第5話
自宅のあるマンションに着いたのは、午後六時ごろだった。玄関のドアを開けると、丁度出掛けようとしていたらしいスミレさんと鉢合わせた。
「あれ、アキちゃん、夕飯を食べてくるんじゃ……」
スミレさんの体が固まる。目を見開いて、私の後ろに立つ男を見つめる。
「やあ、スミレちゃん。久しぶり」
ののやんはどういうわけか、はにかみながら右手を挙げる。次の瞬間、ぱちんと彼の頬が弾けた。呆然とするののやん。スミレさんが、彼の頬をビンタしたのだ。彼女の目には涙が浮かび、小刻みに震えている。
「スミレちゃん、ごめん……」
「良いの。このビンタで全部ちゃら。せっかくだから、三人で食事に行きましょう。アキちゃん、どこが良い?」
いきなり意見を求められても、困る。しかし、今すぐに答えないと状況が悪化するような気がした。
「丸亀製麺が良いかも」
歩いて五分の所に店舗があるし、安くてお腹がいっぱいになるし、スミレさんはとり天が大好物だ。一週間に一度は必ず行く。我ながら安易な選択だと思うけれど、険悪なムードを良くするための最適解でもある。
「アキちゃんは、ホントにうどんが好きだよね」
スミレさんが、呆れたように呟く。……どうやら、最適解ではなかったようだ。
結局、私たちは近所のイタリア料理店に入った。サラダとパンが食べ放題で、おばさんたちがランチをしたり、大学生が飲み会に使うような気楽な店だ。
スミレさんはひき肉ドリア、私はカルボナーラ、ののやんはナポリタンを頼む。
ののやんは、フォークとスプーンを使って器用にパスタを食べる。すごく美味しいのか、夢中になって黙々と食べている。スミレさんは、その顔をちょっと嬉しそうに見た。怒りはもうだいぶ治まったようだ。なんだかんだ言って、彼が大好きなのである。
「留学は、どうだった?」
すっかり落ち着いた声で、ののやんに話しかける。ののやんは、ぱっと顔を輝かせた。
「ウォーター・ウォールは、本当にすごい街だったよ。水中街と地上街に別れているんだけどね。地上には、水中人が泳いで移動できるような、水の入ったチューブが張り巡らされている。逆に、水中には大気があって呼吸できる施設が建てられている。鰓呼吸か肺呼吸かに関わらず、海と地上のどちらでも好きな方に住めるんだ。まさに、自由と共存の街だね。維持コストはかなり高いが、これから技術が発展してゆくと、その問題も解決されると思う」
想像してみる。海水の満たされた透明なチューブは、きっと光をキラキラ反射して綺麗だろう。地面に、波の陰影がゆらゆらと揺れて……
「私も、行ってみたいです」
「夏休みにでも来ればいいよ。スミレちゃんとアキちゃんを泊められるぐらいには、僕の部屋は広いからさ」
やったー、と喜んでいると、スミレさんが表情を曇らせる。
「ののやんは、向こうで危ない目に遭わなかった? テロ活動、まだ収まってないんだよね」
「うーん、まあ、百パーセント安全とは言えないな。でも、街営軍がしっかりしているし、僕がいる間は大きな事件は起こらなかったよ」
スミレさんは、完全には納得できなかったようだ。
「確かに、ののやんは無事に帰って来たわけだけど……」
と語尾を濁し、スプーンを口に入れた。
「ののやんは、いつまでこの街にいるんですか? すぐ戻っちゃうの?」
「こっちで、仕事があってね。多分、少なくとも一か月はいると思うよ」
短い。数年ぶりにやっと帰って来たと思ったら、会えなかった時間の十数分の一しかいないなんて。スミレさんを一人にしてはいけないって、本当に分かっているだろうか。ガツンと言ってやろう。
「この街にずっといるつもり、と言うか、スミレさんと結婚する気はないんですか?」
沈黙。
スミレさんがゴホゴホとむせる。コップの水を一気にあおり、何か言いたげに大口を開けるけれど、言葉が出ないようだ。
ののやんの方は、照れたように指で頬をかいている。
「そうだなあ。向こうで就いている仕事の任期があと一年だから、それが終わったら……スミレちゃんが良ければ、だけど」
え、意外……。ちゃんと考えてるじゃん。私は、スミレさんの顔をうかがう。耳がほんのり赤く染まっている。
「い、いきなり言われたって困るよ。でも、まあ、そうね。いろいろ準備もあるし、それぐらいが良いんじゃないかな」
私は嬉しくて、二人の顔を何度も見回した。
二年後、私は多分大学に進学する。今住んでいる街に居続けられるとは限らないし、そうしたら、スミレさんを一人にしてしまうことになる。
ののやんになら、安心して頼ることができる。内弁慶だし、不器用だし、筆まめでもないけれど。子どものころから不安定だったスミレさんを、隣でずっと支えて来たのは彼だ。あの四年前の失踪事件のとき、ボロボロになってしまった彼女をこちら側に引き戻すことができたのは、ののやんのおかげだ。
私には……スミレさんにいつまでも子ども扱いされている私には、どんなに頑張ったってののやんの代わりにはなれない。
この一週間、どういうわけか毎日のように、樋口さんが科学部の部室にお弁当を食べにくる。テーブルを挟んで私と向かい合って座り、黙々と食事をし、そして午後の授業が始まるまで昼寝をする。私に話しかけて来ることは、ほとんどない。ただそこにいるだけ。なんだか、野良猫みたいだ。部室は私だけのものではないので、拒否するわけにもゆかない。それに、必要以上に踏み込んで来たり、無駄な雑談を強要したりしない彼女の存在は不快ではなかった。むしろ、見ていて面白いし気楽だ。
私が昼食のサンドイッチを食べ終わったとき、樋口さんは既にお昼寝タイムに入っていた。私はなんとなく頬杖をついた。テーブルの上で組んだ両腕に頭を斜めにのせて、すやすや寝息を立てている彼女を観察する。ちょっと癖のある分厚い髪の毛が、荒れた唇の上にかぶさっている。息を吐くたびに毛先が小さく揺れるのが、少し面白かった。今は、首の傷は見えていない。無防備な姿。私を信用しているのだろうか。ポケットの中身を盗まれたり、髪を持ち上げて傷をあらわにされたりしないと、どうして思えるのだろう。「人との関係は浅くて良い」という自論を持っているくせに、彼女はけっこう隙がある。いや、案外、人を信じているからこそ浅く広い関係を持てるのかもしれない。他人に対する恐怖と自分への不信に溺れている私とは、真逆だ。羨ましい。
私もだんだん眠くなってきて、大あくびをしたとき、がらりとドアが開いた。びっくりして頭が冷える。入って来たのは、科学部の顧問である先崎先生だった。定年間近である先生は、よく日焼けした子どものように無邪気な目のおじいちゃんで、白いYシャツを肘までまくっている。なぜか、右手には小さなポリバケツを提げている。
「おお、お前ら。こんな所でシエスタか?」
先生は豪快に笑い、しゃがみこんで熱帯魚の水槽をのぞきこんだ。
「先生こそ、どうかなさったんですか」
「病気の奴がいてな。様子を見に来た」
私は立ち上がり、先生の後ろから水槽を見下ろす。どの魚も、いつも通りにしか見えなかった。
先生は水槽の横に置いてある段ボール箱から小さな網を取り出し、持参したバケツに一匹を移す。
「薬をやらにゃならん。俺の家に連れ帰る」
「先生の家って、近いんですか?」
「おう。○○スーパーの裏にある二階建ての家だ。いつでも遊びに来て良いぞ」
「俺、行きたいです!」
いつの間にか樋口さんが目を覚ましていて、元気よく口を挟んだ。
「おうおう、いつでも来い。夕飯をごちそうしてやる」
先生は一人暮らしなのだろうか。そう言えば、前に他の先生たちが「奥さんに逃げられたらしくて……」と噂していたのを耳に挟んだことがあったっけ。
先崎先生が部屋から出て行ったあと、樋口さんがテーブルに身を乗り出して、目を輝かせながら話しかけてくる。
「なあ、今日の放課後、一緒に先生の家にお邪魔しようぜ!」
行ってみたい。先崎先生の手料理には、かなり興味がある。
「でも、スミレさんに遅くなるって伝えてないし。多分、仕事帰りにテイクアウトの夕飯を買ってきてくれると思う」
うちの高校では、校舎に携帯電話を持ち込むことを禁止しているのだ。公衆電話は使えるが、スミレさんの仕事の終わる時間が分からないので掛けられない。
「じゃあ、明日にするか」
樋口さんは両手を頭の上でぐっと伸ばし、あくびをした。
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