第7話
私の通っている高校では、毎年五月に学園祭が行われる。「わかば祭り」と呼ばれるそのイベントの一番の目玉は、体育館で行われる軽音楽部のライブである。一年生のバンドから順に二、三曲ずつ披露し、最後の教員の有志による演奏で、祭りの盛り上がりは最高潮を迎える。世間的に青春っぽいとされる事にどうにも乗り切れないことの多い私でさえ、胸が熱くなるほどだ。
今日はその祭りのリハーサルで、体育館には既に全校生徒と保護者分のパイプ椅子が、ほとんど隙間なく並べられている。私はその後ろの方の席に座って、樋口さんの所属するバンドの練習を見学している。別に、樋口さんに誘われたわけではない。ただ、自分の教室でクラスメイトたちがわいわい楽しそうに準備をしている中にいるのが、いたたまれなかっただけだ。
舞台の上では何やらスピーカーらしい機械の調整を行っているようだが、楽器に詳しくないので彼女たちが何をしているのかよく分からない。妙にコードが多いな、と思うだけだ。
ドラム、ギター、ベース、キーボード、ボーカル。どうやら準備が終わったらしく、五人の少女たちの間に緊張が走る。静まり返った体育館に響く、ドラムの子がバチを打ち合わせる音。おもむろに鳴るギター。次第に盛り上がってゆくリズム。ボーカルの子が少し音程のずれた声で歌い始める。ガンガン鼓膜を震わせる、ひび割れた電子音。大音量すぎて、なにがなんだか分からない。多分だけれど、全然知らない曲だ。耳の奥がじんじん痛くなってきて、私は思わず手のひらで耳を押さえた。樋口さんに見られていたらまずいな、と思いながら。
リハーサルでは一曲しか歌えないらしく、樋口さんたちは片づけをして舞台袖に引っ込んだ。替わって、三年生のバンドが登場する。そろそろ教室に戻ろうか。目立たないように通用口から出ようとしたとき、ちょうど階段を降りて来た樋口さんに見つかってしまった。彼女はぱあっと顔を輝かせ、駆け寄って来る。
「アキちゃん、見ててくれたんだな! ありがとう」
「うーん、まあね……」
私は言葉を濁す。彼女たちの演奏が目当てで来たわけではなく、なんとなく体育館に入ったら、たまたま彼女たちの番だっただけだ。
「すごく、良かったよ」
そんな、心にもない言葉を吐く。樋口さんは嘘だと気付かなかったのか、どうなのか、照れたように笑った。
お世辞なんて、私らしくない。どうにも最近、調子が狂っている。原因は分かっている。学校内で広まっている噂のせいだ。
先崎先生の件は新聞に載らなかったし、退職の理由も公にされなかった。私と樋口さんは、ののやんに口外しないよう念を押された。もし誰かに喋ったら、それ自体が罪になる可能性もある、と。なのに、一体どこから情報が漏れてしまったのだろう。いつの間にか学校中に、先崎先生が水中人の少女を監禁していたという噂が広まっていた。変態だとかロリコンだとか、そういう薄汚い推測を添えて先生のことが語られるのは、辛い。先生には切実な苦しみとのっぴきならない事情があったのだと、私は信じている。下品な笑みを浮かべて先生のことを非難する生徒を見るたびに、胸ぐらをつかんで「お前には何も分かってないだろう!」と叫びたくなる。……私も、何も分かっていない他人の一人だけれど。
どういうわけか最近、先崎先生に関する噂に尾ひれがついて、おかしな話になりつつある。先生の他にも、この学校に「二種族境界不侵犯法」を破っている人間がいる、と。
この法をざっくり説明すると、ののやんが留学していたウォーター・ウォール以外では、水中人は地上人の国に住めず、地上人は水中人の国に住めないというものだ。
その話が広まり始めてから、どうにも教室の中が険悪になったように感じられて、落ち着かない。休み時間には、逃げるように科学部部室に引きこもっている。樋口さんが部室に来る頻度も、ここ数日ますます高くなった。余計な会話をしない彼女といると、心が落ち着く。気を許している、ということなのかもしれない。彼女は絶対に、先崎先生を悪く言わない。教室での悪い噂話に参加しない。
樋口さんは、あの日先生の家で見たもの……美しい絵や先生の苦しそうな顔を、共有している唯一の存在だ。そう思うと、彼女が自分にとってかけがえのない大切な人だという気がしてくる。この関係を失いたくないと願ってしまう。嫌われたくない。愛想を尽かされたくない。どうか、卒業までずっとこの部屋で一緒にお弁当を食べて欲しい。
「友達って、こういうものなのかな?」
結局私は体育館から教室に戻らず、そのまま学校を出てしまった。学園祭の前日である今日は、朝のホームルーム以外では出欠を取らないことになっているはずだ。
雨が降っていないとはいえ、どんよりと厚く暗い雲に覆われた空を見上げる。
もうすぐ、梅雨が来る。スミレさんの心が、ひどく不安定になる季節。家の中はぐちゃぐちゃになり、私も夜に眠れなくなってしまう。今年はののやんが居てくれるけれど、それでも不安を拭い去ることができない。
胸が苦しい。
マンションの部屋に帰ると、ののやんが台所に立って料理をしていた。自分で持ち込んだらしい中華鍋をふるい、チャーハンを炒めている。先崎先生の事件のあと、彼は毎晩うちにやって来て夕飯を作ってくれる。スミレさんの好物である辛いものばかり作るので、健康的かどうかは微妙なところだが、テイクアウトのファストフードばかり食べていた私たちの舌は喜んでいる。
「アキちゃん、お帰り。意外に早いんだな。明日の学園祭の準備は終わったのか?」
料理の手を止めないまま、ののやんが私の方に振り向く。私は苦笑いで答えた。
「私なんていなくても、クラスは回って行くので。むしろ、私はただの邪魔ものです。異物です」
「まあ、僕も学生時代はそんな感じだったよ。学園祭をスミレちゃんと二人で抜け出して、水族館でデートしてたなぁ」
それってむしろ、リア充というかキラキラした青春そのものなのでは……。単にどこにも居場所のない私と一緒にされては困る。
私は自室で部屋着のワンピースに着替えたあと、スプーンやコップを食卓に並べる手伝いをした。ダイニングテーブルには、元々三脚椅子が並んでいる。私の母が、よく遊びに来るからだ。その椅子に、今はののやんが座っている。
チャーハンが出来上がるのとほぼ同時に、スミレさんが帰って来た。
「わー、良いにおい! さっすが、ののやんだね」
「早く着替えて来なよ。作りたてのアツアツが、一番おいしいんだ」
スミレさんは、お腹を空かせた幼い子どものように素直に返事をした。
三人でテーブルを囲み、「いただきます」と手を合わせる。チャーハンは、見た目はプロ並みだけれど、やっぱりちょっと辛すぎる。舌がひりひり痛むので、ついスプーンを持つ手がゆっくりとなる。他の二人は、すごく美味しそうに黙々と食べている。食の好みだけじゃなく、音楽も服もお金にルーズなところも、色々な面で息の合うカップルだ。羨ましい。
一番に完食したスミレさんが、私の方に笑顔を向ける。
「そう言えばアキちゃん、学園祭の入場チケットって、二枚あるんだっけ」
「はい。今年は急にお母さんが来られなくなったので、一枚余っちゃって」
もう一枚は、もちろんスミレさんの分である。
「あー、良かった。それがね、ののやんも行きたいんだって」
「えっ?」
思わず、ののやんの方を見る。彼は口をもぐもぐさせながら、嬉しそうにうなずいた。
「そんなに面白いものじゃないですよ」
ののやんはごくりとチャーハンを呑み込み、
「自分が真っただ中にいるときは、青春ってものの良さは分かんないものなんだよ。僕らのような擦れた大人になると、稚拙さや溢れんばかりの熱量、ほろ苦い人間関係というものが、とても懐かしくて愛おしいものに思えて来るんだ」
と、しんみりした口調で言った。
そういうものなのだろうか。私にはまだ、よく分からない。私の苦痛でしかない高校生活が、いつか懐かしいものになるときが来るなんて、信じられそうにない。
ふと、脳裏に薄暗い考えがよぎった。
――ののやんは、嘘を言っているのではないか。
先崎先生の事件にののやんがどう関わっていたのか、結局彼はほとんど教えてくれなかった。けれど、推測はできる。もし、彼が「二種族境界不侵犯法」を取り締まる立場にいるのだとしたら。今学校内で広まっている噂を調査するために潜入しようとしている可能性は……
「アキちゃん、大丈夫? 食べきれないんだったら、私がもらうよ」
スミレさんの声で、現実に引き戻される。
「あっ、いえ、大丈夫です。ちょっと辛いけれど、美味しいです」
考えを振り払うように、私はがつがつと皿の残りを口に突っ込んだ。
学園祭の当日、私は屋台でカルボナーラ風たこ焼きとチョコバナナクレープを買い、空き教室のベランダで一人ぼっちで時間を潰していた。ここなら、誰にも見つからない。ゆっくり食事をすることができる。
風に乗って、アカペラサークルの歌声が聞こえて来る。一発芸大会の司会の声、体育館から漏れるギターの音、人々の足音。そんな騒々しい世界を、高い空から見下ろしているような気分だ。もっとも、ここは泥で薄汚れた、排水の臭いのする窮屈な空間はあるのだが。達観しているというより、疎外されているという言葉の方が近い。それでも、居心地は悪くない。
クレープから漏れたチョコレートソースをのんびり舐めていると、背後で女の子の怒鳴り声がした。教室に誰かがいるらしい。見つからないように、慌てて身をすくめる。
「樋口、あんたのことは絶対に許さないからね! ミオちゃんがバンドをぬけたのは、あんたのせい! トウカに、無理にボーカルをやってもらってるけど、あの子音痴だし可哀想じゃん」
樋口、という名前が耳に留まる。どうやら、怒鳴られているのは彼女らしい。バンドでの人間関係が上手くいっていない、という彼女の話を思い出す。
「ホントに、絶対許さないからね!」
そう言い捨てて、女の子が教室を出て行く音がした。ドキドキ跳ねる心臓を手で押さえていたら、急にがらりと頭の上の窓が開いた。びっくりして、クレープを落としそうになる。
「こんなところで何やってるんだよ、アキちゃん」
樋口さんはニヤニヤ笑いながら窓から身を乗り出して、私の顔をのぞきこんだ。
「あ、えっと、樋口さん大丈夫?」
立ち上がって、樋口さんと真っ直ぐに向き合う。彼女は一瞬びっくりしたように目を見開き、そして、切なげに薄く笑った。
「あいつ、あんなこと言ってるけど、怒鳴ったらすっきりしてすぐに怒りを忘れちゃうタイプだからさ。多分、俺たちの演奏のときはちゃんとやってくれると思う」
「そうなんだ……」
私を安心させるための嘘なのか本心なのか、全然分からなかった。私が大丈夫かと聞いたのはバンドの演奏のことではなく、樋口さんの心の方だったけれど、深く突っ込むのは躊躇われた。
樋口さんはすぐに明るい表情になり、
「あっ、たこ焼きじゃん。俺も買いに行ったけど、もう売り切れだったんだよね」
と弾んだ口調で言う。
「半分あげる」
「わーい、やったね!」
窓枠を飛び越えて、私の隣に着地する。私たちはベランダの段差の上に並んで座って、何も言わずにたこ焼きを食べた。ふと樋口さんの表情をうかがうと、彼女はぼんやりと空を見上げていた。私も視線を上に向ける。空虚に思えるほど、雲一つない青空だった。
「俺、アキちゃんのなんか自立してる所って好きだよ。一人でも寂しくなさそうに見える」
ぽつりと、呟く。その声は、淵のような空に吸い込まれて消えてしまう。
「そんなことない。私だって、ずっと寂しかった」
「そうなの?」
「うん。樋口さんが部室に来てくれるのが、ホントに嬉しいの」
じっと床を見つめながら、ソースの付いた唇を舐める。
「ねえ、これからもずっと、私と一緒にお弁当を食べてくれる?」
答えは返ってこなかった。言葉がちゃんと届いたのか不安になって、樋口さんの方に振り向く。彼女は大きく開けた目を、空に向けたままだった。呆然としたその表情に、壊れてしまっているときのスミレさんの姿が重なる。私の周りの人たちはどうしてみんな、私を置いてどこか遠くにいってしまうのだろう。
「冗談だよ! 私も、あなたと一緒で『浅い関係』が良いと思ってる。縛り合うなんて、愚の骨頂だよね!」
ふっと、樋口さんの表情に感情が戻った。クスクスと笑い声を漏らす。
「愚の骨頂なんて、俺はそこまで言ってないぜ」
私の声は、ちゃんと彼女に届いてたらしい。
じわり、と目に涙がにじむのを感じた。樋口さんに悟られないように、ブラウスの袖で拭う。
私はバカなのかもしれない。こんなにも、人に依存してしまうなんて。
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