第2話

 そのカフェは、商店街のメインストリートから外れ、狭い路地に入った所にあった。オレンジ色と白色の縞々模様の軒先テントは灰色に薄汚れていて、大きな窓から店内の様子を見渡すことのできる、ちょっと安っぽい雰囲気の建物だった。カウンターの前には背の高い丸椅子が五つ並んでいて、四人掛けのテーブル席が二組ある。客は、今の所誰もいない。店員らしいおばさんが、椅子に座って新聞を読んでいる。

「占いおばさんって、あの人かな」

「取りあえず、行ってみよう」

 私たちが入り口のドアを開けると、小さくベルが鳴った。

 私たちが店内に入ってゆくと、おばさんは新聞から顔を上げた。明るい茶色に染められたソバージュの髪と、ファンデーションが白すぎる顔、レンズの円い鼈甲の縁の老眼鏡。五十代くらいだろうか。都会的なお洒落をしているように見えるけれど、小柄でちょっと子どもっぽさの残る顔立ちのせいか、可愛らしいという雰囲気だ。彼女はしげしげと私たちを観察している。

 どの席に座ろうか迷っていると、

「あら、あんたたち、ここのカウンター席に座りなさい。占い、して欲しいんでしょ?」

 とおばさんが声を掛けて来た。思わず、樋口さんと顔を合わせる。

「霊能力……?」

 この人こそが「占いおばさん」で、私たちの全てを見透かしているのだろうか。店内は暖房が効いているのに、薄ら寒い。

 多分、私の表情に不安がにじみ出てしまっていたのだろう。おばさんは面白そうに声を立てて大笑いし始めた。

「あんたたちみたいな若い子は、たいてい占い目当てでここに来るのよ。コーヒーを飲みに行くならスタバかドトールだし、パフェやケーキは喫茶二宮で食べるでしょう」

 樋口さんが、ふうっと息を吐いて微笑む。

「まあ、そうですね。おばさん、面白い人ですね。霊能力で分かったってことにした方が、神秘的なムードを盛り上げるんじゃないですか?」

「そんな嘘は吐かないわよ。信用問題に関わるもの」

 私はまだ不安を拭いきれていないけれど、樋口さんはすっかりリラックスできたようだ。おばさんのちょうど前の席に、ギターを背負ったまま座る。私も慌てて、彼女の隣に腰かけた。

 おばさんは右手で頬杖をつき、ねっとりとした視線を樋口さんに向ける。

「それで、あんたは何を占って欲しいの?」

「俺、バンドをやってるんです。でも、最近メンバー同士の仲が険悪で……。近いうちに解散することになってしまうのかどうか、知りたいんです」

 おばさんは視線を落とし、「なるほどねぇ」と呟いた。意味深な仕草に、ドキリとする。樋口さんは身を乗り出して、真剣な表情で答えを待っている。

「あんたしだいよ、それ。あんたが『彼女』への恋を諦めたら、それで解決する問題だわ」

「えっ……」

 樋口さんと私は、同時にそう呟いていた。

「どうせ叶わない恋なんだもの。その気持ちを封印する方が、バンドをやめることよりも簡単でしょう」

 すっと、樋口さんは体を引いて椅子に座り直した。カウンターに視線を落したまま、ぼんやりとしている。どうやら、おばさんは彼女の本当の悩みを言い当てたらしかった。

 ……本物、かもしれない。心臓が、ひどく苦しそうに跳ねる。

「あんたの方は?」

 おばさんが、私の方を向く。天井の黄色いランプが、彼女の頬の上に眼鏡の影を作る。怖かった。おばさんの体の奥に深い深い沼があって、私を引き込もうとしているように感じる。けれど、口は勝手に動いた。

「えっと。私、従姉と同居してて。その従姉には恋人がいるんですけど、留学したままずっと帰って来ないんです。その人、無事に帰って来ますか?」

「もう、帰って来てるわよ」

「は……?」

 頭が真っ白になる。おばさんはもうこれでおしまい、というようにパンパンと両手を打ち、

「ケーキセットを頼んでちょうだい。その代金に、占い料も入っているから」

と壁に貼ってあるお品書きを指差した。

 私はオレンジジュースとチーズケーキを、樋口さんはアイスティーとチョコレートタルトを頼んだ。食べている間、私たちは押し黙っていた。樋口さんはどこか痛い場所があるようなしかめっ面をしているし、おばさんは黙々と新聞を読んでいる。私の頭の中は、疑問と怒りでいっぱいだった。ののやんが本当にこの街に帰って来ているのなら、どうしてスミレさんに連絡を取らないのか。顔を見せてくれないのか。

 不意に、雨の音が耳をかすめた。はっとして窓の外をみると、しとしとと小雨が降り始めていた。

 まずい。

 私は慌ててポケットから小銭を出し、カウンターの上に置く。まだジュースが飲みかけだけれど、仕方ない。

「ごめんなさい、樋口さん。私、先に帰る」

 テレビの天気予報では、今日の降水確率はゼロパーセントだったのに。

 走って入り口のドアを開けようとした私の背中に、おばさんが

「そこの傘立てにある黒い傘、使っても良いわよ」

と声をかける。

「ありがとうございます! すぐに返しに来ます!」

 男性用の傘らしく、柄が太くてずっしりと重かった。持て余しながらも、私はスピードを緩めなかった。

 雨の日は。雨の日は。絶対に。


 雨が降っている街は、灰色のフィルターを掛けたように本来の色彩を失っている。学校を出たときは綺麗な青色だった空が、どんよりと曇っているのを睨み、雑居ビルの並ぶ片道一車線で歩道のない道を歩いてゆく。ごみごみした、寂れた通り。カラオケ店の色あせた幟、ネオンの消えたスナックの看板、小さなブティックのショーウィンドーに掛けられた、糸のほつれてしまったサマーセーター。気が滅入る風景だ。行きつけの個人書店から漏れる電灯の光すら、じっとりと湿って不快だった。

 車がすぐそばを通るために水溜りを避けられず、靴下が濡れてしまう。ぐじゅぐじゅと、靴の中で泥水が躍る。唇をきゅっと引き締め、滑らない程度に足を速める。

 マンションへと続く道にある最後の角を曲がったとき、遮断機の降りた踏切の向こうにスミレさんの姿が見えた。仕事用のスーツを着たまま、傘を二本ぎゅっと両腕で抱えて、必死な顔で立っている。ポニーテールを束ねていたゴムが切れてしまったのか、長い髪が首の後ろで広がっていて、それがますます彼女を惨めに見せていた。

 ――間に合わなかった。

 私の姿に気付いたのか、スミレさんは今にも遮断機を乗り越えそうになる。

「大丈夫です!」

 私は叫んだ。高らかに鳴る踏切の音に負けないように、喉が切れるほど叫んだ。

 次の瞬間、電車が私たちの間にゴウゴウと音を立てながら、ものすごい勢いで割り込んだ。鈍く光る車体に開いた窓の中には、灰色の人影がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。人の顔も見分けられないほどのスピードで過ぎてゆくくせに、なかなか最後尾にならない。苛立って、傘の柄に爪を立てた。すぐに借り物だったことを思い出し、唇をかんだ。

 嵐のように電車が過ぎ去ったとたん、遮断機が上がりきるのも待たず、スミレさんが走り出した。線路の溝に足を引っかけ、転ぶように私に抱きつく。勢いで、差していた黒い傘が地面に落ちた。ぎゅっと、苦しいほど力のこめられた彼女の両腕も、お腹の辺りに当たる息も、温かかった。熱い涙が、制服のシャツごしに肌に滲みた。スミレさんは濡れて汚れた地面に膝をついている。多分スーツは台無しだろう。……そんなことを、妙に冷静な頭で考えた。

「雨の日は危ないって言ったよね。あなたがいなくなったら、私……」

言葉が途切れ、スミレさんはすすり泣き始める。

「ごめんなさい」

 他に何も言えなかった。

 雨がだんだんと弱まり、落ち着いたらしいスミレさんは私から離れ、傘を拾い上げた。

 あれ、と不思議そうに柄を見つめる。

「どうしたんですか?」

 彼女の手元をのぞきこみ、思わず「あっ」と叫んだ。

 喫茶店で借りた傘の柄には、黒いマジックで「野々道」という名前が書かれていたのだ。


 マンションの部屋に帰ると、ダイニングテーブルの上でテイクアウトの牛丼が湯気を立てていた。

「今日はいつもより早く帰れたの。さ、早く着替えて食べようよ」

 スミレさんの声は、すっかり普段の穏やかさを取り戻している。

 傘を差していたとは言え、制服のジャンパースカートは裾と肩がぐっしょり濡れてしまっている。あいにく替えのスカートはクリーニングに出したばかりなので、明日もこれを着なければならない。自室にある部屋干し用の竿に吊るし、ファブリーズを全体にかけた。

 部屋着のワンピースを頭からかぶり、ダイニングチェアに座る。スミレさんはTシャツとトレパンという緩い服装で、私を待っていてくれた。まぶたは腫れているけれど、牛丼を満足そうにながめている様子を見て、私はホッとした。

「今日は、クラスメイトと『占いおばさん』に会いに行ってたんです。あの傘は、そこで借りました」

「もしかして、オレンジと白の縞々のテントの店?」

「知ってたんですか?」

「知ってるもなにも、十代のころからの行きつけの店だよ。昔から、よくそこでののやんとデートしてたの。朝に教えた夢占いの本も、あのおばさんに借りたんだ」

「と言うことは、ののやんが傘を置いて行ったの、最近だとは限らないんですね」

 もしかしたら、ののやんも最近あの喫茶店に訪れたのかもしれないと考えていた。 おばさんは霊能力ではなく人並み外れた洞察力があって、顔の似ている私とスミレさんが親戚であることに気付き、そしてスミレさんの恋人であるののやんが来店したことを教えてくれたんじゃないか、と。ちょっと無理があるかな。

 スミレさんは、不服そうに頬を膨らませた。

「この街に帰って来てるのなら、どうして私に連絡しないの? こんなに心配してるのに」

「何か事情があるんじゃないですか。スミレさんを嫌いになったわけじゃないと思います。昔から、気持ち悪いぐらいぞっこんですし。この前読んだティーンズ雑誌に、男の人は電話やメールが苦手なので返事が来なくても気にしないように、と書いてありました」

 スミレさんの表情が緩む。呆れるような、幼い子どもを見るような、そんな顔を私に向ける。

「まあ、そういう考え方もあるよね」

 彼女を慰めるつもりだった私は、予想外の反応をされてムッとした。スミレさんはそれさえも愛おしいというように、微笑んだ。

 大人というものは、よく分からない。

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