第6話
放課後、教室で間違った英単語の千回書き取りが終わったとき、既に日は落ちてしまっていた。廊下の電灯は既に消され、まだ人のいる職員室の換気用の小さな窓から、ぼんやりと黄色い光が漏れ出している。あとは、植田先生の机にノートを提出するだけだ。
職員室に入る。既にほとんどの先生が帰ってしまっていて、残っているのは二、三人だけだった。植田先生もいない。説教されずに済みそうだ。良かった。
ノートを提出ボックスの中に入れ、ホッとしたとき
「あれ、アキちゃんじゃん」
と後ろから声を掛けられた。
「樋口さん、なんでいるの?」
ギターを背負った樋口さんは、立てた指先に引っかけた鍵をくるくる回した。
「軽音楽部の部室で練習してたんだ。今、鍵を返しに来た所。一緒に帰ろうぜ」
うなずきながら、「一緒にお弁当を食べたり下校したりするなんて、私たち友だちみたいだな」と思った。
校舎を出る前に、事務室の前の公衆電話が五台並べられたコーナーに寄る。スミレさんの携帯電話の番号をダイヤルする。もう帰宅しているだろうと思ったのだが、受話器から漏れて来たのはざわざわとした複数人の話し声だった。まだ職場にいるらしい。
「ごめんなさい。急な仕事が入っちゃって、今晩は帰れないの。夕飯は、冷凍庫に何かあると思う」
「分かった。無理しないでね」
電話を切ると、樋口さんがニヤニヤしながら顔をのぞき込んで来た。
「盗み聞きしてたの?」
「勝手に耳に入って来たんだ。それより、今から先崎先生の家に行けるんじゃないか?」
私たちは道中にあるコンビニで手土産を買うことにした。デザートの棚を見ながら、樋口さんが
「先崎先生って、寒天が好きらしいぜ。これにしよう」
とカップ入りの蜜豆を手に取る。透明、青、緑の三色の四角い寒天が入っていて、涼しげだ。ブラスチックのカップには、蜜の中を泳ぐように魚のイラストが描かれている。
「可愛いね、これ。先生、魚が好きだし」
私たちはそのお菓子を三つ買い、蒼い夜道へと踏み出した。
先崎先生の家を探すために、まず○○スーパーに向かうことにした。それは平屋建ての、食品とちょっとした生活用品だけを扱っている小さな店だった。ちょうど仕事帰りの人々が立ち寄る時間なのか、まあまあこみ合っている。ガラス張りになっている壁ごしに何気なく店内をのぞいて、レジにののやんが並んでいることに気付いた。向こうも私に気付いたようで、「しまった」とでも言うような苦々しい顔をする。こういう状況、ついこの前にもあったような気がする。私はののやんを睨みつけた。出口が一つしかないので、ののやんは逃げることもできず、しぶしぶ私の元へやって来る。
「奇遇だね、アキちゃん。それから、ええと」
「樋口ナツです。苗字の方で呼んでください」
スーパーの壁に貼られた安売りの黄色いチラシが、ひらひらと風に揺れている。どこからか、揚げたてのコロッケのにおいが漂ってくる。夜の街は、店の電灯や街灯や車のヘッドライトで、昼間よりも眩しい。だからこそ、物陰の闇が濃く不気味だ。肌寒さを感じて、私は自分の腕をさすった。
ののやんが何かを隠しているのは、間違いない。それは浮気なんかじゃなくて、もっと重いモノだろう。今更ながら、思う。
――彼は、本当に「無事に帰って来た」のだろうか。
私の疑念をよそに、ののやんは相好を崩す。
「今から、スミレちゃんと君の部屋に行くつもりなんだ。ほら、ここで手土産用のお菓子を買ってたんだよ。一緒に帰ろうか」
彼が掲げたビニール袋には、ピノのファミリーパックが入っていた。スミレさんの好物である。
「えっと、私たち、今から高校の先生の家にお邪魔する予定なんです。スミレさんも残業で、まだ職場にいます」
「ああ、そっか。じゃあ、僕は××ホテルに帰るよ。また明日」
ののやんは残念そうに太い眉を下げて、ひらひらと手を振った。去って行く男の後ろ姿。一つにまとめた髪の先が、小気味よく跳ねている。
「野々道さんって、なんだかちょっと怪しい雰囲気だな」
樋口さんが、何かを深く考えているような表情で言った。
「××ホテルって、この辺じゃないんだよ。四駅ぐらい離れてる。アキちゃんのマンションも、ここから電車で一時間ぐらい掛かるだろ。どうして、ここで買い物をしようと思ったんだ?」
「さあ。たまたま通りかかっただけじゃないのかな」
「そうだとしても、すぐに冷凍庫に入れなきゃならないアイスを買うのは変だ」
言われてみれば、確かにそうだ。ののやんに対する疑念が深まってゆく。
「とりあえず今は置いといて、早く先崎先生の家を探そうぜ」
目的の家は、すぐに見つかった。スーパーと石塀を一枚挟んで隣接している、ありふれたデザインの洋風住宅。暗いのでよく分からないが、屋根の瓦はオレンジ色だろうか。意外にも、建てられてからあまり時間が経っていないように見える。
一階の道路に面した部屋には電気がついているようで、厚いカーテンの隙間から光が漏れている。
「先崎」と彫られた表札の下にあるインターホンを、樋口さんが押した。すぐに、スピーカーからノイズまじりの先崎先生の声があふれ出す。
「おお、二人とも、よく来たな」
カメラを通して、私たちの顔を確認したらしい。三十秒ほどで、玄関の扉を開けてくれた。中に入ったとたん、室内の乱雑さに思わず「あっ」と声が漏れる。
玄関の土間には、たくさんの靴が左右ばらばらになって積み重なっていた。先生のものらしい革靴だけじゃなく、皮の剥げた女性用のパンプス、泥だらけの子供用サンダル、無骨な黒い長靴などなど、かつてここに家族が住んでいたことを思わせる雑多な靴が堆積している。隙間が全くないので、仕方なくその山の上に脱いだ靴をそっと置いた。
入り口から狭い廊下が真っ直ぐに伸びていて、その先に二階へ上がるための階段がある。廊下も階段も、やっと一人が通れるほどの隙間を残して、物に埋め尽くされていた。土産物のお菓子の箱やリンゴの銘柄の印刷された段ボール、何かがパンパンに詰まった市指定のごみ袋。長らく洗濯されていないように見える古着が何枚も、無造作に落ちている。フローリングの床は何故かべとべとしていて、足の裏を見ると黒く汚れてしまっていた。
「先崎先生、よくここで暮らせていますね」
樋口さんが失礼なことを言った。私も同感ではあるが。
「一人暮らしには、これでも狭すぎるな。リビングはこっちだ」
招き入れられたのは、こたつのある部屋だった。もう五月になろうというのに、まだこたつ布団が出しっぱなしになっている。決して片付いているとは言えないけれど、座って食事ができそうな空間があるだけマシだった。そして、この部屋にはもう一つ目を引くものがあった。壁の一面に、たくさんの額縁が掛かっていたのだ。どれも、枠が木製の手のひらサイズのものだ。中には、鉛筆画が入れられている。
「お前ら、肉じゃが食うか?」
「食べます! 先生は、もうお食事はなさったんですか?」
「まだだ。冷凍するつもりでたくさん作ったから、量は十分ある」
後ろで先生と樋口さんが会話をしているけれど、私はその絵から目を離すことができなかった。
色はついていない。鉛筆の濃淡と紙の白だけで表現されている。けれど、描いた人の見た景色が、色鮮やかに浮かぶ絵だ。風の匂い、光の柔らかさ、空の眩しさ。そこには確かに、世界が切り取られ閉じこめられていた。たとえば、晴れた夏の日、土手の道を走って行く自転車の少女。麦わら帽子からはみ出した彼女の髪が、風になびいている。たとえば、深い森の中の滝。半袖半ズボンの少年たちが、水しぶきを浴びながら笑い合っている。
最も印象的だったのは、砂浜を描いた絵だった。波打ち際に、一人の水中人の女性が座っている。遠い水平線を見つめながら、満ち足りたように微笑んでいる。絶え間ない波の音が、私にも聞こえるようだ。
不意に、出汁の香がふわっと広がった。現実に引き戻される。先崎先生が、お盆に料理をのせてリビングに入って来たのだ。
「先生、この絵はどなたがお描きになったんですか?」
「俺だ。気に入ったか?」
この絵から、たくさんのものを受け取っていた。感覚だけじゃなく、感情も。胸の中に広がったそれは、上手く言葉にできるような類のものではない。
何も言えずただうなずいた私に、先生は満足そうな笑顔を向けてくれる。
不揃いのお椀に盛られた塩辛い肉じゃがとご飯を食べながら、私と樋口さんは先生の昔話を聞いた。
「俺は若いころ、世界中を旅してたんだ。色々なもんを見た。綺麗なもんも、汚いもんも、理不尽も、幸福も。見たものを一生忘れないために、備忘録として絵を描いた。写真では、自分が抱いた感情は残せないと思ったんだな。それに、当時はまだ水中人と地上人の戦争が終わっていなくて、水中人の国で撮った写真は全て、関門でカメラごと没収されてしまった。そういう時代だったんだ」
語っている間、先生は痛みに耐えているような顔をしていた。時折、昔を懐かしむような穏やかな表情が浮かんだけれど、すぐに皺の間に消えた。
私には到底想像できない、重厚な時間の積み重ね。無邪気な子どものようだと思っていた先生の目の奥には、数えきれないほどの景色が焼き付いている。
胸の締め付けるような痛みに耐えられなくて、私は立ち上がった。
「おトイレ、借りても良いですか?」
「おう。廊下に出て右だ」
トイレのドアにもたれ掛かって、考える。私は、この世界のことを何もしらない。この小さな街の中で、ずっとぬくぬくと暮らして来た。今度の夏休みには絶対に、ののやんのいるウォーター・ウォールを訪ねよう。そして、水中人の友達を作るんだ。
痛みが弱まり、ふうっと息を吐く。
リビングに戻ろうとしたとき、ぴちゃん、と水の音がした。
ぴちゃん ぴちゃん
水を掬ってはこぼすような、心地良く耳にしみる音。
ぴちゃん
胸がざわざわする。もっと聞いていたい。鼓膜が飢えている。強く強く、ひきつけられる。
ぴちゃん。
音のする方向に、自然と足が向く。自分でも変だと思う。先生の家で、勝手にうろちょろするのはいけないと分かっている。なのに、渇望を抑えられない。
階段の途中にある明り取りの窓から、月が見えた。満月にはあと三日ほど足りない、明るく薄っぺらな月。私はなるべく音を立てないように階段を上った。二階にある部屋の入り口は、平凡な家屋に似つかわしくない、厳重な鉄の扉だった。金庫だろうか。お金ではないかもしれないが、何か大切なものを守っているに違いない。
扉には南京錠がぶら下がっているが、どういうわけか、開いたままになっている。勝手に開けてはならないことは、私にだって分かる。でも、手が動いた。
ぎいっ、と金属がこすれる音を立てながら扉が開く。
ぴちゃん
灯りのない部屋。白い月明かりが、立ち上る細かな泡でできた柱を照らす。波の影が、ゆらゆらとフローリングの床の上で揺れる。水。透明な水。天井まで届く、大きな水の塊。その中央に、少女が浮かんでいた。生き物のように揺らめく、長い黒髪。透き通るような白い肌。アメジストのような蒼い目が、ぱちりとまばたきする。陶器のような尾ひれが左右にひらめき、床に映った水の影が渦を描く。
水中人の少女は、確かに生きていた。あり得ない光景だ。ここは、地上人の国。ののやんが留学しているウォーター・ウォール以外では、水中人は陸に上がれないと法律で決まっている。
少女は、私ににこりと微笑みかけた。その笑顔に、先崎先生の面影を見る。
「あなたが、私を呼んだの……?」
――そのとき、階下で怒号が響いた。男の野太い怒鳴り声、どやどやと靴のまま部屋に上がる複数人の足音。
ぎょっとして振り返ると、そこには、ののやんが肩でぜえぜえと息をしながら立っていた。階段を一気に駆け上がって来たらしい。
「なんで、ののやんが……」
ののやんは、いままで一度も見せたことがない昏い目を少女に向けた。
「先崎浩文が、自宅で水中人の少女を監禁している、というたれ込みがあったんだ。ずっと見張っていたんだが、アキちゃんのおかげでようやくしっぽを掴めた」
ののやんの登場で少し冷静になることができて、部屋の中を見回した。窓のない部屋いっぱいに、巨大な水槽が作りつけられている。四隅にエアバルブがあり、泡の柱が勢いよく立ち上がっている。水の中には少女が一人と、幼い子どものプール用のおもちゃ……カラフルなボールやわなげなどがいくつも浮いている。
「建物の外から見える二階の窓は、恐らく張りぼてだろう」
少女は不安げに、ののやんと私の顔を何度も見比べている。
私は、頭にふっと浮かんだことを口にした。
「もしかして、この女の子は先崎先生の娘さんなんじゃないですか」
「そうかもしれない。だが、水中人と地上人の間に子どもができることは、まだ科学的に証明されていない。……先崎浩文は、若いころに何度も水中人の国を訪れていたそうだ」
階段を降りると、一階には真黒なスーツ姿の険しい顔をした男たちが何人も集まっていた。元々雑然としていた部屋は、土足で踏み荒らされている。先崎先生は手錠を掛けられ、両側を男に挟まれて部屋を出てゆくところだった。彼の顔には様々な感情がぐちゃぐちゃに渦巻いていて、壮絶な様相だった。私には、その感情の一つさえも掬い取ることができない。
窓際に茫然と立っていた樋口さんが、私のそばへと駆けよって来る。
「一体、何がどうなってるんだよ。先崎先生は、逮捕されたのか?」
「私にも、よく分かんない。あとで、ののやんにちゃんと話を聞いてみる」
先崎先生はパトカーではなく、黒塗りの乗用車に乗せられて行った。車のドアが閉まる寸前、私の方をちらりと見た。涙をこらえているような笑顔だった。
あれは、私が高校に入学したばかりのころ。中学の三年間、ずっとクラスメイトからシカトされ続けていた私は、人と関わることに今以上におびえていた。クラブに入るつもりなんて全くなく、毎日誰とも話さずに過ごしていた。校舎の玄関ホールに置いてある小さなメダカの水槽をながめているときだけが、唯一の落ち着ける時間だった。
その昼休みも、私はメダカの水槽をながめていた。灰色の魚が、つうっと泳ぐのを観察する。可愛い。
急に、背後からぐいっとのぞき込まれ、びっくりして振り返る。いつの間に近付いて来たのか、先崎先生は無邪気な笑みを浮かべて、
「今から卵を採取するんだ。ちょっと、寄ってもらえるか」
と私に言った。それが、先生との出会いだった。
水槽には水草が浮かべられている。よく見ると、葉の上に透明な卵が産みつけられていた。先生は水草ごと小さな洗面器に移し、楽しそうに語る。
「ほら、卵の中でもう目ができているだろう。もうすぐ生まれて、大人になって、また次の世代の卵を産む。こんな小さな球の中に、無限の未来が詰まっているんだ。永遠にも思えるような、命の連鎖が……」
先生が卵に向ける、慈しむような視線。私はそのとき、一瞬だけ寂しさを忘れた。
科学部に入部することを決めたのは、先生のその目をずっと見ていたいと思ったからだ。その光の奥に何があるのかも知らず、ただひきつけられていた。
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