小悪魔

森野湧水

小悪魔

 その日、吉田は些細なことで妻の機嫌をそこねて弁当を作ってもらえなくて、コンビニに寄ることにした。会社の近くに定食屋が一軒あるが、恐ろしくまずいくせに昼になると混雑する。弁当がない日は買っていたのだ。


 梅と昆布のおにぎりを選んで列に並んだ。店員は新人らしく手際が悪い。

 なかなか列が進まずに遅刻しないかと時間を気にしてイライラしていたら、前の方で大きな声を聞いた。

「もたもたするなよ!」 

 何事かと吉田は身を乗り出してレジの方を見た。

 すると作業着姿の大男の背中がある。

「……すみません。もう少しお待ちください」

 返す声は幼い。

「さっきからそう言ってばかりだろう!」

 バシンと音がして、大男がレジ台を叩いたのだと分かった。


 これってやばくないか。


 危ないことに巻き込まれたくない。

 手にしたおにぎりを見ながら、このまま待つか定食屋に並ぼうが悩んでいたら、後ろの客に押された。

「おい、なんだよ。やめろよ。やめ……」

 不意を突かれ、何かのコントのようにレジ前に来ていた。

「はあ? お前、なんだ?」

 大男が隣に来た吉田を見た。

 目が血走り、アルコールの臭いがする。

「いえ、私は別に……」

 曖昧に返してその場から逃げようとしたとき、レジの店員と目が合った。高校生ぐらいの女の子で、大きな目を潤ませている。

 可哀想だとは思うけど助ける気持ちにはなれない。

 でもゆっくり後ずさろうとするのに、他の客が邪魔で動けない。

「ああ、いや……」

 大男と目の前で対峙して、乾いた声が出る。

「お客様、お弁当が温まりました」

 そのとき、もう一つのレジを担当してた男性店員が大男に声を掛けた。男性店員は大男ほど体が大きくないが、頬に傷があり目がギラギラしている。大男をはるかにしのぐ危険なオーラに圧倒されたのは、吉田だけではなかったようだ。大男は「ああ、そう」と口の中で返事をする。温められた弁当を受け取って、そのまま店から出て行った。

「ありがとうございました」

 目の前で、若い女性店員に頭を下げられた。

 

「それで、その美尋ちゃんに、食事しようって誘われたんだ」

 隣の席の木村が呆れた顔をした。店員の名前は山中美尋といい、吉田は勝手に美尋ちゃんと呼んでいる。

「いやあ、俺は断ったんだけどな」

 仕事中ににやにやしていたみたいだ。木村に気持ちが悪いと言われて、今朝のことを話してしまった。

「でも、あんまり期待しない方がいいぞ。相手は女子高生なんだろう?」

 木村に言われなくても分かっている。ただ相手はお礼をしたいだけで、それ以上の好意はないのだろう。

 

 美尋が吉田を連れて行ったのは、安いことで有名なファミレスだった。学生だからこのぐらいの場所でしか奢ることができないのだと、美尋はしきりに詫びている。

 美尋の瞳は大きくすみれ色で、鼻はつんと上を向いていた。

 恐ろしく可愛らしい。

 この日食べたグラタンは、吉田の心と体を芯から温めた。


 次は吉田がお礼にと、少し高級なレストランに誘った。

 美尋は声を出して笑い、ちょっとバイトの愚痴を漏らした。美尋と過ごす時間はあっという間に過ぎていく。学生を遅くまで連れ回す訳にはいかない。

 時計を見て立ち上がった。

「送って行くよ」

 美尋は残念そうな顔をした。

「もうそんな時間なんだ」

「そうだよ。早く帰らないと、家の人が心配する」

 半分は自分に言い聞かせるための言葉だ。

「なんか羨ましいです。吉田さんのお嬢さん。こんな素敵なお父さんがいて」

 吉田は、自分にも高校生の娘がいると話してある。

「そんなことないさ」

 娘とまともに話したのはいつだっただろう。近頃娘はスマホばかり見ている。

「ああ、そうそう。これ」

 吉田は鞄から包みを取り出して、美尋の前に置いた。ネットで高校生に人気のブランドを調べて買ったのだ。

「なんですか?」

 不思議そうに首を傾げた美尋は包みを開けブランド物の財布を見ると、一瞬顔を輝かせた。それからすぐに困った表情になる。

「こんな素敵な物をいただいていいんですか?」

 いいに決まっているじゃないか。

 一瞬でも美尋の嬉しそうな顔が見られて、贈ったかいがあったと思った。

「あのう、吉田さん。今度カラオケに行きませんか?」

 また会いたいと美尋から誘われた。

 

 もしかして、俺に気があるのか? いや、あんな若くて可愛い子が俺なんかを相手にするはずがない。それじゃあ、なぜだろう。

 

 率直に訊いてみると美尋は、「あの時、誰も助けてくれなくて……、吉田さん格好よかったです」と恥ずかしそうに頬を赤くした。

 頭の中で打ち上げ花火が上がった。

 偶然とはいえ助けたことで、ヒーローのように思われている。


 それでもバッグやアクセサリーをプレゼントし続けたのは、自分に自信がなかったからだ。    

 美尋いつも、「私がこんな物を欲しがると思ってるんですか?」と、桃色の唇を尖らせた。


 美尋は何が欲しいんだ。俺? まさか、そんな、そんなはずない。


 思い悩んで木村に相談したら笑われた。

「なんだよ。手も握ってないのか? いいように利用されているだけじゃないか。自分からねだらずに男に貢がせるなんて、その美尋ちゃんって、とんだ小悪魔だなあ」

「いや、そんなことないんだ。いつもこちらから贈り物をしているけど、美尋ちゃんはいらないって言ってる」

「それが小悪魔だって言うんだよ。絶対わざとだ。それとも吉田は、自分にそんな女子高生に好かれる魅力があるって思ってるわけ?」

 自分が家でも会社でもうだつが上がらない中年であることは自覚しているから、何も言い返せない。

「でもなあ……それって、やれるってことだぞ」

 木村は下品に笑った。

「だってそうだろう。美尋ちゃんはそれを承知でお前とつき合ってるんだから、貢物次第でやれるはずだろう」

「バ、バカなこと、言うなよ。お、おれにそんな下心はない」

 慌てて否定したものの、木村はずっとにやにやしていた。


 美尋とやれる。

 木村には否定したくせに、そのことが頭から離れない。

 自分みたいな冴えない男が美尋に好かれるわけがない。美尋が会いたいと言ってくれるのは、貢物をしているからだ。それなら逆にすごい貢物をすれば美尋とやれるのではないか。


 若い女の子に人気があるブランドのバッグが限定販売されると知って、5時間並んで買った。その後美尋に連絡をして、バイトが終わるのを公園のベンチで待っていた。

 現れた美尋は薄いピンクのハーフコート姿でロングブーツを履いていた。

 吉田を見つけると嬉しそうに手を振って駆けて来る。

 なんだかやましい気持ちになって辺りを見回したけれど、誰もいなかった。夜の公園はブランコも滑り台もひっそりとたたずみ、オレンジ色の外灯がベンチの周辺をぼんやりと照らしている。

 美尋は吉田の隣にぴったりと体をくっつけて座った。

「今日は絶対に喜ぶと思うよ」

 ところが吉田が差し出した包み見て、美尋の笑顔は曇った。

「こんな物が欲しいんじゃないんです」

 色々と送っているのに満足してもらえない。でもこれこそが小悪魔の作戦だ。

「じゃあ、美尋ちゃんは何が欲しいの?」

「ここ」

 美尋の人差し指が、吉田の胸のあたりを差す。

 “心”とか“愛”とかが頭に浮かんで、慌てて否定した。


 いやいやいや、俺。鏡を見ろよ。そんな甘い話があるはずないだろう。

 もっと高価な物が欲しいんだ。


「いいよ、いいよ。何でもあげる」吉田は頷いた。

「美尋ちゃんが小悪魔なのは分かってるんだ。美尋ちゃんが喜ぶなら、俺は何でも……」

 気がつくと、美尋の顔が目の前にあった。

 にっと笑って口元を引き上げている。


 あれ? 美尋ちゃんてこんな顔してたっけ?


「なんだ、小悪魔だってばれてたんだ」

 美尋は低い声で言うと、唇をこちらに突き出した。

 催眠術にかかったみたいに、自分のそれを重ねる。

 吉田の思考は停止した。



「いやあ、驚いた。正体がばれているのに、自分から進んで犠牲になってくれる人間が現れるとは思わなかった」

 黒い羽根と矢印の付いた尻尾をはやした小悪魔の美尋は、自分の声で言うと、大きくげっぷをした。

「それにしても若い女の格好をしていると、男が簡単に寄ってくる」

 小悪魔は、魂の抜けた男の体を見下ろした。

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小悪魔 森野湧水 @kotetu1

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