第4話

 県立博物館は、ドーム型の大きな建物である。高さは三階建てのマンションほどあり、広さはバレーボールのコートが五つ入るぐらいだ。壁は黄土色のレンガ造りで、改修されたばかりなのか新しそうに見える。

 樋口さんがくれた特別展のチケットで、常設展示も見ることができるらしい。私たちは料金を払わずに入り口のゲートをくぐった。そして、すぐにどちらからともなく立ち止まった。

 玄関ホールは三階まで吹き抜けになっていて、正面にあるらせん階段から各階の展示室に行くことができる創りになっていた。ホールの天井には小型のクジラの骨格標本が吊るされていて、父親に連れられた幼い子どもが歓声を上げている。土曜日だと言うのに、その親子以外に客の姿は見えない。閑散とした薄暗い館内に、高い所に開いた窓から光の帯が斜めに差し込んでいる。帯の中で細かな埃が光を反射してチラチラと光る様が、この場の空気の重さと静かさをいっそう際立たせていた。

 床に敷かれた赤ワイン色のカーペットの柔らかさが妙に気持ち悪くて、私は何度か足踏みをした。

「ハコモノ行政の負の遺産ですねぇ」

と樋口さんが皮肉っぽく笑う。「ハコモノ」という言葉の意味が分からなかったけれど、面倒なので聞かないことにした。

「アキちゃん、どこから回る? やっぱり、特別展かな」

 私はうなずいた。正直に言うと、常設展示にはあまり興味がない。ここにいるかもしれないののやんを探す、という目的で頭がいっぱいになってしまっている。

 「特別展はこちら」と書かれた立て札の示す方向に、私たちは歩き始めた。階段は上らず、一階の奥へと向かう。その先には重そうな黒い布張りの扉が待ち受けていた。扉の横にはきれいな藍色のポスターが張られており、「県立博物館特別展『海の暮らし―水中人と地上人の共存を目指して』」という白い文字が整然と並んでいる。学芸員らしい紺色のスーツ姿の女性が、扉の前に立って私たちに手招きをした。

「中は暗いので、足元にご注意ください」

「ありがとうございます!」

 樋口さんが女性に元気よく返事をする。私は軽く頭を下げるだけで済ませた。

「展示の都合上、あまり光が入らないようにしたいので……」

 そう言いながら、学芸員さんが扉を薄く開けてくれる。私たちは、その隙間に体を滑り込ませる。

 その瞬間、海に落ちた。

 目の前が真っ青に染まる。

 うねる波に体を呑み込まれ、押し流されそうになる。必死で脚を踏ん張り、抗う。息ができない。皮膚が痛くなるほど冷たい水が、頬を舐めながら流れてゆく。手足をくすぐる無数の泡。思わず開いてしまった口に、辛い液体がどっと入って来る。ダメだ。このままだと死んでしまう!

「アキちゃん、大丈夫?」

 呑気な声が耳元で鳴って、はっと我に帰った。空気を一気に吸い込んだ喉が、変な音を立てる。

 目を開くと、やっぱり私は海の中にいた。しかし、本物ではない。リアル3Dエンバイロメントという近年急速に発達した技術によって作られた、仮想現実だ。体験するのは二度目だった。

 部屋の中には、水中人の住む近海の海底が再現されていた。岩場を削り平らにした陸上グラウンドほどの広さのある居住地に、石造りのドーム型の建物が並んでいる。私のいる場所の周辺は住宅地らしい。遠くの方には魚を養殖するために赤い網で囲まれた区域が見えるし、海藻の畑、住宅よりも大きな学校らしい建物、水力発火場もある。昔ののやんがくれた観光パンフレットに載っていたものとほぼ同じ、一般的な水中人の街だ。見えている海に果てがないように感じられるが、それはただの錯覚で、実際の部屋はかなり狭いはずだ。

 樋口さんが、自分の顔の側を泳いでいる銀色の小魚に手を伸ばす。行く手を遮ろうとしたのだろうが、魚は彼女の手を通り抜けて真っ直ぐ進む。映像なので触れることはできないし、こちらを認識させることも不可能だ。

「俺、リアエンは初めてだ。水の冷たさとか波の感触とか匂いとか、そんなものまで再現できるんだな」

 感動にあふれた口調で呟き、樋口さんは頭上に視線を向ける。つられて私も上を向くと、ちょうど地上人の漁船が通るところだった。船の後ろを、数人の水中人の子どもが笑いながら追いかけてゆく。白く透き通った肌と、足の代わりにある大きな尾びれ、耳の下にある鰓。それ以外は、地上人とほとんど同じ姿をした人々。彼らももちろん映像なので、私たちを認識することはない。しばらくすると追いかけるのに飽きたのか、私たちのすぐ前を通って、学校の方へと泳ぎ去ってしまった。彼らの泳いだ後には細かい泡でできた白いレースが生まれ、すぐに弾けて消える。とても、綺麗だ。

 私たちは、時間をかけて水中散歩を楽しんだ。街にはほとんど人影がなかった。多くの人々が仕事に出掛けている平日の昼間の設定なのかもしれない。

「あれ、出口はどこだ」

 樋口さんが、困ったように頭をかいた。私は辺りを見回し、ほどなく水中にぽっかりと浮かんだ黒い扉を見つける。扉の前で、スーツ姿の係の人がパイプ椅子に座って文庫本を読んでいる。あれ。あの人、なんだか見覚えがあるような……

「の、ののやん?」

 親しい人の間だけで通用するあだ名を呼ばれたののやんは、ぎょっとしたように顔を上げた。私を認識したようで、慌てて立ち上がる。逃げようとしたのだろう。でも、職務をすっぽかすわけにもゆかなかったのか、溜息をついてこちらに向き直った。

「アキちゃん、久しぶり。スミレちゃんは元気?」

「元気じゃないですよ」

私は、とげとげしい言葉を吐いた。


 博物館に隣接するミュージアムカフェのテーブル席で、樋口さんと向かい合ってクリームソーダを食べている。私のグラスには淡い緑色の液体が、樋口さんのものにはピンク色の液体が入っている。メロン風味と、さくらんぼ風味らしい。人口甘味料の味が濃い。けれど見た目は美しく涼しげで、さわやかな夏の空気をまとっている。ストローを回すと、四角い氷がカラカラと鳴った。浮かべられた半球状のバニラアイスクリームが融けて、液体が少しずつ透明さを失ってゆく。

 樋口さんは食事中にあまり話さない人らしく、この前占いおばさんの店に行ったときと同じように黙り込んでいる。私は、ののやんの変な態度に対する苛立ちをまだ抑えられていない。もしかして、留学中に浮気でもしたのだろうか。ののやんがスミレさんを裏切るなんて、そんなの信じられない。何か事情があるんだと思いたい。でも……

「おまたせー」

 カフェに入って来たののやんが、私たちのいる席に近付いてくる。ちょっと迷うような仕草を見せ、私の隣に座った。特別展の警備係のシフトが終わったあと、私と一緒に帰る約束をしていたのだ。

 ののやんは片手を上げてウェイトレスさんを呼ぶと、アイスココアを頼んだ。昔から、かなりの甘党である。

 私は上半身を彼に向け、じっと睨んだ。

「どうして、スミレさんに連絡を取らないんですか? ずっと、心配してたのに」

「ごめん、色々あったんだよ」

「どんなことですか?」

「それは、仕事上の守秘義務ってやつで。アキちゃん、そんなに怒らないで」

 ののやんは、腕で顔をかばうようにして身をすくめる。情けない態度。私が殴るとでも思っているのだろうか。暴力反対主義なことを、しばらく会っていないうちに忘れてしまったらしい。

「えーと、お二人はどういうご関係で?」

 険悪なムードを面白がるように、樋口さんが口を挟む。クリームソーダは、既に飲み終わっている。

「私、従姉と同居してるんだけど、ののやんはその人の恋人なの。外国に留学してて、もう二年近く帰って来てなかったんだよ。連絡もほとんどよこさないなんて、ひどくない?」

 我ながら相当怒っているな、と頭の中の冷静な部分で考える。声が普段よりかなり大きくなってしまう。

 樋口さんは、ちょっと眉を下げた。

「あー、俺もけっこう、そういう所あるな。いまいち、連絡の必要性が分かんないって言うか。一緒にいないときに何してようが、個人の自由じゃん」

 ののやんが、うんうんとわざとらしくうなずく。完全に開き直っている。腹立たしい。

 困ったような表情のまま、樋口さんが私のグラスを指差す。

「それより、早く飲んだ方が良くないか。アイス、全部融けちゃってる」

「私はこれぐらいの方が好みなの!」

 嘘だ。イライラしながら、ストローを使わずにグラスを一気にあおった。その様子を、ののやんが「あり得ない」というような苦い表情で見ている。自分でもちょっとまともじゃないと思うぐらい感情が高ぶって、目頭が熱くなった。涙がぽろぽろと頬を伝う。ひっく、と喉が鳴る。

「スミレさんは、しっかりしてるようなフリしてるけど、本当はとても弱いの。何かあったらすぐに壊れちゃうほど、ボロボロなの。だから、ののやんが支えてあげないとだめ。私だけじゃ全然だめ。ホントに、だめなの」

 ののやんが手を伸ばす。私の頭の上に、そっとのせる。太い眉を下げて、柔らかく微笑む。

「分かってる。僕も、分かってるんだ。でも、今は本当にのっぴきならない事情があった。すまない。今まで、スミレを支えてくれてありがとう」

 私はののやんの手を丁寧に自分の頭から下ろし、ワンピースの袖で涙をぬぐった。


 ターミナル駅で、別の路線を使う樋口さんと別れた。ののやんと二人、空いた電車に乗り込む。両側の壁に沿って一列に椅子が並んでいるタイプの車両で、私たちは少し間を空けて横に並んで座る。車窓に、車内の様子がうっすらと映っている。私は、泣いていたことがすぐに分かるようなひどい顔をしている。ののやんは無表情だ。とても太い眉と、少し癖のある髪を後ろで一つにまとめているのが、昔から変わらない彼のトレードマーク。この街を旅立ったころと違うのは、濃く日焼けしていることか。十代のころ、彼はいつも部屋にこもっている色白で頼りなげな青年だった。

「アキちゃんも、もう高校生かぁ。卒業後の進路、考えてる?」

 私の進路の話なんてどうでも良いのに、と思いながらも答える。

「第一志望は、○○大学の生物学科です」

「へー、意外だな。文系科目の方が得意じゃなかった?」

「高校で、一つのクラスの人数が決まっているんです。私の学年はなぜか文系クラスの人気が高くて、抽選に漏れちゃいました」

 ののやんは、かなりビックリしたようだ。

「そんな理不尽なことがあって良いのか……」

「諦めてます。理科、そんなに嫌いじゃないので。別に良いかなーって」

「僕は、今からでも抗議に行くべきだと思う。まだ、二年生になったばかりだろう?」

 そんなことを言うくせに、彼自身は人に文句を言うような度胸がない。そういう内弁慶なところを、スミレさんは愛しているようだ。私にはよく分からない。

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