第15話

 朝は8時45分に起きる(遅くもなく早くもなく。おそらく家族はそれぞれ出掛けた時間)。9時半から11時まで物語を書く(あるいはその為の調べ物をする)。11時からはネット上の動画をひたすら見て回り、昼には用意してあるものを冷蔵庫まで取りに行き、温めて食べる(最近は妙に手の込んだメニューが目立つ)。そして午後2時からは自分のブログへのコメントを確認し(相変わらず数人しかいない。それもほとんどが誘導目的)、今日書いた分の見直し・書き直しをする。夕方4時。弟が先に帰ってくる。Aはピアノの練習を始める。曲は持っている楽譜の中から適当に選ぶこともあるし、ネットの無料サイトからダウンロードすることもある。たっぷり2時間練習する。最初はこれが一番きつかった。ピアノの練習というものは結局は一小節ごとの反復練習だ。回らない指を少しずつ慣らしていく肉体の修練(エクササイズ)。そして音の流れに感情の抑揚を見い出し、更には曲全体の構成を見ながら表現に抑制を利かせていく。全く気の遠くなりそうな作業。しかし、少なくとも小説とは違い、曲が完成すれば一つの到達点を全身で感じることができる。部屋にある電子ピアノには録音機能も付いているから、仕上げた曲を一つ一つ残すこともできる。

 そんな生活が一週間を過ぎた頃、Aはひそかに筋肉トレーニングまで開始する。きっかけはネットで見た映画。主人公が十年に渡って理由も聞かされないまま室内に監禁される話。最初は状況に翻弄されるままの主人公が、突如意識を変え、唯一外界の情報を知る手掛かりであるTVを利用しながら自分の弱体化した肉体を徹底的に鍛え直す。Aは「なるほど」と思った。そして早速ネット動画にあった筋トレの手順に従い、毎日体を動かし始めた。


 風変わりな「ZONBA」、マッスル。彼の遺体が発見された時、立ち会った警察官・監察医はその肢体の在り様に驚きを隠せなかった。異様なまでに鍛え上げられた筋肉。そして絶食からくる痩身で、彼の身体はほとんど「肉の構造物」と化していた。硬直段階では骨肉の軋む音まで聞こえてくるようで、署内では前述の通り名が付いてしまった。どうやら彼は近所でも有名な筋トレ・マニアで、歳は四十を越えていたが独身、よく公園で一人時間をかけてストレッチをしていたという。しかし、彼がいつの段階で《変容》したのか等(など)、詳しい事は分かってない。誰かが言った。「人生賭けてまで、筋肉を鍛えたかったか…」

「ZONBA」を見ていると不意に我が身を哀感が走り抜けるのを感じる。その居た堪れなさに人々は、「ZONBA」に敢えて踏み込まないという生活の知恵を身に付け始める。


 Aには気がついたことがある。B子が言っていた人間性について。Aはこれまで「ZONBA」にも「GAMER」にも人間性を感じたことはなかった。それが当然だと思っていた。しかし今は物語を一語一語追いながら、気がつくとその者のそれまでの人生を想像している。それがB子の言う人間性に中(あた)るかどうかは別として、Aは自分の中にふつふつとした変化を感じずにはいられない。「ZONBA」は一つの欲望の為に人間としての節度を見失った存在。そして「GAMER」は自己中心的でその立場を守るためならば相手の心中(しんちゅう)など意にも介さない(介せない)、全ては自分にとって心地良いものであるべきと本気で考えている倒錯者(パラノイア)。そして当の自分は、自身の創作物である「ZONBA」よりも、むしろ「GAMER」の方により憎しみと非人間性を感じている。本当なら実害を被っているB子の方がそうであって然るべきなのに。やはり、自分は「引きこもり」であるがゆえに真っ当な人間としての感性を失くしてしまっているのだろうか…。

 本当の、生(なま)の生きている実感が恋しい。自分の頭の中だけではない、予定調和とは無縁の混沌とした世界に、この身をもう一度晒してみたい。そう思いつつも同時にその衝動にブレーキを踏み続けている自分もいる。まだだ。まだお前には無理だ。今出ていったところで哀れな蝉の蛹(さなぎ)のように落ちて踏み付けられるのがオチだ。そう絶えず自分を威嚇している。そんなどっちつかずの自分ならば、確かに一つの欲望に取り憑かれた「ZONBA」の方がまだマシなのかも知れない。Aは思う。少なくとも、彼らは何かを為そうとしているのだから。

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