豊臣秀吉は小田原城を落とし、北条を降伏させた。

 当主の父である北条氏政は切腹し、当主、氏直が追放されたことによって秀吉に対抗出来る勢力は無くなり、実質上の天下統一が成された。

 これから小田原に参陣しなかった者を中心に東北にも処分を加えると秀吉は謳っており、為信ら東北の大名にも召集がかかった。

 為信はこの機を逃すまいと戦後処理のついでに堅牢と名高い小田原城を隈無く観察することにした。

 小田原城の中は本丸や天守閣だけでなく、出丸から櫓までに死角の無い造りになっている。あるとすれば南側だが、海に面しているために陸からの攻略は難しくなっている。また城の中には端正に整えられた庭園がこしらえてあり、まさに風光明媚と言える。

 威容と美を兼ね備えることで人の心は揺らぐのかと思うと為信も本拠を改めたくなる。

 しかし、金の他に今後は勝手な改修が許されなくなると聞いている。また、秀吉に取り次ぐのは石田三成であるため、理由も含めてかなり細かく言われるだろう。

 彼のことは為信も陣中で西国の諸大名や豊臣の直臣など様々な者から人となりを聞いたが、あまり好意的なものは得られなかった。

 法令を優先し、こちらの事情をまるで考えずに裁定を行ったり、武勇が無いくせに算術だけで秀吉から気に入られているなどなかなかの悪評であった。

 自分も思い返してみると敵にあまり好意的なことをした覚えは無い。

 そもそも東北の者たちは馴れ合いを続けてきたからこそ、あれほどまでに権力争いが顕著になり、腐敗したのだ。そこに情を見せれば付け入れる機会を与えてしまう。その油断によって石川は城下で略奪行為を許すという事態になった。今思えば苦しい思いをさせたと思うが、過ぎたことである。

 その一方で味方にはそれなりの恩情を与えてきた。二人の野望を果たすには御家という駒を使わなければならない。

 支えてもらうには家臣の手も必要である。津軽に限らず東北の家臣達は旧来から恩義よりも利益を優先させることが多い。だからこそ恐怖と利を上手く利用して立ち回り、為信への忠誠を高めてきた。

(まぁ、民には手を出してはおらぬし、恨み言を聞いた噂も無い。大丈夫であろう) 

 為信は自分に言い聞かせ、小田原城の戦後処理を進める。兵に指示を出しながら自らも手を使っていると彼らの信頼も得られる。

 夏の太陽が照り付ける中での作業には兵も倒れてしまうが、為信自ら駆け寄ると周りから信頼と畏れを持った視線を向けられる。

 兵に上手く動いてもらうには、彼らの忠誠心を集めなければならない。

 涼しげな所に運び入れ、休憩と夏の暑さでかいた汗を拭い、曲がっていた腰を伸ばす。

 家臣から与えられた水を飲んでいると渋い表情の三成が目の前を通って行った。誰も話しかけないで欲しいという気をまとっている。

 三成が総大将として攻めた北条方の忍城の攻略が上手くいかず、小田原城落城の報告を聞いた城主がようやく開城したことで終止符を打った。それだけではなく秀吉の必殺と名高い水攻めを喰らうという失態と主立って守っていたのは城主の娘であるというのが、彼の屈辱をさらに強めている原因だろう。

 もっとも、為信は身近に女の恐ろしさを一身に集めた者がいるため、さほど他の男より偏見は持っていない。だが、ほとんどの者が女のことを侮り、言葉に耳すら貸さないことがあるのも事実だ。

「あれのことは気にせずに良いかと」

「これは大谷刑部殿」

 不意に声をかけられて振り向くと三成とは違う穏やかな丸い目をした者が静かに立っていた。大谷刑部少輔吉継、三成と同じ文官的な立場だが、加藤、福島ら武断派とも上手くやっているらしい。

 見れば確かに物腰が柔らかそうで、戦場だった荒れ地に優しく水を注ぐような穏やかさがある。

「今少しよろしいか」

 快諾すると大谷は本丸の方へと誘ってくれた。中では豊臣の直臣達が動き回っている。譜代が優遇され、外様はあしらわれる習いとはいえ、される側になると気分が良いものではない。

 大谷は中に入ってすぐの所にある薄暗い部屋に通してくれた。おそらく門番の詰め所として使われていたのだろう。猫が通れるような小窓が人では届かないところにある。

「かような部屋しか無いのは真に申し訳ござらぬ」

「大谷殿、某は陸奥の田舎大名。刑部少輔の地位を持つ貴殿がそう頭を下げずとも」

「いえ。関白様の下で出世を果たしたとはいえ、大浦殿の如き修羅場を潜り抜けてきた方からすれば私など小物にござる」

 上手くこちらを卑下して心に取り入ったと思ったが、相手もなかなかの傑物のようだ。こちらの意図を読み取り、気を良くさせて豊臣に心を近付けようとしている。

「して、如何なることで某めを」

「治部がご無礼をしたようで真に申し訳ござらぬ。あれに変わってお詫び致す」

 このままでは埒が明かないと話を追って本題を切り出した途端に大谷は頭を下げてきた。

「いやいや、あの者もまた関白様の下で泰平の世を築き上げたいのでございましょう」

 大谷の表情は相変わらず穏やかだが、目が笑っていない。上手く三成を出汁にして豊臣への不満を為信から引き出そうとしている。なかなかに黒いと思いながらも為信は大谷の話を聞く。

「故に、責を多く背負い、周りが見えぬのでしょう。忍城の際も、早う城を落とさんと躍起になった。守りを固めていたのが女であるのもいけなかった」

「石田殿は真に頭が固い。女は男より恐ろしいものであるというに」

「まったく。女子の執着する心は男をも上回る時がある」

「大谷殿、貴殿にも身近にさような者がおられるので」

「いえ。私ではなく、関白様のことにございまする。何ともまぁ……あのお方の様を見ると。過ぎたるは何とやら……偉人の言葉を思い出すのでござる」

「……ははっ」

「如何なされた」

 平静を努めていたが、為信は少し引きつったような笑みを浮かべていた。何でもないと手を振ると大谷はそれ以上問うてくることも無く、あっさりと話題を変えてくれた。

「時に、大浦殿は南部殿が家臣、九戸のことをご存知か」

 無論だと頷く。九戸は南部の中でも序列は最上位に入り、先代の晴政の娘は九戸家当主の政実の嫁である。今は信直との当主の座を争い、自ら南部の当主だと公然と言い放っているらしいが、南部の衰退を望む為信にとってはどうでも良いことだった。

「九戸がもしや反乱でも」

「そのまさかである。千程の兵を城内に集めていると噂が」

 九戸政実は南部家の重臣で、器量が良く、南部家の勢力拡大に大いに貢献してきた武将である。また幾度も南部家内の分裂に介入して和睦を結ばせるなど知略や機を見ることにも優れている。

「愚かな。今や関白様のご威光と物量は日ノ本に敵なしと言うに……ならば、我らは隣国の者として万一に備え、戦支度をせねばなりませぬな」

「さすがにございまする」

「すぐに書状を送りましょう。されど、何故に九戸はこの時に……」

「自らが南部の主である。そう謳っているようですな」

 あまりの唐突かつ愚かな行為に「ふむ……」と為信は首を捻る。

「何か気になることでも」

「某は南部と幾度も戦ってきた身。一度九戸とは会ったことがございますが、かような時勢であのような事を起こすとは思えませぬ」

「誰かに唆されたのか。はたまた、御しきれぬ欲望を抑えきれなかったか……いずれにせよ、敵であることに変わりはござらぬ」

「如何にも、某も一度本国に戻り、戦に備えると致しましょう」

 大谷は自分を疑っている。九戸が反乱は南部が弱体化して大浦が勢力を拡大する好機。裏から何か糸を引いていると勘繰られてもおかしくない。

 だが、為信は有り得ないと首を心中で横に振る。

 たとえ九戸を滅ぼしたとしても南部の領地を好きに奪える訳ではない。南部の統率力が低いと天下に見せつけることになるが、それが大浦にとって美味しいことにはならない。

「ご案じ召されるな。関白様の軍が来るまで無闇なことは致さぬ」

 大谷はその言葉に心から安堵したと目元も緩ませた。笑みを返す為信だが、なかなか信頼を得るのは難しいと内心は複雑である。

 そのような心境も介さずに為信は大丈夫と思ったのか、大谷は別の思考に入ったと眉間にしわを寄せて首を捻った。

「そも、何故にかような時に九戸は謀反などを起こすのか」

「因縁でしょう」

「何か存じ上げておいでで?」

「少々長くなり申す」

「構いませぬ」

 大谷の許可を得た為信は彼らの歴史をゆっくりと語り始めた。

 嫡男がいなかった南部晴政が有力な家臣である石川家より信直を迎え入れて養子となった後、晴政に嫡男の晴継が生まれ、南部家は二つの派閥が出来た。一つが南部家の重臣である北信愛を筆頭とした信直派。もう一つが九戸が推す晴継派である。

 結果的には信直が養子の座を自ら降りて自身の館に籠もることで事は解決したはずだった。

 しかし、問題はそれからだった。晴政から家督を受け継いだ晴継が父の後を追うように病死したのである。そこから二つの派閥は揉めに揉めた。再び信直を南部家の当主として担ぎ上げようとする北達と晴政の二女の婿で一族の有力勢力である政実の弟である九戸実親をと推す九戸一族の間で激しい議論が交わされた。

 結果的に北達が別の有力な豪族を調略し、議論を優位に進めたため、信直が南部家の当主になることに決まった。しかし、政実は信直を主と拝むことを良しとせずに自分の領地に帰ってしまった。

 それから九戸は公然と自分が南部家当主であると称している。以前、為信にも密書が届いた時にもそのような内容の文書が認められており、花押も南部家のものを使っていた。

「主家に背いて勝手な行動ばかり。何故に南部殿は動かぬ」

「実は、それにも故がございまする」

 呆れてやれやれと首を振る大谷に為信は一つ咳払いをすると再び語り始めた。

 元々、三戸南部と九戸は室町幕府が機能していた頃は同列と見なされていた。それが乱世の中で徐々に変わっていき、実力者の晴政が国衆らの長として君臨し、周囲はそれに同調するという体制になった。

 それ故に九戸の中には晴政亡き南部より格下に見られること気に入らないと思う者もいたのだろう。

 南部家に忠誠を誓っている者も万が一のことがあれば九戸になびく可能性もある。兵を持つ国衆達もあくまでも三戸南部は我々の取りまとめ役という認識で日和見する者も多く、号令をかけて南部の下に駆け付ける者はいかほどいるかも掴めない。

 だからこそ下手に南部から仕掛けることも出来ないまま、いたずらに日数が過ぎている。

「関白様のご威光が今や日ノ本全土に届こうとしているのに……」

「東北は遠く。様々な豪族が婚姻関係で結ばれておりまする。故に、身の回りのことへ目が行ってしまうのは道理なのやも」

「やむを得ぬのか……承知致した。この大谷刑部、東北の平穏がために微力ながら手助け致す」

 為信は感謝すると頭を下げる。それと同時に内心でほくそ笑む。

 秀吉の懐に飛び込む楔は打ち込めた。相手に裏が無いとは言えないが、大谷は三成より話が分かる。これを利用しなければ大浦が生き残り、大きくなれない。しかし、それを良しとせずに未だに乱世の下剋上を夢見る東北の諸将は豊臣に抗おうとしている。

 為信の下にも決起の書状は何度か届いたが、全て燃やした。大谷にも言わずに彼と別れると内に秘めてた笑みを表情に浮かべる。たとえ秀吉が行って一応の平穏は訪れてもその先は長くもたない。中央と東北はあまりにも遠く馴染みが薄い。押し付けられた平穏に喜ぶ楽観的な武士など東北にはいない。どこかで火種は必ず燃える。

 そして、為信もまた下剋上とは違う形でのし上がることを諦めてはいない。だが、東北の豪族と為信には大きな違いがあると自身で確信していた。

 未だに乱世が続き、東北のことなどに豊臣など首を突っ込むわけがないと参戦していない豪族達は思っている。だが、秀吉を見た為信は豊臣が本気で日ノ本全土を掌握しようとしている気概を持っていると感じていた。

 今までの武で魅せる下剋上の時代は終わり、新たな下剋上の形を見出していかなければならない。

 如何にしてのし上がり、野望である大浦の安泰と陸奥の支配を成し遂げるか。思案しながら自陣に戻ると森岡が一番に声をかけてきた。

「殿、奥方様より文が」

 お福から送ってくるのは珍しい。余程の事態が起きたのだろうか。逸る気持ちを抑えながら受け取ると陣幕の中で文面を改める。

 想定していたが、九戸の反乱についてであった。お福はこれを機に南部に介入してまとめて滅ぼしてしまおうと訴えている。もう三年早ければこの戦略を取っただろう。しかし、今は勝手に戦をすることを禁じられ、秀吉の耳に入ればどのような処分が下るか分からない。ましてや為信は今、南部信直と同じ場所にいる。彼が知れば何をされることか。

 すぐに為信は自分が戻るまでは動くなと返書を認める。さらに間者を呼び、指示を下した。


 大谷を通じたく水面下での交渉も上手く行き、大浦は本領を安堵され、加増までされた。

 これにより南部の訴えはことごとく取り下げられたことが示されており、悔しそうな表情をしている信直を見た際には内心、笑いが止まらなかった。南部もまた本領を安堵されたが、大浦に奪われた領地を取り戻す好機を逃がしてしまった。

 九戸の反乱を機に、三成に南部の統率力の無さを秀吉に訴えてさらなる加増を為信は望んでいたが、思った以上に周辺の領地が秀吉の直轄地となってしまった。

 これ以上、野心を剥き出しにするわけにはいかないと少人数で為信は上洛を果たした後に朝廷へと近付いた。

 あらかじめ間者を通じて受け渡していた貢ぎ物のおかげで早くに近衛家の者に近付くことが出来た。おそらく半年分の兵糧を使い果たしたであろうぐらいの代物である。

 お福との約束を果たすためには朝廷に近付き、少しでも恩恵を受けられればこれに越したことはない。南部はどうも関白の方へと媚を売っているようだが、為信は秀吉の天下は長く続かないと感じていた。依然として大名たちが大勢力を誇り、多くの者たちが豊臣家ではなく、秀吉に忠誠を誓っている。秀吉が死ねばはたして大名や豊臣の直臣たちを押さえる者が誰になるのだろうか。

 その様を見ていると為信も他人事ではないと危機感を募らせている。

 手を打たなければ豊臣は潰れるだろう。しかし、秀吉は天下を統一したことに満足したように政を家臣達に一任している。一人で抱え込む負担を考えれば確かに良いことかもしれないが、御家を安泰に導くには一族の力を強くしてしっかりした柱を立てることである。

 その柱の資材となる箔を得るために為信は数人の護衛と共に京に上り、御所へと向かった。

 応仁の乱以降、廃れていたと聞いたが、乱世が終わるにつれて修復が進んでいる。まだ、壁などにほころびや落書が見受けられるが、かつての威容は戻ってきているという噂は本当のようだ。

 貴族達の住む屋敷や庭は良く整えられていて僅かながらにもそれぞれの好みが分かるようになっている。華々しさを好む者は門が大きく絵柄を入れ、侘びたものを好めば門だけでなく、家も小さい。中もおそらく趣向を凝らしたものになっているのだろう。

 それだけ余裕が持てるのであればまずは食べるものを、と思うが、それはおそらく田舎侍の考えと一蹴されてしまうだろう。

 だが、田舎侍が故に為信は御家と領地のために奔走しなければならない。

 部屋に通されてから四半刻(三十分)。国に帰ってからの施策を考えながら目的の人物の到来を待つ。

 八月故か、涼しげな水の音が庭から聞こえてくる。それでも、為信の体や額には暑い日差しのせいか汗が滲み出ている。

「待たせたの」

 件の人物は形式通りの詫びを入れながら上座へと座る。警戒心の強い野良犬猫も懐きそうな穏やかな顔つき。お歯黒を塗り、顔には白粉と丸く描かれた眉。如何にも貴族であるという容姿を引っさげて。だが、体付きは華奢ではなく、有事の際には自らも戦えるのではと思えるほどの体躯をしている。

「お初にお目にかかり、光栄至極にござる。近衛様」

 近衛家は古来から天皇を支える側近として仕え、乱世でも威厳を保ち、朝廷の権威を維持してきた。その中心として常に近衛前久は先頭に立ち、巧みに生き延びた。かつては関白として織田信長と朝廷の間を取り持ち、影では本能寺の一件に関わったのではと推測が立つほどの切れ者である。

「苦しゅうない。そなたのおかげで家来が飢えずに助かっておる。むしろ礼を申すはこちらよ。大浦殿」

 前久は穏やかな口調で、為信の緊張を解そうとしている。

 実際に為信はこの会談を成功させるために多くの援助を近衛家にしてきた。

 さすがに懐に入り込むのも上手い。落ち着いた雰囲気を言動で作れてしまうのは持って生まれたかのような自然さがある。

 貴族がかつて武士達を馬車馬のように扱っていたのは過去の話。

 今や武士の助けなければ食べるにも困るのだから向こうから蔑むような言動は見られない。

 中には未だに意地を張っている者もいるようだが、少なくとも前久は現実を見ているように感じた。

「さて。お主は余に如何なる見返りをする?」

「何を仰るやら」

「ふふふ。他の者ならおだてる故にそう返すのが当たり前じゃが……余には不要。そのようなものは時間の無駄」

 前久の目つきが確実につり上がっていくのが分かる。

 貴族と侮っていたが、さすがに乱世を巧みに乗り越えてここまで生き延びてきただけに人の本音と嘘を見分ける感覚は兼ね備えている。

 少しして前久を睨んでいたことに気付き、慌てて眉根に寄っていたしわを解く。しかし、気にしていない素振りで前久は口を開く。

「あの秀吉にも関白の席を与えたが、生憎、奴の生まれがどうしても邪魔してな」

 残念そうに前久は首を振る。

 秀吉は生粋の農民の出。

 藤原の姓を与えて関白を以てしても征夷大将軍にはなれない。恩を着せて貴族も援助してもらえる間柄にしたは良いが、やはり生粋の武人かつ名家の者との繋がりが誇りだけ高い貴族は欲しいのだろう。

 好機と踏んだ為信は迷わずに口を開く。

「某の血には近衛様と同じものが流れておりまする故、何卒、それをお認めしていただきたく」

「ふむ。南部の逆賊であることを認めぬよう、お主の先祖が余の先祖の落胤であることにでもするか」

 為信は黙り込む。

 森岡と共に南部の一族であることを隠すべく、大浦一族であることをでっち上げ、さらにその元を修正するなど根回しを行ってきた。

 もちろん、前久も彼の主張が捏造されたものであることなど、承知でこの会談を受けている。

 改めて口にしたのは為信のことを試したのだろう。

 内心、動揺したものの表情は一切変えない為信を見て、前久は口元を緩める。

「まぁ、良い。お主からは米に金子にと大いに助けてもろうておる。これはお主より訴えられたことにしよう。それから今納めている領地を治めるのであらば余が許可する故、南部との決別も込めて名を大浦より改めてはどうじゃ」

「有り難きお言葉にて」

「ふっ、敏いにもかかわらず、爪を隠すか……まぁ、良い。顔を立てるところは褒めてつかわす。なれど、爪をいつまでも隠せばいずれ本来の牙さえも忘れ、痛い目を見よう」

「ご忠言、ありがたく承りましてございまする」

 戦乱を恐れて宮中に首を引っ込めていている貴族と高をくくっていたが、油断ならない者もいる。織田信長にも接近して一国を授かる予定だったというのもただ尻尾を振っていただけではないようだ。

「彼の地の名をままにせよ。津軽と名乗るが良い。また姓を藤原として、近衛家紋、杏葉牡丹の使用を許すように取り計らおうぞ」

 笑みを浮かべながら褒美を述べる前久を見て、してやられたと為信は唇を密かに噛む。

 近衛の家紋を頂くことは同時に背負うという意味もある。いざとなれば恩を返すために動き、御家のことだけでなく、近衛の顔も立てなければならない。

 面目を潰せば朝廷の重鎮たる近衛は豊臣に掛け合うことなど容易い。為信の立場など指で弾くようなものだ。

 だが、断るわけにもいかない。こちらから頼み、この会談の場を設けた。為信にも誇りがある。

「ありがたき幸せ。津軽右京大夫。この名に恥じぬよう精々励みましょうぞ」

 為信は深々と頭を下げる。断るつもりは無かったが、近衛が背後にいることは他の代償を払う以上のものがある。

「今少し送る物も多くしてな。頼むぞ、津軽殿」

「有り難き幸せ……」

 早速の要望を断るわけにも行かず、頭を下げる。また苦しくなるが、数に細かい三成は傷心している。家康なら少しばかりちょろまかしても気付かれないだろう。

 それ以上に貴族にも前久のように加護を受けつつ武人を掌で転がそうとする者がいると知っただけでも収穫だろう。

「時に、お主は余の心を呼んだか」

「左様な無礼なことをするはずがござらぬ」

「するのがお主ら策士の性分よ。何、助けが必要なら手伝ってやらんでもない」

 無言で為信はただ前久の顔を見る。為信に対する嫌悪感を微塵にも隠そうとしていない。

 おそらく初対面の自身だけのものではないだろう。長らく武人がいなければ生きていけず、高貴な近衛家という貴族として生まれた誇りを失うわけにもいかない狭間で積年の辛さが武人全体に対する恨みとなった。

 前久は為信を蔑むような目で見ながら鼻で笑う。確かに下手に出過ぎたかもしれない。しかし、会ったことも無いような高位な人物に会うというのに淡白に接するのは愚かな手である。

「案ずるな。別にお主のことを関白に讒言するつもりなどない。だが、お主が真に策士であるなら良いが、清き心を持つのであればいずれ善し悪し関わらぬ見返りもこよう」

 低い声で囁き、見送りはしないと前久はさっさと部屋から出て行った。

 居心地の悪さに耐えきれず、為信もすぐに立ち上がって屋敷から出る。

「ちと早うございますな」

 護衛として付いてきた森岡が出迎えてくれた。

「近衛様は長話が嫌いだとな」

「なるほど……」

「案ずるな。我らの望みは叶えてくれると仰せられた」

 為信はそれからことの経緯を細かく話した。

 前久の内側に秘めた思いは伏せつつ説明するのはかなり骨が折れた。太陽の位置から見ればまだ為信が屋敷に入って一刻ほどしか経っていない。こちらから全て訴えたとすれば、あまりにも短い。

「ならば、これより関白様にご報告をしなければ」

「うむ。後で書状を送る。それからお主は先に津軽に戻れ」

「よろしいので」

「俺もすぐに帰る。一足先に領内を見て欲しい。我らは長く城を空けている故な」

「御意」

「気を付けろよ。南部では厄介なことが起こっている」

「九戸のことでござるか」

 九戸の反乱は本格的になり、抑えが利かなくなった南部は秀吉に泣きついたようで、近々にも正式な出兵を求められることになる。そう為信は大谷から聞いていた。

「俺はもう少し諸大名と会わねばならぬ。共は他の者で良い。されど、隣国の憂いが我らにも届いた時、お主なら代わりに上手くやってくれよう」

「内憂外患はどこでも起こるものでございますな」

「まったくだ」

「我らも気を付けましょう」

「……では、大坂へ戻ろう」

「はっ」

 内憂の元凶がほざく。などとは思っても言えない。おそらく森岡は豊臣のことを言ったのだろう。主の前でおいそれと御家の中で起きていることを零すほど馬鹿ではない。しかし、為信からはどうしても暗に自身とお福の間柄を指しているように思えてしまう。

 お福は京にいる時が好機と暗殺をすべきという密書を送ってきている。だが、為信はなかなか動けない。まだ森岡には生きてもらわなければならない。

 何故ここまでお福が森岡の暗殺にこだわるのか疑問だが、いずれは従う時が来るのだろう。

 為信の隠された爪はお福のためにあるのだから。

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