第8話
軽音楽部のライブが始まる前に、体育館の前でスミレさんとののやんと落ち合った。ライブの最初の方はあまり客がおらず席もかなり空いているが、だんだん混雑してゆき、教員による演奏のころには会場に入ることすら難しくなってしまう。
今日のののやんの服装は、なぜか黒いスーツ姿だった。仕事中だから、という言葉が脳裏をよぎる。スミレさんの方は、一番のお気に入りである薄紫色のブラウスを着ていた。運動場で行われているわなげ大会の商品だろうか、ピンク色のウサギのぬいぐるみを抱いている。
「ののやんが取ってくれたの。良いでしょ」
「ずいぶんとデートを楽しまれているようで……」
私が呆れて言うと、スミレさんの頬がかっと赤く染まった。ののやんは、余裕を感じさせる自慢げな笑顔を浮かべる。うーん、この、幼馴染カップルとは思えないほどの初々しさは一体。
私たちは、前から十列目くらいの端の席に並んで座った。準備中だったらしく、しばらくの間深いえんじ色の幕が下りていた。普段生徒たちが騒ぎながら追いかけっこしている場所とは思えない、本物の大劇場のような重厚で緊張感のある空気が満ちている。やがて幕がゆっくりと上がり、ギターが音を奏でる。登場したひまわり柄の浴衣を着た一年生たちが、「夏祭り」を歌い始める。甲子園の応援や太鼓の達人のゲームで人気の、あの曲だ。
前の方の席では、軽音楽部の部員やバンドメンバーの友だちらしい人々が、リズムに合わせて大きく腕を振ったり声援を送ったりしている。
私の隣の席で、ののやんもノリノリで手拍子を打っている。学生みたいで微笑ましい。
かなり時間をおしながらもライブは進んでゆき、やっと樋口さんたちの番になった。樋口さんは、フリルのたくさん付いた淡い水色のロングドレスを着ていた。他のメンバーも、舞踏会に行くような服装をしている。かわいいし、似合っている。さっき空き教室で喧嘩をしていたときのような険悪さは、みじんも感じられなかった。
相変わらずボーカルの音程がかなりずれているが、客が増えてきて会場はかなり盛り上がっていた。そんな、ときに。
そんなときに、事件は起こったのだ。
樋口さんたちの三曲目の演奏が終わり、声援を受けながら舞台袖に引っ込もうとしていたとき、ベース担当の女の子がコードに躓いてよろめいた。隣にいた樋口さんにぶつかり、そして、彼女は不自然に手を動かした。いつも首筋を隠している樋口さんの分厚い髪の毛を両手で掻き上げたのだ。誰かの甲高い悲鳴。ライブで盛り上がっているときとは違う、会場の人々の戸惑いと恐怖に満ちたどよめき。二人の少女はかなりの勢いで舞台上に崩れ落ち、ギターと頭蓋骨が跳ねて鈍い音がなった。その永遠とも思える時間、樋口さんの大きくて歪な傷痕は、ずっと露わになっていた。
あまりの事態に、私はしばらく動けなかった。ハッと我に帰り、ののやんに話しかけようと振り向く。彼は、隣の席にいなかった。いつの間に飛び出したのか舞台の上に駆け上がり、ぐったりとした樋口さんを抱き起していた。彼女は意識を失っているようだ。最初に転んだ女の子は既に立ち上がり、目をぎらぎらさせていたけれど、急にわあっと泣き出した。体育館の中は完全にパニック状態になっている。右往左往する人々。舞台に集まる教員たち。「救急車を呼べ!」という怒号が響く。
しかし、その騒ぎは、ののやんの
「大丈夫です」
という声で水を浴びせられたようにおさまった。よく通る、胸に響く声だった。どこに潜んでいたのか、ののやんと同じ黒いスーツを着た屈強な男たちが現れ、樋口さんを担架に乗せて体育館の外に運び出す。今度こそ私は躊躇いを捨てて、その男たちを追いかけた。樋口さんが大丈夫なのか、ちゃんとこの目で確かめなければいられない。彼女のそばについていてあげたい。彼女は私の、大切な人だから。
心臓が痛くてちぎれそうなほど夢中で走って、なんとか追いつくことができた。担架の一方を担いでいたののやんが、額に汗をにじませて私を見下ろす。
「アキちゃん、君はスミレちゃんと一緒に家へ帰れ」
場違いなほど冷静な口調。私は彼をキッと睨みつけた。
「樋口さんは私の大切な友だちなんです。絶対について行きます」
ののやんが目を細める。今まで見せたことのない、冷淡な表情だった。
「分かった。一緒に行こう」
私は、必死で彼らについて行った。樋口さんは目を閉じたまま、苦しげな息をしている。青白い顔に、冷や汗が浮かんでいる。
校舎の裏に、先崎先生を連れて行ったのと同じ黒い車が停まっていた。ののやんたちは後部座席に樋口さんを寝かせた。ののやんが運転席に座り、私に助手席に座るように促した。
担架のもう一方を持っていた男は、黒いトランシーバーに向かってなにやら言葉を吐くと、校舎の中に戻って行った。
車が出発する。土曜日の明るく弛緩した街を抜け、高速道路に乗る。誰も何も言わない。狭い車の中は、沈痛な空気に支配されている。
一体、どこに向かっているのだろう。病院ではないらしい。既に県境を越え、海に沿って走る臨海線へと乗り換えている。
海の向こうへと、太陽が沈もうとしている。眩しい水平線。オレンジ色の、熟れすぎた果物のように輪郭の崩れた太陽に向かって、紺碧の海に一筋の白い道が伸びている。赤く焦げた雲。西の空からゆっくりと闇に沈んでゆく世界。視界が揺れてぼやける。
夕焼けを恐ろしいと思ったのは、初めてだった。このまま、世界が燃えて灰になってしまうような気がした。
すっかり夜になり星が空に光り始めても、目的地には着かなかった。車が揺れるたびに痛そうにうめく樋口さんが、心配でたまらない。シートごしに様子をうかかがっていると、急にののやんが口を開いた。数年ぶりに人の声を聞いたような気分だった。
「たいした怪我じゃない。大丈夫だ」
「なんで分かるんですか?」
ののやんは道の先をじっと見据えたまま、少しだけ口元を緩めた。
「僕だって、だてに医学部を出たわけじゃないさ。さあ、そろそろ到着だ」
高速道路から降り、山と海に挟まれた道を走ってゆく。海水浴場や漁港は近くにないらしく、建物や人の姿を全く見かけなかった。
しばらくして、海のすぐそばに立つ白い建物が見えて来た。車のヘッドライトと、建物の窓から漏れる黄色い灯りで、ぼんやりとその全体像が分かる。……奇妙な形だった。巨大なケーキのような円柱型のそれは、半分が海にせり出している。波がフジツボだらけの壁に当たっては砕ける様子を見ていると、恐らく壁が海の中にまで続いているのではないかと思う。海中展望台、という感じだろうか。
既に数台の車が停まっている駐車場に停車すると、ののやんは
「待っていろ」
と言い残して建物に入ってゆく。勢いよく扉を閉めた音に驚いたのか、樋口さんが目を覚ます。おもむろに上半身を起こし、不安げに辺りを見回す。
「ここ、どこ?」
「私も分かんない。ののやんが連れてきてくれたの。それより、体は大丈夫?」
「脚がちょっと痛いかな。それだけだ」
「良かった」
私はほっと溜息をついた。
こんな状況なのに、樋口さんは楽しそうに笑う。
「アキちゃんって、案外心配性なんだな」
なんなんだ、その言いぐさ。ちょっと傷付いてしまう。
ののやんが、車いすをついて建物から出て来た。さっきまでの冷淡さはなりをひそめ、いつものちょっと頼りなげな雰囲気が戻っている。
「野々道さん、この建物は何の施設なんですか?」
右足をかばいながら樋口さんが聞くと、ののやんは微笑んだ。
「ウォーター・ウォール街・美浜支部だよ」
建物の入り口には玄関ホールがあり、事務員さんと屈強な警備員さんの常駐している受付があった。ののやんは樋口さんの乗っている車椅子を押しながら、顔パスで中に入ってゆく。二十代くらいに見える女性の事務員さんは、私にも笑顔で挨拶をしてくれた。
玄関ホールの壁には、大人が両腕を広げたくらいの大きさのある絵画が飾られている。下半分だけ海に浸かった巨大な木の絵。りんごのような赤い実がたくさんなっていて、たくさんの子どもたちが枝の上に座ってその実を食べている。大気中に出ている枝に乗っているのは地上人の子どもたち。海中にある枝には、水中人のこどもたち。淡い色遣いは幼い子どもに向けられた童話の絵本のようで、光とやさしさに満ちている。二つの種族の共存をテーマにしているというだけでなく、生きている全ての命を慈しむまなざしが伝わって来る。
しばらく絵に夢中になっていて、気が付いたときには、ののやんたちがゆるくカーブした廊下のずっと奥まで進んでしまっていた。慌てて追いかける。
円柱状になっている建物の中には、円を描くように部屋が並んでいるようだ。白すぎる壁と、灰色のドア。ドアにはそれぞれ、「水圧実験室」「海水濃度検査室」などの厳めしい名称の書かれたプレートや、「天音教授」「飯野副会長」などの名前の書かれたプレートが付けられている。ののやんはそれらのドアのどれにも目を留めることなく、ぐんぐん進んでゆく。
廊下が行き止まりになっている所で、やっと立ち止まる。そこには「健康管理室」というプレートの下がったドアがあった。
「樋口さんの手当ては広田さんに頼むよ。彼女を預けたら今日泊まる部屋に案内するから、ここで待ってて」
ドアが開いたとたん、消毒液の匂いがふわっと漂った。嫌いな匂いではない。甘いような、心が落ち着くような不思議な感じ。
廊下に残された私は、少し緊張して両手の指を絡めた。ピアノを弾くように動かしてみる。
ここが、水中人と地上人の共存を目指すための何らかの施設であることは分かる。ののやんと一緒にいた黒いスーツ姿の人たちは、ここの関係者だろうか。どうして、彼らは樋口さんをここに連れて来たのだろう。あの首の傷に何か関係があるのかもしれない。もしかしたら、先崎先生と娘さんもここにいるのかもしれない。だったら、一度でも良いから会いたい。
そんな、まとまりのない考えが浮かんでは消える。ここのところ、どうにも私には受け止めきれないことばかりが起こる。四年前の、あの雨の日の無力感を思い出してしまう。
私よりも三つ年上だったお姉ちゃんは、中学校の部活帰りに行方不明になった。その日は朝からずっとどしゃ降りで、日没前でも前が見えないほどだった。
お姉ちゃんと最後に言葉を交わしたのは、一緒に下校したクラスメイトだったらしい。自分の家のすぐ前にある十字路でその子と別れたあと、日付が変わっても家に戻って来なかった。
当時大学生だったスミレさんは、私よりもお姉ちゃんの方と馬が合っていたような気がする。通っている大学に近い私の実家に居候していたのだが、毎日お姉ちゃんと一緒の部屋で寝ていた。夜遅くまで二人が楽しそうにひそひそ話をしている声が、隣室の私にまで聞こえて来た。まだ子どもだった私は、どうにも面白くなかった。お姉ちゃんを取られてしまったような気がしたのだ。それに、可愛くて頭の良い憧れの存在であるスミレさんが私にあまり興味を示してくれないのも、つまらなかった。
そのころからスミレさんにぞっこんだったののやんは、彼女にけっこう軽くあしらわれていたらしい。のけ者にされた私とののやんは、よく結託してスミレさんに悪戯をしかけていた。一番面白かったのは、スミレさんのアイポッドシャッフルに勝手に演歌を追加したことだった。かなり長い間、スミレさんはそのことに気付いていなかった。いつ怒られるだろうかと、ののやんとニヤニヤし合ったことを覚えている。
そのくせに、何か辛いことがあると、スミレさんはののやんに頼った。泣きじゃくる彼女の頭を撫でているののやんは、まんざらでもなさそうだった。当時の私は変態さんだからだと思っていたが、彼なりの愛情は本物だったのだろう。
お姉ちゃんがいなくなったあと、何度も自ら命を絶とうとしたスミレさんを、ののやんは辛抱強く支えた。
あの日も、雨だった。煙るように細い雨が降り注ぐ中、打ち捨てられたような古い雑居ビルの屋上にぼんやりと立っているスミレさんを見つけたときは、心臓が凍るかと思った。彼女は低い柵に両手を掛けて、灰色に曇った空を見上げていた。心を失ったような、呆然とした顔。お気に入りの淡い紫色のブラウスはべったりと肌に張りついて、白い下着が透けていた。長い髪は水を吸い、海でとれたばかりの海藻のように彼女の肩に掛かっていた。
数時間前、スミレさんは思い詰めたようなメールをののやんに送っていた。危険を察知したののやんに連絡を受けて、私は彼と手分けしてスミレさんを探し回っていた。
携帯で状況を伝えると、ののやんはすぐに飛んできた。「立ち入り禁止」の札を無視して外付け階段で屋上に駆け上がり、スミレさんを後ろからぎゅっと抱きしめた。スミレさんの顔には、なかなか表情が戻らなかった。人形のように、されるがままになっていた。
「こんな所から飛び降りたら、大けがをする。後遺症が残って、一生立ち上がれなくなるかもしれないんだ。約束しただろう? 大学を卒業したら、一緒に沖縄の海で泳ぐって。君は、それを破るつもりなのか?」
ののやんが、低い声で言う。
ふっと、スミレさんの目元が緩んだ。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙。声を上げて、彼女は泣き始める。私はホッとして、その場にしゃがみ込んだ。
スミレさんが就職のために故郷の町を出たとき、高校進学を口実にして付いて行ったのは、その辛い時期が心に焼きついてしまっていたからだと思う。
雨の日は嫌いだ。
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