第9話
健康管理室から戻って来たののやんは、私を連れて二階へと上った。
「二階と三階は、寮になっているんだ。職員が住んでいる他に、保護された子どもたちも一時的に部屋を与えられている」
「保護……?」
私の疑問にののやんは答えず、「206号室」と書かれた部屋のドアを開ける。彼の背中ごしに、中をのぞく。壁の白い部屋。二段ベッドが一つと、小さなデスクと椅子のセットが二組。どれも、節のある木製。部屋の奥には大きな窓があって、ちょうど真ん中に海と空を分ける水平線が真っ直ぐに伸びている。潮風が黄ばんだカーテンを膨らませる。良い匂い。
「しばらくは、アキちゃんと樋口さんの二人でこの部屋を使ってもらうよ」
「えっと、私、何日かここに滞在することになっているんですか?」
思わぬ展開に戸惑う。樋口さんが無事であることを確かめられたし、すぐにスミレさんの元へ帰るつもりだった。
「高校は、とんでもない大騒ぎになっている。ほとぼりが冷めるまで、身を隠していた方が良いと思うよ。スミレちゃんは、今レンタカーでここに向かっている。心配する必要はないんだ」
「そうですか。なら、良かったです」
ののやんは疲れて体が重いのか、窓側の椅子にどすんと腰掛けた。
「ちょっと話そうか」
穏やかに促され、私ももう一方の椅子に彼と向かい合って座る。
ののやんの顔には、深い疲労がにじんでいる。仕事をなんとかやり終えて、気が抜けてしまったように見えた。
「アキちゃんは、樋口さんの首にある傷を見たことがあった?」
うなずく。博物館に二人で行った日、電車の中で偶然見てしまったのだ。
ふわりと舞い上がったカーテンが、ののやんの背中を撫でる。少し、肌寒い。私は立ち上がって、窓を閉めた。外にはただただ海と空が広がっているばかりで船もなく、月明りがゆらゆらと揺れていた。潮の残り香が、鼻をそっと掠める。椅子に座り直すのを待って、彼は話を再開する。
「あれは、幼いころに鰓を手術で塞いだ痕だ。地上人と水中人は、遺伝的にかなり近い。元々、同じ種であったという研究もある。だからだろうね、かなり高い頻度で、水中人の身体的特徴を持った地上人の子どもや、逆に地上人の身体的特徴を持った水中人の子どもが生まれる。二つの種族の間の確執はとても根深い。未だに戦争をしている地域だってある。そういう状況で、この子どもたちがどういう扱いを受けるかは分かるだろう? 彼らを保護するのが僕たちの仕事だ」
分かりやすく噛み砕かれた説明だったけれど、なかなか上手く呑み込むことができない。
「……そのことを、樋口さんは自覚しているんですか」
「全く知らなかったそうだよ。両親の苦悩と葛藤は、想像に難くない」
ののやんは深くため息をつくと、立ち上がった。
「スミレちゃんが来るのを、受付で待つことにするよ。君は、この部屋でゆっくりしてくれ」
一人になった私は二段ベッドの上の段で仰向けになり、ぼんやりと白い天井をながめた。
ののやんの秘密。私たちに隠していたこと。それは、想像していたようなおどろおどろしいものと全く違った。優しい彼らしくて、正直ホッとした。
考え事をしているうちに眠ってしまっていたのだろう、いきなりドアが開いたとき、ビックリして跳ね起きた。勢いよく天井に頭をぶつけ、痛みに悶絶する。
ドアを開けたのは、樋口さんだった。右足に包帯を巻かれ、金属製の松葉杖をついている。
「捻挫だって。心配させて、ごめんな」
樋口さんは器用に部屋の奥へと進むと、椅子に座った。窓に杖を立て掛けると、両腕を頭の後ろで組んで体を反らせる。
「せっかくの学園祭が台無しだけど、三曲全部歌い終わったのは不幸中の幸いかな。そもそも、俺のせいであーいうことになったんだしな」
私は適切な言葉が浮かばず、ベッドの縁から脚を垂らす姿勢に座り直した。
「……私たち、これからどうなるのかな」
そんな呟きが、思わず口から漏れた。不安だった。怖かった。きっと、今までのように過ごすことはできない。
「とりあえず、俺は転校することになりそうだ。最近は、傷がほとんど分からなくなる治療法があるんだってな。新天地では、上手くやってゆくよ」
たいしたことじゃないと、彼女は笑った。
「寂しい」
えっ、と樋口さんが不思議そうに私を見上げる。
「樋口さんがいなくなったら、私は寂しい。もう、一人でなんていられないよ。私も一緒に転校する。樋口さんについていく」
「お前なあ……」
樋口さんは、心底呆れたらしかった。私自身も、自分がこんな駄々っ子みたいなことを言うなんて信じられなかった。
分かっている。そんなことができないのは、ちゃんと分かっている。それでも、言わずにいられなかった。
「私、樋口さんのことが大好きなの」
彼女は、困ったように、笑った。
「浅くて都合の良い関係を求めてたはずなのに、俺たち、いつの間にか友だちになってたのかもな」
翌日、ののやんは私を、建物の海に浸かっている部分に連れて行ってくれた。昨晩ここに泊まったというスミレさんも一緒だ。
ゆるくカーブしたアクリル板で囲まれた、かまぼこ型の巨大な水槽があり、地上人は水槽の上と横の両方から中を見ることができた。
「この水槽は、外海に繋がっているんだ」
ののやんがそう説明しながら、水槽をぐるっと巻くように作りつけられた白い階段を下りてゆく。その後ろをスミレさんと共についてゆきながら、私は思わず感嘆の声を漏らした。
水槽の中は、小さな学校のようになっていた。算数の計算式や落書きらしいイラストの描かれた黒板を囲み、何やら真剣な表情で語り合っている水中人の子どもたち。腰でフラフープを回して遊んでいる女の子。網の間に体を挟み込めるようになっているベッドでは、まだ小学校に上がっていないぐらいの幼い子たちがお昼寝をしている。
みんな、とても綺麗な陶器のような白い肌を持っている。表情は穏やかで、彼らがここに来るまでに受けて来たであろう暴力の影を、私には見て取れなかった。
アクリル板に両手のひらを付けてぼんやりしていると、水中人の女の子が近付いて来た。彼女は透明な板ごしに私とぴったり両手を合わせて、嬉しそうににっこり笑う。
ぴちゃん
その瞬間、彼女の想いが私の頭に流れ込んで来た。
――私とお父さんを救ってくれてありがとう
そうだ。この子は、先崎先生の家で私を呼んでくれた子だ。目頭が熱くなる。視界がぼやける。彼女と重なった手に、思わずぎゅっと力をこめる。
「私こそ、ありがとう。あなたのおかげで、大切な友だちができたの」
女の子は、分かっている、というように大きくうなずいた。彼女が仲間たちの方へと戻ったのを見届けてから、スミレさんの方に振り向く。なぜか、スミレさんは苦しそうな顔をしていた。隣に立つののやんの表情も暗い。
「どうかしたんですか?」
きょとんとする私の体を、スミレさんが抱きしめた。わけが分からなかったけれど、私も彼女の背中に腕を回した。彼女は涙まじりのくぐもった声で、呟く。
「……アキちゃんも、水中人の言葉が分かるんだね。ツバキちゃんと同じように」
ツバキ、は数年ぶりに聞くお姉ちゃんの名前だった。ずっと、誰も触れないようにしてきた失踪事件。
ののやんはしばらく躊躇っていたようだけれど、意を決したように口を開いた。
「ツバキちゃんは、反ウォーター・ウォール団体の過激派に殺されたんだ。地上人にしては白すぎる肌と、水中人の言葉……一種のテレパシーを使えるという体質に目を付けられた。その事件は、戦争を恐れる政府によってもみ消されてしまった。アキちゃんの家族が事件についてずっと口をつぐんで来たのは、守秘義務を課されてしまったからだよ」
突然知らされた事実に、感情がついてゆかない。頭が真っ白になってしまう。
苦しそうに震えるスミレさんの体がとても熱くて、水が跳ねる音が頭の中でうるさいほど響いて、視界いっぱいに青い海が広がっていて。
メダカの卵を愛おしそうに見ていた、先崎先生の目を思い出す。樋口さんの、「友だちになっていたのかもな」という言葉を思い出す。ののやんの、ウォーター・ウォールについて楽しそうに語る口元を思い出す。スミレさんの涙を思い出す。
言葉が、私の口から滑り落ちた。
「私、大人になったら必ずウォーター・ウォールに行きます」
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