27.道化師の未来
ピアノ室に行くことは避けていたが、美術の時間は訪れる。インフルエンザからの療養を経た私は、不二に会うのは2週間ぶりだった。今日は舞妓が休んでいるから、精神的には通常運転のふりがしやすい。
今は自画像の制作に取り組んでいる。各自の机を見るとみな、鏡を用意している。中には写真を見ながら描いている人もいた。制作に取り掛かっているので、不二は自分の机で本を読んでいる。本来、美術教師は教室内を見回り、適宜、生徒にアドバイスなどをしたりするものだが、不二は一切しない。
生徒のことなど気にしていないように見える。今、この空間にいる不二は、私のことも見えていないかのように見える。
自画像制作は自分の顔と向き合う必要があり、実際かなりしんどい作業だ。いびつな恋心を抱えた今の自分の顔なんて見たくもない。大なり小なり、自分の顔にコンプレックスを持っている人だっているはずだ。自分のマイナスの面とも向き合わなくてはならない。自画像はそういった自身と葛藤するために描くものなのだろうか。
ひとまず、手だけは動かした。似てなくても「人の顔」であればいいかと開き直り、描き進める。自画像では居残りは避けたい。何とか必死で描き進め、美術の時間を終えた。その日は千里たちと一緒に帰った。
まっすぐに家に帰っても17時を回る。家庭教師がある日は、早めに夕食を済ませて、19時半から90分間が家庭教師との勉強時間。終わり次第、お風呂に入り、22時過ぎに就寝。起床は4時に設定している。睡眠時間は約6時間だ。以前は7、8時間寝ていたから慣れるのに時間を要した。ルーティンが根付くと体は楽になる。学校に行くまでの2時間、勉強をする。通学の電車の中では英単語などを覚え、教室へ。そんな日常を繰り返している。受験生らしい。
正直、恋にうつつを抜かしている場合ではない。この初めての受験という大きな問題をクリアしなくてはならないときに、どうして初恋なんてものを経験しているのだろう。すごくやっかいだ。せめて受験が終わってから、恋という感情と向き合いたかった。
スマホから『ピコン』とメールが入った音がした。画面を見ると、舞妓だった。見れば写真も送られてきている。バンダカの件が頭によぎった。
(まさか、不二との証拠写真を送りつけてきたわけじゃないよね?)
一気に不安と絶望が押し寄せた。ギリっと歯を食いしばる。強烈な苛立ちが襲ってくる。画面を開けるか、このまま削除しブロックをするべきか。すぐに既読にするのは腹正しい。でもこのまま見ずに居続けるには、私のメンタルが耐えられない。
千里が言った、舞妓の嫌がらせのターゲットが私になった可能性。どこで彼女に火をつけてしまったのかはわからないが、明らかに私に嫌がらせをしてきている。まさに今、受験生に勉強をさせないという、舞妓の攻撃は成功している。それがまた腹正しい。私が苛立ち、焦燥感を募らせ、気分が滅入れば滅入るほど、彼女はほくそ笑むはずだ。
今、この現状を処理しなければ、舞妓の思う壺だ。
私はメールを見た。写真は3枚。1枚は不二が車に乗る写真。それは隠し撮りのようなものだった。2枚目は誰もいない美術室。3枚目は・・・不二専用の小部屋の写真だった。不二は映っていない。
(舞妓もあの部屋に入った・・・?)
私は舞妓のメルアドをブロックした。彼女のことだ、無理やり部屋に入ったのか、鍵をこじ開けたのか、いずれにせよ悪さをしたのだろう。私があの部屋に入っていることも知っているのかもしれない。もしかしたら、不二と私の証拠写真も持っているかもしれない。
「私がこいつに何をしたっていうのよ。」
言葉が悪くなる。むかつく。とにかくむかつく。不二への純粋な思いと綺麗な思い出を汚された気分にもなった。
負けてられない。とにかく高校受験を終えて、合格を手に入れる。そして不二と私の写真が例えあったとしても、怯まない。あるなら出せばいい。どこに晒されてもいい。私たちは、あの女のように汚らわしいことはしていない。私は猛烈な怒りを内側に飲み込み、その熱を参考書にぶつけた。彼女と同じ土俵に降りて、くだらない戦いをしてはダメだ。
日々のルーティンを繰り返し、私は休み時間も返上して勉強をした。舞妓たちのことは徹底的に無視した。彼女の言葉に惑わされて、ピアノ室を遠ざけていた自分にも苛立った。
「桜井、今日、少し、手合わせしない?」
放課後、岡田からまた誘われた。舞妓の言葉に翻弄されていた自分の弱さに嫌気がさしていたが、岡田からの誘いに対して、はっきりと断れなかった自分も嫌いだ。「ごめん、今日はひとりで弾きたい。」と断り、私はピアノ室に向かった。
何度かピアノ室に足を運んだが、不二とは会えなかった。週1回の美術の授業は淡々と進み、自画像制作の最終提出は年明けになった。来年の美術の授業は基本的には、座学が中心となる。2学期の期末テストも終了した。成績はまた上がった。これだけが、このところの救いだ。
もう明日から冬休み。この冬休みは受験生にとって追い込みの時期となる。
今は受験に集中しようと自分に誓う。不二とのこれまでのことや、スマホに入っている携帯の電話番号や、私には不二と重ねた思い出がある。不二とのことを更新するためには、高校受験の合格、中学の卒業だ。このことは、千里、裕子、美咲にも伝えた。私の宣言を聞き、千里も裕子もほっとしてるように見えた。一緒に頑張ろう!と互いを励まし合っている。
久しぶりに1人で来たピアノ室。何となく、かろやかなテンポの曲が弾きたくなった。選んだのはモーツァルトの「きらきら星変奏曲」。これを初めて美咲たちの前で弾いたのはいつだったか。「きらきら星のクラシックがあるの?」と、美咲がすごく喜んでいたような気がする。
「きらきら星変奏曲」を弾きながら、4人のことを振り返っていた。偶然、地元が同じで顔なじみだった美咲、裕子、千里。行きつけの喫茶店が同じだった。中学に上がり、裕子と美咲は部活が同じになる。中2で同じクラスになり、そこに加わった千里。そして偶然、中3も同じクラスになった。
4人が揃った中2からの2年間が、4人の関係に変化を与えた。偶然も必然だとはよく聞くけど、本当にご縁だったのかなと最近思う。彼女たちがいてくれて良かった・・・と思う。
いつもの締めくくりはラヴェルだが、今日はきらきら星で心が満たされた。弾き終えてから少し、ぼんやりする。ここで過ごした時間は、やはり私にとって必要な時間だった。私にとってピアノ室は、心の充電をする場所だ。しばらくピアノ室を眺めていた。この風景もあと少し。卒業したら見ることは2度とないだろう。「よし、帰ろう!」と口にし、立ちあがった。そうやって言葉にしないと、ピアノから離れがたかった。
帰ろうと決めたのに、ピアノ室のドアが開いた。振り返ると不二が居た。ああ、この人はいつもこうだ。予想することができない。
「今日は桜井さんだけなんですね。」
「サックスとの演奏も聞こえましたか?」
不二は頷いた。
「久しぶりに桜井さんのピアノを聴いたような気がします。」
「・・・待っていましたか?」
「はい。」
私たちの関係とは? 一体なんなのだろう。
不二はピアノの近くに立った。
「今日はラヴェルを弾いていませんね。」
「1曲、聴いていきますか?」
「お願いします。」
「道化師の朝の歌」を選んだ。ユニークなテンポな曲調で頭に物語が浮かびやすい曲だった。彼の目の前でピアノを弾くのは、初めてだった。弾き終えると、
「水の戯れも弾いてもらえますか?」
彼からリクエストをされた。私は頷く。彼はピアノの近くにある椅子に腰をかけた。その様子を確認してから、私は弾き始める。
私は1つの未来が頭に浮かべていた。私がピアノを弾き、彼が側で本を読む。ときおりイーゼルを出して彼が絵を描いたりする。ピアノを弾き終えた後は、不二が淹れた紅茶を2人で飲む。窓から臨む景色は、木々があって小さな庭がある。陽光が降り注ぐ日も、雨の日も、ゆったりと2人で過ごす。そんな穏やかなひとときを想像した。
ピアノを弾き終え彼を見ると、とても優しい瞳で私を見つめていた。何故彼に惹かれたのか、彼のどこが好きなのか、言葉で説明しようと思ってもうまく言葉が紡げない。ただ、彼と一緒の時間を共有することができたらと思う。
今の私は15年しか生きていない、経験も浅く未熟な人間だけど、彼の隣を歩けるように、自身を成長させたい。
彼への告白の言葉は思い浮ばない。彼に好きだとか、付き合いたいだとか、伝えたところで、美咲たちのように彼氏、彼女になれるようなイメージができないからだ。それでも、さきほど描いたような関係を、ずっと先の未来に築くことができたらと望んでしまう。
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