我が大浦は」
「我が下にて粉骨砕身働くように。正式な沙汰は追って関東にて伝えよう。なに、今の領地は安堵させる」
「有り難き幸せにて」
駿河の三枚橋城に辿り着いた。まだ陣中には入れていないが、ここまで来れば邪魔をするような輩はいない。
休息ため、馬から下りている為信は適当な岩に腰掛けながら豊臣の陣営を眺める。山岳の多い駿河の東でなかなか見つけられない小さな野原から見上げるものはかなりの威容だ。
三枚橋城の城外では東西にと諸大名の旗が揺れており、開けた地には陣営が所狭しと並んでいる。そして、秀吉の馬印も西側に陣取っているはずだが、東からよく見えた。
「壮観だな」
「はい。されど、その中で我らも存在していることを示さねばなりませぬ」
隣で森岡が陽を遮るように額に手を当てている。為信は一つ頷くと進軍を急ぐと指示を出して再び動き出した。
馬に揺られながら山を下りる。沼津城周辺は開けているためにさほど道には困らずに進軍をすることが出来た。近隣の村からは既に人の気配が無くなり、並んでいる田畑も一部が踏み荒らされている。
時折、遠くのあばら家から視線を感じたが、殺気を感じることは無かった。平穏を望む民たちが恨みがましくしているのか、好奇の目を向けているのか。為信は一瞬だけ考えてすぐに豊臣のことへと切り替える。
諸大名が一斉に出揃うことになっている沼津城には徳川、前田、上杉など錚々たる面々が揃っている。
如何に彼らと渡り合うかによって大浦の東北での野望は決まる。問題は、まず渡り合えるぐらいにまで彼らが為信の方を振り向いてくれるかどうかだが。
中央の大名たちにとって陸奥などこれまで存在しないに等しい田舎である。ましてや最北端にある津軽などまさに霊界に等しい。
はたしてどのような態度で迎え入れるのだろう。内心恐々としながら為信は陣営へと入る。待っていたのは当然のことながら秀吉ではなく、その腹心である石田三成だった。
背丈は為信よりも小さく、奉行職らしからぬ、痩せた体型をしている。それでも秀吉の下、天下の趨勢を占う状況下に身を置いてきたせいか、目付きは鋭くこちらを見定めているようだ。
「馬上より失礼。某、大浦右京亮為信と申す。殿下の下、北条を討たんと兵を連れて参上いたした」
「遠路ご苦労。拙者、石田治部少輔にござる。馬を下りられよ。拙者の方より話を聞き致す」
間者から諸大名の風貌は聞いている。まだ敵か味方か分からない連合軍の中で表情を変えることなく、話を聞けたのは良かった。しかし、すぐに関白秀吉に会えないということは何か詰問されるのか、信頼されていないのか。
森岡に兵を任せて案内された通り、歩いて移動している間、三成は横を歩きながら為信の後ろを気にしている。
その動きで自身は信頼されていないこととその理由を察した。
「大浦殿、某や羽柴権中納言(秀次)様を頼り、関白様よりも保証」
「石田殿の申したきことは承知しております。後に我が家臣が本隊を連れて参上致す故に、ご案じ召されることはありませぬ」
南部もまた前田利家を通じて津軽を排斥するように訴えている。
為信と三成からまだ大浦の軍がはっきりと見える距離にいる。為信はこの遠征で先に秀吉と会うことが重要と考えて供回りの騎兵十数だけしか連れていない。しかし、その言葉に三成は納得したように頷いてくれた。
「左様か。先んじて関白様に忠誠を誓いにと」
「御意」
「結構。されど今すぐに謁見は適わぬ故、私が話を聞こう」
三成は為信そのまま陣から少し離れた所にある小さな寺に案内した。周りは林に囲まれているが、人里が近いため、かなり日の光が入り、明るい。住職には既に話を通しているのか、一言二言挨拶を交わすと中に通してくれた。
本堂の裏にある小さな屋敷は、寂れて雨が降ればどこかから水が入ってきそうな外見と裏腹に中の部屋がきちんと掃除が行き届いている。
「さ、こちらへ」
通された部屋は五畳ほどの小さなもので、決して豪華ではないが、不要なものが一切無く整頓されていて質素な雰囲気が漂う。
「某はこのような雰囲気が好きでのう」
座るや否や三成は間髪入れずに口を開く。表情や目を見ると本心から言っているのだろう。
「数寄も悪くないが、今ひとつ分からぬでな。ただあるだけで良い、この静けさが何とも言えぬ」
同意を求めるような目に為信は笑いながら曖昧に頷くしかない。
幼少より気を休めることの許されない東北の中で台頭していくには文化事に現を抜かすことが出来なかった。確かに静けさはあるが、趣だの何だのは異界のような存在だった。
しかし、石田三成という豊臣の腹心が口にしている以上、いずれは覚えなければならないのだろう。中央に近付くには武勇を誇るだけでなく、文化にも目を配らなければならない。秀吉の近辺を探らせていて分かっていたことだが、本腰を入れなければならないらしい。
思考に意識が行きかけていたところで、三成が一つ咳払いをする。その音で為信は目の前に集中を戻せた。
「さて、本題に入ると致そうか」
茶釜に湯を沸かしながら口を開いてくる。
言動から、この運びは三成の思惑通りのように感じた。
「遅参についてはこちらよりお詫び致す。陸奧より関東は遠く。我らに従わぬ者も多い故」
「それについては関白様の前でも伝えられよ。某も心得ておる故。関白様へもその旨、伝えておる」
為信は森岡と共に無言で頭を下げる。三成の問はさほど詰められることは無く、御家の事情や周辺で何が起きているのか確認されたぐらいだった。
「では明日。関白様の下に赴く故、神妙にな」
「御意。時に、関白様は我らの遅参をお許し頂こうとしているのか。よもや減封するなど……」
「ご案じ召されるな。されど、関白様の気に触れれば、くれぐれも慎重を期すよう」
「気に触れれば、でございますか」
「うむ。何事も無ければ南蛮の海の如き広さの寛大さをお見せ下さるだろう」
「御意。きちっとしておきまする」
「左様。それが良い。くれぐれも慎重を期すように」
三成はそう言うと茶を差し出すと「別の用向きがある故」とさっさと外に出て行ってしまった。
素っ気無い態度にが、懸命に堪える。ここで心象を悪くしても利益が無い。また、三成とは何度か書状を交わしている中でかなり几帳面であると感じていた。
豊臣の法令を定めて遵守させる大役を任されているだけに優秀であることは間違いない。しかし、彼にはまだ挫折を知らないのだろう。だからあれだけ自信を持った姿勢で他人に物を言える。秀吉が可愛がっていてなかなかそういった機会を得ずにいたからに違いない。
人は一度痛い目を見れば欠点に気付き、穴を埋めようと努力する。しかし、三成はおそらく豊臣のぬるま湯に浸かり、足下が見えていない。
それでも秀吉が彼を可愛がるのは何か才能に秀でているからだろう。秀吉もまた才能でのし上がってきたが故か、家柄ではなく才を見る。
「酔っている。か……」
為信は哀れだと鼻で笑う。秀吉から受ける寵愛と己の才能に自信があるからこそ自分より上の者に尊大な態度を取れるのだろう。
為信も間者から三成のことは聞いていたが、取り入るのは保留とした。一回り大きくなった時、可能性があるならば考えてやらないでもない。だが、変わらないのであれば他を当たることになるだろう。
「決めておかねばな」
為信はすぐさま自陣へと引き返し、間者を呼んだ。
石田は豊臣の腹心であり、その権勢はかなり大きなものである。おそらく彼になびく者が多く、なかなか対応しきれないのだろう。
いざとなれば秀吉を縦に権威を震える力を持ち、それを知りつつ臣下として扱われている。三成の言葉は天下を動かすことが出来る代物。大浦を潰せと三成が言えば秀吉はそれを止めずに実行するだろう。
あの素っ気無い最後の態度が大浦を警戒して為信を殺すことを心中で考え、思わず動いた行動であれば背筋が震える。
その一方で少し嬉しくもあった。大浦は東北で最も大きな勢力と言われている伊達や最上と比べるまでもなく小さい。わざわざ詰問などせずに従うなら勝手にしてくれと思われる扱いも覚悟していた。
そう考えれば三成の言葉はおそらく彼の一存であり、思っているからこそしつこく慎重を期すようにという言葉は出てくるものである。どちらが正しいのか悶々としつつも為信は外に出て待機していた手勢をあてがわれた陣へと移す。
三成が出てきたとなれば当分は彼の配下になるのだろう。あの
に見える者がどうしてあそこまで勢力を大きくさせたか、見てみる好機でもある。無論、秀吉との謁見を果たしてからになるが。
三成への期待と秀吉との謁見を不安を胸に為信は全く眠らずに翌朝を迎えることになった。
秀吉との面会は翌日行われた。元々はもう少し先になる予定だったが、急遽、秀吉が予定を合わせたらしいと三成が言っていた。
「着きましたぞ。この先に関白様がおられる」
そのような思案をしている内に三成は最も大きな陣幕の前へと案内してくれた。決意を固めるように大きく息を吸うと家康に頷く。
「石田治部少輔、大浦右京亮をお連れ致した」
「お入り下され」
中から小姓らしき声が返ってくる。間髪を入れずに三成は兵たちによって開かれた陣幕の中へと進む。おそらく側近と思われる家臣が五、六人。品定めをするようにこちらを見ている。
だが、為信は彼らの視線よりも一番奥で毅然とした表情で座っている小柄な男に目が行っていた。
「大浦右京亮にございまする。関白様、お目通りいただき、光栄至極」
「面を上げい」
甲高い声が陣幕に響く。近くで見ると何か変わると思っていたが、覇気は相変わらず感じられない。しかも、世の中で猿と揶揄されている理由がよく分かる顔付きと体付きを見せつけられる。
「日ノ本の最北端より、よう参られた。これよりは、日ノ本の天下統一がため、共に励もうではないか」
「はっ」
「それに、儂は上様に仕えてより西にはよう向かっていたが、東や北には行ったことがなくてのう。いずれは東北にも向かうが、その時には頼りにしておるぞ」
本心ではない。東北の中で一番重要視されているのは、最上と伊達であり、前者こそが豊臣にとって最も大切にされるべき存在である。
平然と嘘を言えるにもかかわらず、どういう訳か嫌な思いはしない。口調か、態度か、体躯か。謎だからこそ親しみが深まるのだろうか。そして、為信もまた秀吉の人たらしの性質の中に加わることになる。
「有り難きお言葉。この津軽、関白様の天下統一がため、精々精進致しましょう」
「うむ。後で正式に申し伝えるが、お主は徳川殿と下に加わってもらう」
「御意」
関東から北の大名の多くは徳川の下に入っていると聞いている。今後の関東から先は徳川が仕切るということだろう。
翌月に豊臣軍は小田原城を完全に包囲した。十五万という古今東西聞いたことの無い大軍勢である。片田舎で一万の兵も率いたことのない為信も壮観な眺めに思わず息を呑んだ。
陸も海も秀吉に従う日ノ本全土の大名の旗印が立っている。生涯会うこともないと思っていた中国の毛利や九州の大友、島津といったそうそうたる大名の中に身を置いていると思うと為信は自分の置かれている立場に畏れ、悔しさを噛み締める。
だが、豊臣の傘下に入った将は皆が強い勢力を保持したままでいる。豊臣が日ノ本の金脈を支配しているとはいえ、金の力だけで人が付いてくるとは思えない。秀吉が今は人望の厚さで補っているが、はたして今後どうなることか。
もしかしたら思わぬところで加増があるかもしれない。淡い期待は抱かない方が良いことは知っているが、為信は今の領地で満足などしない。
今後如何にあの家康と上手くやるか。思案をしていると前から森岡が声をかけてきた。
「殿、関白様より諸将は本陣に集まるよう知らせが」
「あいわかった」
全員を集めるとなるとかなりの吉報か凶報か。どちらにせよ、津軽に優位になればどうでも良い。
豊臣の陣営に向かうと諸将が続々と集まっている。為信もその中の一人として所定の所へ腰掛ける。
「皆、よう集まってくれた。ようやく泰平の世が訪れようとしておるぞ」
奥州の伊達政宗も秀吉の前に膝を着いた。
それが秀吉よりもたらされた知らせだった。白装束で現れたと聞いたが、為信もその様を見てみたかった。命を乞う無様な独眼竜を。
最上と伊達、二大大名が臣従したことで東北の命運も豊臣に握られた。
一大勢力であり、散々惣無事令を無視し続けてきた伊達が降ったと聞けば残りの参戦していない東北の者たちの命運は尽きただろう。追放か、減封か、いずれにしても厚遇されることはない。これが上手く大浦に取り込めれば良い。何とかして秀吉や彼の腹心に取り入らなければならない。どうしてくれようかと思案していくだけで口元が緩みそうになる。言葉巧みに加増していき、減封されていく他勢力を想像するのは甘美である。
「諸将よ。北条を討てば泰平の世は成ったも同然。褒美や領地は諸将らの働きによる。楽しみにしておるぞ」
大名たちがこぞって頭を下げるのにつられて為信も同じように続く。
本領安堵の約束は交わし、後は奮戦して如何に南部よりも大きな領地を得られるかだ。為信もそう思いながら頭を下げ、居直る。
「殿下、お待ち下され」
為信は驚いて声の方を見る。何か口を開く者がいるとは思っていなかった。ましてや声が聞こえてきた方向は一番に有り得ないだろうと思っていた者がいる所だ。
「関白殿下、かの大浦為信は家臣であったにもかかわらず我らが領土を侵した不忠者にございます。何卒お考え下され」
南部信直が必死な形相で秀吉に訴えている。彼は南部晴政の養子で、紆余曲折あったが、何とか実質的な当主となっている。
しかし、家中では相変わらず不穏な火種を抱えていて、為信不在の大浦さえも満足に被害を加えることが出来なかったらしい。
(悪あがきか……)
かなり効果的な場面で使ってきた。信直は活発な義父、晴信と違い、寡黙で慎重な人間だと聞いていた。ここしかないと思ったのだろう。ここぞという時の度胸は持ち合わせているということだ。為信は想定外の展開に頭を悩ませる。
それにお構いなく諸将がこぞってこちらを向いてくる。だが、そのような下剋上など乱世ではよくある。そもそも秀吉は農民の出。まさしくその鑑と言える。
「それだけではございませぬ。殿下が惣無事令を出された後、我らの領土を侵し、城を奪い申した。これは殿下のご意思に背くこと」
「……大浦。その方が惣無事令をやむを得ず反したことは聞いておる。されど、話が違うことがあれば改めねばならぬぞ」
冷たい言葉の刃が為信の首筋をなぞり、背筋に走る。だが、ここで屈するのは恥であると為信は秀吉の目を強く見つめる。
「某は左様なことなどしておりませぬ。南部と戦をしたのはあくまでも戦を起こした者を鎮めるためにございまする」
「左様なことはござらぬ。戦を起こしたは大浦にござる」
「否、それは……」
「お二方辞めなされ。殿下の御前であるぞ」
秀吉の右前に控えていた三成の静かな一喝によって為信は反論を見事に止められた。これまで止められる存在がお福しかいなかった彼にとって自らの住んでいた井がどれほど小さかったか改めて思い知らされた。
討伐軍の一角として参戦したとはいえ、兵の数は他の大大名とは比べものにならない。彼らの前で醜態を晒したのは良い笑いものだ。少しの沈黙の後、秀吉は二人から視線を外し、口を開く。
「加賀大夫」
「はっ」
「お主は南部を受け入れたな。如何に思う」
秀吉の左前に座っているしわが八方に伸びているのっぺりとした顔。前田利家は加賀一帯の北陸を治める大名で、家康と並んで豊臣の下で最も強大な勢力を誇る。そして、織田信長が生存の頃から秀吉と前田は親交が深い。彼の一言によっては処分を帰るかもしれない。顎に生えた髭を何度かさすり、前田は秀吉へと口を開く。
「拙者は南部の申すことに理があるかと。いかような形であれ、主に刃向かったことに変わりはございませぬ」
信直の為信に対する表情が勝ち誇ったものに変わっていくのがよく分かる。死んだ目の下の隈がひどく、端整な顔立ちなはずの面影が全く感じられない辛気臭い顔がいつも以上に腹立たしい。
「お待ちくだされ」
中性的な声が陣に響き、全員の視線がそちらに向けられる。
「治部少輔(三成)、何かあるか」
「は。南部殿にとって津軽殿が怨敵のごとき存在であることは承知しておりまする。されど、今は共に関白様に忠誠を誓う者。対して北条は明白に逆らっております故、ここは後に致すべきかと」
この場にいる者のほとんどが首を捻りたくなっただろう。
前田や南部が慌てて反論しようとするが、その前に秀吉の甥である秀次の口が開いた。
「治部少輔の申される通りかと。ここは関東の地。東北にはまだ関白様に忠誠を誓わぬ者もいる中で、津軽は関白様に忠誠を誓われた故、追って沙汰を下すべきかと」
為信は自分で口や体を動かさなかったことを褒めた。
信直は唖然とした表情で前田の方を向いている。中央の大名たちはこんなにも日和見ばかりなのだろう。秀吉に尻尾を振って、その褒美にありつきたいのか。それとも為信がまだ秀吉の恐ろしさを知らないだけか。
理由を教えてくれる者などいないだろう。知りたくもない。もし知って自分もあのような犬の如き存在になれば家臣はおろか、お福からも呆れられるに違いない。
今は秀吉に忠誠を誓い、朝廷に近付く。そして、紛うこと無き箔を手に入れることが大切だ。
「まぁ良い。このことは追って沙汰をする」
「ははっ」
信直は仰々しく頭を下げ、為信を睨み付ける。為信が用意された場所へ座ると秀吉はすぐに小田原攻めへの道筋を語り出した。
為信からすると考えられない物量であり、それを活かした戦略は実に魅力的に感じられた。いつか自分も十万以上の兵馬を用いた戦の総大将を務めてみたい。それが夢幻のことであっても想うだけでも良いだろう。
「此度の戦は北条の息の根を完全に止めることが肝要。諸将には奮戦を期待しておるぞ」
秀吉がそう締めくくり、軍議は終わった。諸将が自陣に戻る中、為信はずっと強い恨みを持った視線を感じていた。あえてそちらを見返すまでもないと為信は堂々しつつ、足早に外へと出る。幸い、あれだけの言い争いをした後でまだ未練がましいことをしたくはないのだろう。
味方とはいえ、足の引っ張り合いをするなとは言われていない。間者に南部のことを警戒するようにと一番に伝えようと思いながらさらに歩幅を大きくする。
「大浦殿にござるか」
一歩踏み出したところで突然、背後から声をかけられた。素早く振り返ると鋭い眼光をした背の高い将が堂々と立っていた。
「左様にござる」
「某、徳川三河守と申す。少しよろしいか」
目つきとは対象的な穏和な口調、それでも威圧感を感じさせる。白髪交じりの髪と髭は様々な死線を潜り抜けてきた経験からくるものだろう。
徳川家康はこちらの状況も聞こうとせずにこちらに来いと促す。付いて行って通されたのは三成の陣営の中だった。
「こちらへお掛けを」
時間を無駄にしたくないのか急かすように手で示し、為信が座るのも待たずに腰を下ろす。
以前、遣わした使者から聞いていたが、確かに毅然としていてどこか取っつきにくいところがある。それは目つきや表情、言動からではない。人としての雰囲気が他人を寄せ付けないと言っている。
「先程はぶしつけなお言葉を失礼致した」
「いえ、某も突然声をかけた故」
「して、何用にござるか」
「はっきり申さば、某は貴殿のことを全く知らぬ。また、信用し難いと思うておる」
最北端の地であるが故に知らないと言われるのは我慢出来る。
表情をあまり変えないようにしたかったが、さすがに眉間のしわが動いた。いくら徳川は豊臣の中でも最大勢力を誇る大大名とはいえ、初対面で悪い本音を聞かされるとは思ってもいなかった。
むしろ、だからこそとも思える。豊臣という日ノ本の統率者の下でほぼ独自に動けるような立場を許されているからこそ傲慢に諸将に振る舞える。そして、秀吉が徳川の下に加わるように言っていたが、そのための鋭い牽制かもしれない。
そう考えれば納得がいく。
しかし、と為信は首を捻りたくなる。初対面の者にいきなりはっきりとした物言いをされて、ましてや悪く言われて気分を害さない者などいない。
「されど、貴殿には殿下の傘下に入った以上、それ相応の働きを見せてもらわねばならぬ」
「それは無論のこと。我ら大浦は殿下の築く泰平の世のために粉骨砕身働く所存」
「殿下の目指す泰平の世を乱さんとする北条を討った後、東北の諸将を平定致す。貴殿は不穏な動きがあれば必ずや報告願いたい」
「承知しておりまする」
為信の返答に満足したのか家康は一つ頷くと表情を変えずに口を開く。
「では、これより関白様がため、東北の諸将を押さえる働きをして頂きたい。下剋上にて成り上がりし智謀、期待しております故、関白様が天下を汚さぬよう」
「承知」
「精々、殿下の御期待に応えるよう、よろしくお頼み申す」
頭を下げて家康は為信を外に促すべく襖を開ける。願ったりだと勢いよく立ち上がると見送る相手も見ずに廊下に出て足早に去る。
馬に跨がると「さて次は……」と呟きながら門を出て行った。門番は特にこちらを見る素振りも無い。
陣へと帰る中、先程の会談を思い返す。分かったことは徳川家康という武人はかなり曲者だということだ。何度も秀吉のことを指す関白様という単語を口にした。
自身とお福とは違うあるべき主従関係である。遠慮無く意見を言い合える自身と森岡との間柄ともまた違う。
だが、それが本当に真の徳川家康という人間なのかとも疑ってしまう。
為信も戦国大名として何となくだが、人を見る目は持っていると自負している。
家康は秀吉と一度は天下を競って争っている。本当に慕っているのであれば織田が衰退した後、すぐにでも帰順すれば良かった。
それが今やあのように秀吉のことを慕っているのはかなり胡散臭い感じを抱いてしまう。
何か裏を持っているのは明白だが、あれだけ見え透いたことをしてくる理由が分からない。
首を捻りながら森岡にこのことを伝えるべきか迷いつつ、為信は陣へと戻った。
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