第3話

 朝、高校の昇降口で靴を履き替えていると、背中に何かがぶつかって来た。勢いはそれほど強くなかったけれど、突然だったので、よろめいて靴箱に手をつく。

「あー、ごめん。びっくりした?」

 振り向くと、そこには樋口さんがいた。楽しそうにニコニコ笑っている。朝はいつもあんまり元気でない私は、彼女のテンションの高さに消化不良を起こす。

「どうしたの?」

「いや、ただ単にあいさつしただけだ。真面目そうに見えて、けっこう始業ギリギリに来るんだな」

 私は曖昧にうなずき、のろのろと教室に向かって歩き始める。ごく自然な態度で、樋口さんが隣に並ぶ。どういうつもりなのだろう。彼女とはたまたま成り行きで一緒に占いに行っただけで、別に友だちになったつもりはなかった。棲む世界が違いすぎる。私は、彼女のように「みんなで楽しく行動」することができない。仲間と一緒にキラキラした舞台に立つこともできない。心がもたないから。疲れてしまうから。浮いてしまうから。

 だから、彼女ともこれ以上付き合いたくない。でも、うまく拒絶することができない。

 樋口さんも何も言わないので、二人で黙ったまま階段を上った。始業十分前の廊下は、生徒たちで溢れている。ほとんどの生徒が同じ方向に歩いてゆくので、まるでアフリカのヌーたちが河を大移動してゆくようだ。みんな同じ、飾り気のない真黒なジャンパースカートを着ているし。

 教室に着くと、樋口さんは背負っていたギターをロッカーの上に乗せ、数人のクラスメイトたちと「おはよう」を言い合いながら席に着いた。私は誰とも顔を合わせず、一番後ろの席に座る。樋口さんと連れ立って来たのではなくたまたま近くを歩いていただけだ、という顔をしようと思ったが、誰もそんなことは気にしていないようだった。みんな、朝礼で行われる英単語テストのためにノートを開いて勉強している。私はホッとして、ため息をついた。

 昼休み、いつものように科学部の部室の窓から池をながめていると、背後でドアの開く音がした。開けたのは、やっぱり樋口さんだった。なんとなく、今日もやって来るんじゃないかと思ってはいた。気に入られてしまったのだろうか。いや、私なんかに魅力はないだろう。都合の良い奴だと勘違いされてしまった可能性が高い。

「今日は、餌やり当番じゃないよね?」

「アキちゃんと話をしに来たんだ。あんた、すごく面白いから」

「それ、本心?」

 樋口さんは、困ったように右手で頭をかいた。

「本心だよ。……でも、今ちょっと教室や軽音楽部の部室に居づらいっていうのもある。ほら、占いおばさんの所で話したじゃん」

 ああ、そう言えば、恋がどうとか言っていたような気がする。この高校は女子校で、男は職員しかいない。それってつまり……

 私は考えるのをやめ、パイプ椅子に深く座った。樋口さんは、私のすぐ向かいに椅子を引っぱって来て座った。妙に、人との距離が近い人だ。私はあんまり肉体的な距離を気にしないタイプなので良いけれど、心には踏み込まれたくない。

「いつも一緒にいる仲良しさんと気まずくなったからって、私をだしにするのはあんまり良いことじゃないと思う。正直、迷惑」

 きつい言葉だと分かっていて、それでも言わずにはいられなかった。どうせあなたは、元のさやに戻れたら私の元から離れてゆくんでしょ。リア充のなぐさみにされるなんて、ごめんだ。

 樋口さんは眉間にしわを寄せ、苦しそうな表情で私を見つめる。怒って出て行くだろうと予想していたのに、彼女は動かなかった。ふっと表情を緩め、口を開く。

「俺はなんていうかさ、人間関係って流動的なもので良いと思うんだよね」

「え……?」

「人と人との関係は薄くても良くて、互いに都合の良いときだけ一緒にいられる、協力し合えるっていうあり方が理想だと思うわけ。俺にとって、ここでアキちゃんと話せる時間は楽しいんだ。どう? アキちゃんにとって、俺は都合の良い存在じゃない?」

 私はビックリして、口をつぐむ。上手く言い訳されただけのような気もするし、本当に彼女が心からそう思っているようにも思えた。人付き合いに対するそういう姿勢は好ましいと思えないけれど、ちゃんと筋が通っている。

「ま、まだ分かんないよ」

 そう答えながらも、取りあえず樋口さんとしばらく付き合ってみようと思った。

「ところでさ、俺、ちょっと前に懸賞に応募してたんだ」

 そう言って、彼女はスカートのポケットから白い封筒を出した。中には、群青色のチケットが二枚入っていた。

「県立博物館特別展、『海の暮らし―水中人と地上人の共存を目指して』」

 チケットに書かれた文字を読み上げる。

「うちの家族、こういうの嫌いでさ。他に一緒に行ってくれる人がいないんだよな。ただで当たったから、チケット代はいらないぜ」

 ののやんの影響もあって、私は二つの種族の交流活動に興味を持っていた。

 それに、もしかしたら、ののやんはこの特別展の関係者としてこの街に来ているのかもしれない。仕事が忙しくて、スミレさんに会いに来られないのかも……

「私にとっても、樋口さんは都合が良いかもしれない」

 私がそう言うと、樋口さんは嬉しそうに笑った。

 樋口さんとの待ち合わせ場所は、この街のターミナル駅だった。土曜日の午前十一時。休日に電車に乗ることが滅多にないので、いつもと違う雰囲気を物珍しく感じる。観光客らしい家族連れや年配者のグループが多い。スポーツバッグを背負った若者たちは、学校の運動部の練習に行く途中だろうか。人の数は多いけれど、通勤ラッシュ時とは違いどことなく穏やかでゆったりした空気が漂っている。晩春の陽の光はまだ弱弱しく、それでいて白く眩しい。とても明るいのに肌寒い駅舎の中で、私は人々のざわめきを声ではなく風の音のように聞いていた。

「おまたせー!」

 約束の時刻の一分前に、樋口さんは改札を抜けて来た。駆け足で寄って来て、自分の左肩を私の右肩に軽くぶつける。相変わらず、やけに距離が近い。

 樋口さんの私服を見るのは初めてだ。びっくりして、思わず彼女の全身をまじまじと観察してしまう。普段のボーイッシュな態度から想像していたものとは全然違った。レースがあしらわれた淡いピンク色のブラウスに、チョコレート色の棒ネクタイ。ひざ丈の黒いフレアスカート。スカートと同じ色の編み上げブーツ。この寂れた地方都市では滅多に見かけない、お洒落で都会的な服装だった。ティーンズ雑誌や、スミレさんに借りた少女漫画の中の女の子のような……この服、めちゃくちゃ高いんだろうか。そもそも、どこで買っているのか。目立つのが怖くて、私なら絶対に着られない。多分、似合わないし。私が今着ているのは、イオンのバーゲンで買った地味な紺色のワンピースだ。アクセサリーなんて、もちろん付けていない。

「目、真ん丸になってるぜ」

 樋口さんが、面白そうに笑う。

「えっと……すごく可愛い服を着てるから……」

色々考えていたけれど、言葉にできたのは当たり障りのない感想だった。

「大阪に遊びに行ったときに買ったんだ」

「へ、へえ」

 苦笑いをしながらうなずいた私に、樋口さんは気を悪くする様子も見せずに言う。

「アキちゃんだって、可愛い服着てるじゃん。シンプルな紺色は大人っぽいアキちゃんに似合ってるし、襟の刺繍もいけてるよ」

 女の子っていう生き物は、可愛いなんて全然思っていなくても互いに「かわいー」って言い合うものだ、とティーンズ雑誌のコラムに書いてあった。私は長い間友だちがいないので、そういう場面に遭遇したことはなかった。もしかして、今の状況こそがまさにそれなのだろうか。喜ぶべきなのか。それともバカにされたと思う方が正しいのか。分からない。

「なんか、やけに難しい顔してるな! どうしたんだよ」

 樋口さんが、私の背中を軽く叩く。私は誤魔化すために、

「早く、行こうよ」

と足を踏み出した。

 ターミナル駅から博物館の最寄り駅までは、五駅分ある。二両編成の電車の中は空いていて、四人掛けのボックス席を二人だけで使うことができた。真向いではなく、互いに斜めになるように座る。

 私はしばらくの間、車窓の外の風景をながめていた。遠くに連なっている山々は、淡い色の若葉で冬よりも膨らんだように見える。山が萌えている、という表現を思い出す。線路の下から山裾まではずっと麦畑が続いていて、青い穂が風に揺れている。もう少しすれば、一面に黄金の絨毯を敷いたように染まるだろう。稲の水田は、まだ田植えの時期を迎えていない。薄く張られた水面に、空の青が映っている。

 ふと、何気なく車内に目を移す。いつの間にか、樋口さんが座ったまま寝息を立てていた。頭がゆらゆらと揺れ、硬い窓にぶつかっては鈍い音を立てる。がくん、と首が前に向かって倒れ、また起き上がった。そのとき、いつも首元を隠している分厚い髪がずれた。その下から現れたものに、私の目は釘付けになる。

 ――耳の下からうなじに向かって、大きな傷痕があった。線状に皮膚が白く盛り上がり、ひどく引きつれている。古いものに見えた。しかも、右と左の両側にある。

 頭の中が混乱する。長い髪はゴムでまとめなければならないという校則を、彼女が守っていなかったのは、この傷を隠すためだったのだろうか。何があってこんな大きな傷がついたのか、全く想像することができない。

 傷から目を離せずにいると、樋口さんが「ん」と小さく声を漏らした。目が覚めたらしく、まばたきしながら首を上げる。

「あれ、もう着いた?」

 彼女の言葉のおかげで、私は我に帰った。扉の上の電光掲示板を見て、次が降りるべき駅だと知る。

「なんか、すっごく良く寝た気分!」

 樋口さんは、満足そうに体を伸ばした。私に傷を見られたことなんて、気付いていないようだ。

 見なかったことにするべきだ、と思った。彼女は、触れて欲しくないだろう。重い……私には到底受け止めきれない事情があるに違いない。そもそも、彼女は私との間に浅くて都合の良い関係を求めていて、私も必要以上に踏み込みたくない。

 私はけっこう、考えていることが顔に出やすい性質だ。樋口さんに動揺を悟られないように、気を付けなければならない。

 休日は、そんな不穏さを抱えたまま進んでゆく。

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