第9話

 モニターのカーソルがしばし点滅する。「なんとなくですけど、Aさんの仰ることは分かるような気がします。私もRさんと一緒にいる時間は自分を守るのに必死になってますから。小さく身を固くして息を止めるようにして。こんな生活が一体いつまで続くのかと」

「大丈夫ですよ。現実の世界にはまだまだ逃げ場所はあります。いざとなれば、そんなB子さんにとって生きにくい職場なんて辞めてしまえばいいし、それができなければ配置転換を願い出てもいいんじゃないですか?」

「私もそう思いますが、これがなかなか上手くいかなくて。要は思い切りの問題なんでしょうけど、それに今のこの不況ですね。一旦辞めた後の保証はどこにもありませんし」

「…確かに。ごめんなさい、軽率でした」

「そんなことありませんよ。時々自分でも、感覚が麻痺してるのかなって思うことがあるんです。友だちからも言われます。『今ヌケてたよ、アンタ』って。気づかずに心ここに在らずになってるんでしょうね、きっと」

「何だかお互いに病んでるって感じですね。このままではいけないというのは分かっている。でも状況的に冒険することもできない…。他の皆んなはどうなんでしょう?やっぱり普通に暮らしてるんでしょうかね」

「そうでもないと思いますよ。鬱病なんて今はごく普通ですし、急に失踪、行方不明になる人の話も聞きます。犯罪に走るケースや、それに自殺だって…。確かに生きにくい世の中かも知れませんね、今は」

「でもこう現実、暗い話ばっかりじゃ嫌になりますね」

「そうなんです。ですから私はAさんの物語にハマってしまったんだと思います」「え?あれって超暗い話じゃないですか?」

「う~ん、そうなんですけど。中にはスカッとする場面もありますし」

「ああ、そういうことですか」

 Aは人知れず満たされた気持ちになっている。小さいながらも今の自分とこの空間が、現に誰かと繋がっているという実感が彼を優しく包み込んでいる。そして今まで吐露することのなかった自分の生い立ちを人に話したことで、不思議とそこにマイナスだけではない縁の妙味を感じつつある。もしかしたら何とか前を向いていけるかも知れない。この前久々に戸外を歩いた時にも感じられた解放感と安堵感が、今は確実に一人の女性からもたらされていることをAは全身で感じていた。

「B子さん、いつか直接お会いできませんか?」

 Aは自分の指からその言葉が零れ出た瞬間、すでにもう後悔していた。自分は調子に乗ってネット上の掟を破ろうとしている。そう思った。其処での交流はあくまで匿名性ありきのもの。それをお互いが尊重する素地があってこそのやり取りではないか。事実パソコンの画面はしばし沈黙している。「いや。その、ご迷惑なら別に」Aは自分のフライングをなんとかボカせられないかと逡巡する。

「今即答はできませんが、もしこれから先、私たちのやり取りが継続してゆけばそういう機会もあり得るかも知れません。それに今は私たちだけですが、少しずつ仲間の輪が広がっていけば、それはそれで素晴らしいことだと思いますが、いかがですか?」

 Aはパソコン画面に映し出される文面に注目する。確かに…。今自分たち二人だけの場だと思っているものは本来開かれているもの。彼女はやんわりとそのことを指摘しているのだ。

 それに彼女は僕のことを決して嫌ってはいない。ただ「今は」と保留しているだけなのだ。集中し過ぎて頭の中が唸りを上げている。Aは自分のこの昂ぶる気持ちが果たして何なのか、それ以上詮索する度量を今は持ち合わせていない。

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