深い海の底で in the deep blues

雨希

in the deep blues

第1話

 あの日、この街には雨が降っていた。

 激しい雨脚はまるで、幾重もの白いカーテンが揺れながら地面をさらってゆくようだった。どうどうと押し寄せる雨音に呑み込まれそうになりながら、私はマンションの外廊下に一人ぼっちで立っていた。水しぶきが顔を濡らすのにも、構わなかった。とっくに夜は更け、薄汚れた廊下を照らすのは天井から下がるオレンジ色の弱弱しい電灯だけ。空も道路も公園も、何もかもが黒い絵具で塗り潰されたように闇に沈んでいた。どこからか、すうっと白い光が射すたびに、心臓が跳ね上がった。それは車のヘッドライトだったり、市役所の見回りのおじさんが持っている懐中電灯だったりした。私がずっと待っている、家族の持つ灯りではなかった。


 暗闇の中で私を支配していた寂しさと恐ろしさを、四年経った今でもはっきりと思い出すことができる。雨の冷たさも、濡れた服の重さも。けれど、その後何が起こったのかは、完全に記憶から抜け落ちてしまっている。家族は誰も、あの日のことを口にしようとしない。多分、近くに住む親戚総出の捜索は翌日まで続いて、ついには警察に連絡することになったのだと思う。まだ小学生だった私は、完全に蚊帳の外だった。

 ――いなくなったのは、私のお姉ちゃんだったのに。


 布団の上で目が覚める。気怠さや関節の軋みのない、気持ちの良い覚醒だった。何かとても変な夢を見ていたような気がするが、妙にクリアな頭には何も残っていない。どこかに忘れ物をしてきたような気分だ。

 灯りの付いていない私の部屋に、薄いカーテンを通してぼんやりとした朝日が射しこんでいる。この薄暗さからすると、まだ六時を過ぎていないかもしれない。携帯電話を探して枕元を探るけれど、指先はさらさらとシーツの上を滑るばかりだ。体を起こすと、勉強机の上にのっている携帯電話が見えた。いつもなら、布団と別れるのが辛くてぐずぐずするだろう。でも、今日はあっさり立ち上がることができた。デジタル時計の表示は五時半。ちょっと早いけれど、朝食の準備をしよう。

 パジャマを着たまま台所でハムエッグを作っていると、同居人であるスミレさんが起きて来た。まぶたが腫れた、ひどい顔だ。肩甲骨の辺りまでの長い髪はぼさぼさで、毛先が四方八方に飛び跳ねている。薄紫色のパジャマは、肩からずり落ちている。

 スミレさんは壁掛け時計をちらりと見て、

「あっれー、まだ六時になってないじゃん! アキちゃん、早起きだねー。どうしたの?」

と眠そうな声で聴いて来た。

「変な夢を見たみたいで」

 ふーん、とスミレさんは相槌を打ち、ダイニングの椅子に座る。彼女の前に、私はワンプレートの朝食を置いた。トースト、ハムエッグ、夕食の残りのポテトサラダ。飲み物は、バーゲンで大量買いしたスティックコーヒーだ。

 スミレさんは、私が食卓につくのを待っていてくれた。二人で向かい合い、それぞれのタイミングで両手を合わせる。

「いつもありがとう、アキちゃん。いただきまーす。……それで、夢ってどんなのだったの? 夢占いしてあげる」

「スミレさん、占いなんてできるんですか?」

「知り合いに教えてもらったの。キーワードで占える本も貸してもらったんだ」

 ワクワクしているスミレさんには悪いが、何も思い出せない。そう伝えると、彼女はがくりと肩を落とした。顔を曇らせ、重そうに口を開く。

「実は私も、変な夢を見たんだよね」

「どんなものですか?」

「ののやんがこの街に帰って来る夢」

 私は、どんな言葉を返せば良いのか分からなかった。ののやんこと、野々道隆雄。彼はスミレさんの幼馴染であり、恋人だ。数年前から海外に留学していて、全然帰って来ない。連絡すら滅多によこさないそうで、二人の遠距離恋愛はあまり上手く行っていない。

「……正夢になるかもしれませんよ」

「今更帰って来られても、どんな顔していいか全然分かんないよ」

 それもそうだ。眉を寄せたスミレさんの表情に複雑なものを感じ取って、私はそれ以上何も言わないことにした。焼きたて食パンを、さくっとかじる。美味しい。


 スミレさんの職場は私の高校よりも遠いので、彼女の方が少し早く出掛ける。ヘアアイロンで髪をさらさらにし、ぴしっと黒いスーツを着た彼女は、寝起きのだらしない姿とは別人のように見える。

「夕飯、何が良い?」

「牛丼だと嬉しいです」

「りょおっかい! いってきまーす」

 スミレさんを見送ったあと、私は制服のジャンパースカートに着替え、ダイニングで少しだけ英単語の勉強をした。高校では毎日朝礼のときに、英語の小テストがあるのだ。

 八時前に部屋を出る。ドアを開けたとたん、鼻がきゅっと冷えた。暦の上では春になったとはいえ、朝の空気はまだ冷たく透き通っている。深呼吸をすると、胸がすっとした。

 最寄り駅へと続く道の両側には、等間隔に桜の木が植えられている。ソメイヨシノではない。花びらの赤色がとても濃くて、薄い灰色の景色の中で強く存在を主張している。

 桜を見上げながら、私はぼんやりと野々道さんの顔を思い出していた。

 ……従姉妹同士の生活は穏やかだけれど、欠けているものがたくさんある。


 海中でしか生きられない「水中人」と、大気中でしか生きられない「地上人」の戦争は、私が生まれる数百年前から続いて来た根の深い問題だ。互いに住み分けているようでいて、近海に住居を構える水中人と、船の発明により海へと進出した地上人の行動領域は重なっている。工場排水による海の汚染問題、水中人のギャングによる船の襲撃、排他的経済水域の境界侵犯……。多くの問題は未だ解決していないが、それでも、互いに共存する道を模索している人々もいる。二年前、水中人と地上人の両方が住民となれる「特別区」が世界で初めて作られた。ののやんはそこに留学中である。彼が行くと決めた時、スミレさんは強く反対した。その区を標的にしたテロが断続的に起こっており、危険ではないかと思ったのだ。しかし、結局止めることはできなかった。彼からの連絡を待つ日々は、辛いだろう。便りが無いのは元気の印、だなんて笑っているけれど。


 高校の昼休み、私はいつも科学部の部室で一人で過ごす。四角いテーブルと椅子が数脚、科学雑誌が綺麗に並べられたガラス戸付きの本棚、それから、熱帯魚の水槽だけが詰め込まれた狭い部屋だ。壁も床も少し卵色がかった白色で、清潔感があって好きだ。

 空っぽになった弁当箱をテーブルの上に放りだしたまま、窓を開ける。窓は中庭に面していて、小さな林に囲まれた池を見ることができる。綿雲の浮かぶ空の色を映した水面には、周りにある木々から落ちた青い葉がゆらゆらと浮かんでいて、時々、鯉のねっとりとした体がちらりとのぞく。水の匂いは気持ちが良い。アルミサッシの上で組んだ腕に、淡い黄緑色の木漏れ日がキラキラと揺れる。時間の空虚さと、満ち足りた感覚が両立する不思議さ。教室に居場所がなくても、ここでずっと過ごせるのなら、私はまだ大丈夫だと思う。

 物思いにふけっていると、突然、がらりと入り口の引き戸が開けられた。私は振り返って、そこにいた人物の意外さに思わず目を見開いた。クラスメイトの、樋口ナツさん。彼女の方も先客がいることに驚いたらしく、私の足から頭までを視線で舐めた。

「俺、今日、熱帯魚の餌やり当番だったんだ。朝、うっかり寄るのを忘れてさ。あんたは何やってんの?」

 樋口さんは、肩の下辺りまである綿のような髪で耳元を隠すという、校則にぎりぎり引っ掛かりそうな髪型をしている。言葉遣いも乱暴だし、ちょっと不良っぽい雰囲気があるけれど、教室では大人しくて静かな生徒だ。私と同じ科学部の部員である。

「お弁当を食べてた。ここ、窓からの景色が綺麗なの」

「へえ……。なんか、落ち着けそうだな」

 樋口さんは納得したというように頷き、本棚の上から魚の餌を取った。水槽に、茶色い粉を振り掛ける。魚たちはお腹が空いていたのか、すぐに水面近くに集まって来た。

「なあ、今日は放課後空いてる?」

 樋口さんに思いがけない質問をされ、私は慌てた。何も答えられずにいると、彼女は茶目っ気のある笑みを浮かべる。

「商店街に、カフェがあるんだけどさ。最近、そこに『占いおばさん』が帰って来たらしいんだよ。占って欲しいことがあって、でも一人で行くのはなんか怖くって。一緒に行かね?」

 占い。そう言えば今朝、スミレさんが夢占いの話をしていたっけ。ののやんが帰って来る夢。

「そのおばさん、誰でも占ってくれるの?」

「いや、気に入った人の依頼しか受けないらしい。まあ、でも、行ってみなきゃ分かんないじゃん」

 できたら、ののやんがもうすぐ帰って来るかどうか、占ってもらいたい。

 あんまり親しくない子と一緒に、校則違反である寄り道をするのはちょっと不安だ。でも、占いにすごく興味がある。

「……一緒に、行きたい」

「やったね。俺、あんまり友だちいないからさ」

「そうは見えないけど」

 樋口さんは、小首をかしげた。私からは、彼女はけっこうクラスメイトたちに好かれているように見える。軽音楽部に兼部していて、学園祭のライブではめちゃくちゃ人気を集めている。

「友だちって言うか、仲間は多いかもな。でも、そういう奴らとはカフェなんか行かねえよ」

「そういうものなんだ」

 いまいちピンと来なかった。


 放課後、樋口さんが私の席まで迎えに来た。背中にギターの入った黒い袋を背負っている。

「じゃ、行こうぜ」

 周りの生徒に変な目を向けられるんじゃないかと、ドキドキしてしまう。私は、教室内でほとんど口を開かない。誰かと一緒に帰るなんて、一度もしたことがない。

 うん、と小さくうなずいて樋口さんの後を追った。

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