第26話
次に気がつくと、一転して身体が不快感に包まれていた。それが寝汗と分かるまでに時間がかかった。とにかくひどい量だ。まるで服を着てプールに浸かってきたかのような。Aは硬直した体をどうにか起こし、シールを剥ぎ取るかのようにそれらを脱ぐ。そしてとりあえず近くにあったコンビニ袋にそれを丸ごと押し込み、今度はタオルを探す。よろよろと立ち上がって以前作りかけて止めたジグソーパズルの空きパネルの前を通りがかった時、ふと足が止まった。そこに映るものが何者なのか一瞬分からず、Aは角度を変えて覗き込む。
これは…僕なのか?
見慣れた体型より随分痩せ、全体的に細くなっている。しかし腕も胸も最低限の筋肉はしっかり躍動していて、むしろ前よりそれらしく見える。顔を見る。光の角度ではっきりとは分からないが、輪郭に凹凸が出来、それこそ別人のもののように思える。不意に体が震える。そうだ、まずは体を拭いて横にならなければ。仕方なくAは古いTシャツをタオル代わりにして体を拭く。そして拭きながら自分の全身を改めて観察する。生白い身体とは裏腹に、各筋肉が程良く盛り上がっている。しばらく続けた筋トレの成果か…。Aはパンツを穿き、次にシーツを丸ごと剥ぎ取る。そしてそれごと大きな別の紙袋に押し込んだ。部屋の中がムッとしている。迷ったが窓を開け、換気をする。外はまだ薄暗い(多分朝の6時前ぐらいだろう)。湿気はない。Aはそのままベッドに仰向けに倒れ込む。天井を眺めていると自分が一回り小さくなった気がする。その時ドアがノックされる音を聞いた。
「誰?」
「大丈夫?うなされてたみたいだけど」弟の声。
「ああ、大丈夫。うるさかったか?」
「いや、それはいいけど」心なし、昔より落ち着いた声色。「何か要るものある?」
「今はいいよ。すまん、有難う」
間があって弟の足音が遠ざかっていくのが分かる。何だか不思議だ。Aは思う。弟がまるでもう一人の自分に思える。僕らは今を生きる哀れな有機構造物(さらに彼は自分より新型の改良バージョン)、限られた機能と耐用年数を有し、その役割を終える日まで何とか食いつないでいかなければならない。幻想はもう十分だ。僕らにはやるべきことが山積みされているのだから…。
Aは部屋に戻った弟を想像しながらしばし目を瞑る。
「ZONBA」は死に絶えた。まるで病気にかかった植物のように、最後ははらはらと虚しく地に果てていった。人々はただそれを傍らから眺めておくしかなく、そしてそれを「死」と呼んでいいものかどうか、あるいは「ZONBA」と「死」を結びつけること自体どんな意味があるのかさえ、誰にも答えを見い出すことはできなかった。直接感染がなかったことで、「ZONBA」たちは謂わば消極的無視によって皮肉にも社会に受け入れられていた(もちろん捕獲行政は継続されていたが)。世界的に見て人口は15パーセントが抑制された。「むしろ喜んだのは地球かも知れない」、そう元も子もないコメントをした政治家が一時公職から退けられ、そのうちまた何事もなかったかのように自身の後援会で気炎を吐いていた。何はともあれ、残された社会では各自隣人がいなくなった後対応に追われる態となった。
Wは卒論をまとめている。まる5年、自分が続けてきたことの一応のまとめとして。振り返ってみれば喪失感だけが漫然と辺りに漂っている。そして皆それに気づかぬように平穏な日常に戻り始めている。一部では「ZONBA」変容に関する「闇」の目論見を検証する向きがあったが、マスコミは意図的になのか今ではそれを上っ面に扱っている。今更ながら自分が見ていたものは、「ZONBA」だけではなくそれを取り巻く社会そのものだったのだと思う。国際ニュースに目を向けると、一時鎮静化していた局地紛争・テロが各地で再燃している様子。そのうち社会が「復興」すれば、人々は皆「ZONBA」のことを綺麗さっぱり忘れてしまうのだろうか?
Wは電子顕微鏡で撮られた「ZONBA」細胞の写真を眺める。研究室のゼミ資料として入手したそれは、一見健康体のそれと何ら変わりなく見える。しかし細胞学をその一端でも齧った者ならその特異性にすぐに気がつくだろう。Wは最近飽きることなくその像に見入っている。まず単純に美しいと思う。世にも哀しくおぞましい異形の存在が、こんなにも神秘的な粒基に満たされていようとは誰が想像しよう。この写真は大学2年次まで同級生だった者の細胞だ。その男の子はW以上に生物の細胞という神秘に魅了されていた。彼の変容後のことをWは今でも思い出す。彼は学内植物園の定位置の長椅子で、観葉植物を食い入るように見つめたまま息を引き取った。Wは思う。彼は死んだのではない。動きを止めただけなのだと。
Wはその光と闇の万華鏡から目を離せない。
「ZONBA」変容要因=「P2」アプリ及びF・M社製機器、という情報が公式発表されるまで、実は相応以上の時間が経過していたという。政府はその辺の事情を誤魔化しているが、公式発表は或る青年官僚の独断が効を奏した結果らしい(しかしおそらくその人は、この先ずっと政府官庁内で冷遇されることになるだろう。いっそそんな人が政治家になればいいのに。Wは思う)。
一方でWは考える。未だにメカニズムが分からない「ZONBA」変容を、おそらく意図的に仕掛けた者たちがこの世に今も存在しているということを。もちろん現在、当該開発者たちの追及は行われているが、今のところ「偶然の産物」としてシラを切り通しているらしい。そういった意味では自分たちの細胞レベルでの今後の研究が、彼らに引導を渡すきっかけになり得るかも知れない。それにしても…。
彼らは私たちから何を奪おうとしたのだろう。そして私たちは、一体何を奪われてしまったのだろう。
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