第2話
知り会う前からその子のことは知っていた。
中学校一年生のとき、まだ慣れない制服を着ながら、理科の授業で外を歩いたときのことだった。たしか、身近にある野草を知ろうという趣旨の授業で、みんな教室から出られることがうれしくて、初々しい様子で、脱走することもなく先生の後をついていった。この中から、近いうちに煙草を吸ったり、万引きしたり、ガラスを叩き割ったりする人が出てくるなんてなんだかうそのようだと思えるくらい、みんな初々しくて可愛らしかった。同級生に対して可愛らしいなど、上から目線ではあるが、真琴は当時そう思っていた――小学生のときに、中学校のよくないうわさはちらほら聞いていたので、進学したらいじめられないか心配していたのが、想像していたよりも、男子も女子も、みんな普通に子供で素直そうで、安心するよりもむしろ驚いていた。
先生が「春の七草って知ってますか」と尋ねたとき、真琴が例の歌をそらんじると、おおっと歓声があがった。
「私は現在四クラス教えていますが、すべて挙げられたのは、あなたが二人目です」
二人目という響きに、軽い嫉妬を覚える。一人目は、七組の有泉さんとのことだった。君づけではなくさんづけなので、おそらくは女子なのだろう。真琴とは違う小学校から上がってきた子のようで、知らない子だった。
授業の帰りに、さっそく彼女のいる七組を覗いてみると、その子が有泉だということはすぐにわかった。例えるなら、パンジーやサルビアが咲き誇る花壇に、一輪だけ野の花、ヨメナのような花が混じってしまったような、そんな様子の子だった。堂々としていながらも、どこか場違いで、「なんか知らないけど、なんで私ここにいるんだろう」とでもいいた気な雰囲気が感じられる。分厚いハードカバーの本を広げて、周りのことなどなんの関心もないと言わんばかりだ。クラスの女子とそれなりに交流しようという意思は、微塵も感じられない。周りの子たちにしても、入学したばかりだというのに、既に彼女をそういう人だと見なしているようだ。話しかけようとする人は、誰もいない。そんな有泉とは、三年生になって同じクラスになるまで、真琴は一度も口をきくことはなかった。
同じクラスになってから数日後のことだった。その学校の校舎の裏には、毎年ひっそりと咲く白いタンポポがあった。誰かが植えたのか、どこかから種が飛んできたのか。
幼少のころ、図鑑で白いタンポポを見てからずっと実物を見てみたいと思っていた真琴は、中学に入ってすぐのころ、構内に白いタンポポを見つけて舞い上がるほど喜んだ。図鑑によれば、白いタンポポは関西地方に多く、関東地方ではめったに見かけないとのことだった。まさか白いタンポポを探すためだけに関西に旅行したいとも言えず、真琴はただ図鑑を眺めて、自分の知らない遠いどこかで咲いているタンポポに思いを馳せるしかなかった。それが、中学校に入ったとたんに見つかったので、中学生になってよかったと思った。
三度目の白いタンポポを見に行ったとき、そこには有泉がいた。
彼女はかがんでタンポポを見ていたが、真琴の足音が聞こえたのか、ぱっと振り返った。
「シロバナタンポポ、知ってるの?」
真琴が言うと、彼女は頷いた。
いつから知ってたの? 毎年来てるの? などと聞きたいことはあったけど、なんとなく話ができないまま、真琴もかがんでタンポポを見た。休み時間の終わりが近づいていることはわかっていたか、有泉はまだここにいるのに、自分だけ戻るのもなんだなと思った。やがてチャイムが鳴り、有泉は立ち上った。
「授業、行かないの?」
そう言って歩き出したので、慌ててついていく。
二人とも授業に遅れてくるのは珍しいタイプの生徒だった。みんなは驚きながらも、二人がなんと言い訳するのかじっと見ている。
「すみません、外で遊んでいたら頭が痛くなってしまって、松宮さんがついててくれたんです」
有泉は真っ直ぐに先生の目を見て言った。
「そうだったんですね。保健室に行かなくて大丈夫ですか?」
「はい、じっとしてたら治りました」
「無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
有泉があまりに堂々としていたので、真琴は本当に頭痛で立ち上がれなくなった有泉に付き添っていたかのような気になってきた。有泉の席は前のほうだったので、真琴の席からよく見えた。彼女はなにごともなかったかのように、先生の話を聴いて、ノートをとっていた。
そんなことがきっかけで、二人はたびたび教室内で話すようになり、それなりに親しい間柄になった。真琴は有泉のことを有ちゃんと呼ぶようになったが、有泉はいつまでも松宮さんと苗字で呼んだ。
中学校三年生で、受験生とはいっても、片田舎の中学だったので、彼らはさほど受験に敏感ではなかった。しかし、これが終わったら小学校から中学校まで同じ地域で育ったみんなとは別の生活を送ることになるのだということはわかっていた。
真琴は同じ県内ながらも違う学区に引っ越すことになっていたので、引っ越し先から通いやすい高校を受験することになっていた。だから、有泉とは、一緒の高校行こうねなどと話したことはなかった。もっとも彼女の性格からすれば、友達が一緒かどうかを基準に高校を選ぶようには見えなかった。仲良くなったばかりなのに、有泉とは、中学を卒業したら離れ離れになってしまうのだった。
冬休みのある日、勉強のことで有泉に電話をした。彼女は大抵の問題はすらすら解いた。
「明日家族が出かけるんだ。よかったら、泊まりに来ない?」
「行く行く!」
あの日は、特に雪は降っていなかった。自転車で移動するには寒そうで、日当たりの悪いところは凍ったままだったりもしたので、彼女は、冬場はあまり自転車に乗らないようにしていた。買ってもらって間もないウォークマンを聴きながら、三十分ほど、登ったり下ったりの道を歩いた。
雪が降らなくても、水たまりが凍らなくても、あたりはもう立派に冬の景色である。木の葉は落ちて、静まりかえった叢の中を探し回れば、きっとカマキリの卵だってあるだろう。山間の町だから、坂道がやたらと多くて、地面が平らでないから、日が当たるところと当たらないところとの差が激しい。
交通の便が悪いから、いったんここに住むと、なかなか出ていけない。通勤や通学などの理由がなければ、なかなか町の外へは行けない。
真琴の通う中学校は、外にあるわけではなかったが、高校なら、外も選ぶことができた。だから真琴は、高校に期待していた。彼女はあまりこの町が好きではなかった。しかし、ここを出ていく直前になって、ここにも有泉のような人がいたことを知ってしまった。こんな人がいたなら、もっと早くから知り合いたかった。そうすれば、中学校の三年間はもっと楽しいものだったのではないかと思われた。
三年前、先生が彼女の話をしたときに、思い切って話しかけておけばよかったのかもしれない。今だって、一緒にシロバナタンポポを見たものの、違うクラスだったら、あのとき仲良くはなれていなかったかもしれない……そんなことを考えているうちに、有泉の家に着いた。当然勉強するものだと思って持ってきた教科書や参考書をカバンから出すと、有泉は「真面目だね」と言ってにやっとした。
有泉の家は、庭はもちろんのこと、家の中にもたくさん植物が置いてあった。
「室内にもたくさんあるんだね」
「寒いから、冬の間だけ引っ越ししてるのもあるの。枯れちゃうとやだし」
「動物はいないの?」
「いないよ」
気のせいか、彼女の表情がいつもと違った気がした。
真琴は学校を終えてから友達の家に遊びに行く習慣があまりなかった。そもそも、学校を出てまでなぜそれまで一緒だった子と再び会わないといけないのかが疑問だった。それよりも、本を読んだり、絵を描いたりしているほうが楽しかった。しかし、帰宅後に誰かと遊ぶ約束をしないと、クラスの中で浮いた人だということになってしまう。そんなのはどうでもよかったけれど、「小さいころから友達と遊ぶ練習をしておかないと、社会に出てから困るぞ」と年の離れた兄から言われ、しかたなく週に一度、もしくは二週間に一度くらいは、学校が終わった後も誰かと遊ぶように心がけていた。たとえるなら、運動会や持久走大会のように、したくはないけれど義務だから仕方なくやっていただけだった。
中学校に入ってから通学時間が長くなり、それまで徒歩三十分だったのが、五十分になった。学校が終わる時間も多少遅くなり、ほそぼそと部活動など始めると、もう無理に放課後誰かの家に行く算段をしなくてもよくなった。だから、こうして友人宅にお邪魔するのは久しぶりだった。しかも、消去法でこの人なら私の誘いを断らないだろうという人ではなく、自分が心から一緒に遊びたいと思える人の家に来ているのだ。それだけでうれしい。二人でほぼ無言のまま、炬燵に足を入れて思い思いの問題集を解いているだけでわくわくした。
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