23.携帯電話
岡田がブラスバンドの助っ人でサックスを吹いているとは思わなかった。聞いたときには冷や汗が出た。まさか、岡田が音楽室に行く機会があったとは。バスケ部は引退試合を終えたから、岡田はもう部活動はない。ブラスバンド部も合唱部と同じく、中3の引退は9月だ。もしかしたら9月以降も、気晴らしにサックスを吹きに音楽室に訪れることがあるかもしれない。
私にとって合唱部終わりに、ピアノを弾くことは、いまでは不二とつながる大切な時間だった。たとえ不二に会えなくても、ピアノを弾くことで不二に会っているような気持ちになる。その時間が脅かされるかもしれないのだ。
そしてそれはすぐに訪れた。屋上での出来事があってから、数日後の合唱部の練習終わり。岡田と西村がピアノ室に現れた。サックスとピアノを合わせるための楽譜をすでに受け取っている。いつもの4人と、岡田と西村。断ることもできずに、ピアノ室に集まってしまった。変に抵抗して私の心情を探られるより、さっさと事を終えて、また私ひとりの時間を確保したかった。
彼が選んだ楽曲は「宝島」。ブラスバンドでも定番の曲だった。この曲はサックスが主役で、メロディがとてもかっこいい。実際、彼の音色を聞くととても素敵だった。岡田の腕前は相当だ。ピアノのほうも伴奏ながら、かろやかで爽快感がある。弾いていて楽しい曲だった。
演奏を終えるとピアノ室に拍手が鳴り響いた。みな口々に「かっこいいー、これいいよ。」「全校生徒の前で演奏したらいいのに。」と、ぶっつけ本番の合わせだったが絶賛してくれた。確かに気持ちの良い演奏だった。
「ね、この後さ、少し図書室で勉強していかない?」
千里が提案し、みなが頷く。私はまだ消化不良だった。ひとりで最後にラヴェルが弾きたい。でもここにひとりでは残りにくい。迷った後に、「ごめん、家庭教師が来るから帰るね。」と言った。
帰り際、岡田から声がかかる。
「また手合わせしてくれる? ・・・すごく楽しかったから。」
「うん、またやろう。」
私は心にもない返答をしてしまった。確かに演奏は良かった。でも今の私にはそんな余裕がない。私はここで、彼のためにピアノが弾きたいのだ。けれど、バスケ部の練習がない岡田には、ピアノ室に立ち寄る時間がある。このまま岡田からの誘いが続いたら、ピアノ室でひとりで弾く時間が奪われてしまう・・・。どう対処したらいいのか。
不二は今、あの部屋にいるのだろうか。確認することすらできない。私はみんなと一緒にピアノ室を出て、彼ら彼女たちは3階にある図書室へ消えていった。もう一度、ピアノ室に戻りたい。でも、帰るといった手前、戻れない。
私は消化不良のまま、家路についた。
今日は、家庭教師は来ない日だった。
美術の授業の時間。やっと不二に会えた。授業中、彼はいつも通りだった。授業以外の話しはいっさいせず、淡々と課題を伝え、授業を進める。私は、あの、そっと彼の腕の中に身を寄せた日のことを思い返しては、必死で打ち消した。それでも私の目は、彼を追ってしまう。
中3の最後の課題は自画像だった。自画像の制作は、ほぼ毎年決まっていて、描いた自画像は卒業式のときに体育館に展示される。最悪だ。今の私の顔に向き合う自信がない。物欲しそうな、哀れな顔をしているような気がする。せっかく美術の評価が「4」になったのに、キープできる気がしない。そもそも、不二に対しての想いを抱えた、自分の顔なんて見たくもない。
彼は相変わらず美しかった。彼は私のことをどう思っているのだろう。彼の瞳には私はどのように映っているのだろう。あの日、私は彼の胸の中に顔をうずめていた。彼は私をそっと両腕で包んだ。抱擁だと思っていたのは、私の勘違いなのだろうか。ただ単純に、弱っている小動物か何かをなぐさめるような感覚で、あのような行動をしたのだろうか。
最初はそっと抱かれた。でもぐっと彼に引き寄せられたとき、彼の熱を感じたような気がした。あれは本当に合った出来事だったのだろうか。もしかしたら、私の願望? 夢での出来事? そう考えると自信が無くなってくる。本当に幻だったような気になってきた。
9月の半ば。先週の美術は不二が休みだったため、自習となった。1週間に1度、確実に不二の存在を確認できる日が奪われた。寂しい気持ちと同時に、ほっとする自分もいた。恋とは難儀だ。
会えないと寂しくてせつないのに、会ったとしても、心が目まぐるしく動き疲弊する。とくに現状は、他人の目もあるから、自分の気持ちを悟られないように周囲を警戒する必要がある。会えないと寂しいが、会わない日は自分の気持ちをひた隠ししなくてもいいから、僅かにほっとする。本当に恋は人をおかしくする。
合唱部の最後の練習日が訪れた。今日はピアノ室ではなく、音楽室が使用できる日だった。コンクールに向けての最後の部活が終わり、来週、中3は引退する。夏の大会に続き、締めくくりは秋のコンクール。これは毎年恒例の引退イベントだった。
「今日もピアノ室に行くの?」
部活動終わりに裕子が私に尋ねた。美咲は西村との約束があるため早々に音楽室を出た。
「うん、そのつもり。裕子は図書室?」
「そうだね、軽く勉強してから帰ろうかな。」
ふたりで会話しながら音楽室を出ると、美術室から不二が出てきた。
「桜井さん、少し、美術室に寄ってもらえますか?」
「はい。」
私は涙が出そうなくらい嬉しかった。先週会えなかったこともあり、ふいの不二の姿は自制のタガを外させた。その私の表情を隣の裕子はどのように見守っていたのか、気にすることもできないほど、不二しか見えなくなっていた。
「じゃ、裕子、またね。」
裕子に別れを告げると、不二と一緒に美術室に行く。窓際の不二の机まで歩く。
「展示会に飾っていた絵が戻ってきました。こちらは賞状です。」
私が描いた想像画と賞状が不二の机の上に置かれていた。返却の話しか・・・と少し残念に思いながらも不二とふたりのひとときは、嬉しかった。
「桜井さん。お願いがあります。」
「なんでしょうか。」
「・・・難しければ断っていただいて良いのですが。」
不二の言葉が途切れる。私はどきどきしながら、不二の言葉を待つ。
「この絵を僕に譲ってもらえないでしょうか・・・。」
「え?」
予想外の言葉だった。こんな素人の絵を不二が? 少し気恥ずかしい。でも不二を見ると、切れ長の瞳が私の目を真っすぐに見つめていた。
「はい。あの、こんな絵で良ければ、お譲りします。」
「ありがとうございます。」
貴方はどうして、私の絵が欲しいの? さらっとそう聞ければいいのに、私の口は動かない。どうしよう、何て聞き方をすればいいのだろう。不二は必要以上に説明をしてくれない。私が聞き出さなければ。けれど、言葉がまとまらない。
(そうだ。あれ。あれは絶対に聞かなくちゃ。)
「私からも1つお願い事があります。」
「はい、なんでしょうか。」
「携帯・・・携帯番号を教えてくださいっ。」
私はずっと頭にあったことを最優先して聞いてしまった。思わず頭が垂れた。不二の目を見ることができない。
(NO?それともYES? ああ、聞いてしまった。)
後悔の波が押し寄せた。どうしよう、このタイミングで聞くのはおかしい。どうしよう、とても気まずい。顔が上げられない。うつむいている私の目に、付箋が映った。数字が書いてある。電話番号だった。
「・・・かけてもいいんですか?」
「桜井さんが、掛けたいときに。いつでも。」
震える手で付箋を受け取る。
「ありがとうございます。」
ぽっと頬が赤くなるのを感じた。今、私はどんな顔をしているのだろう。長い前髪で隠された不二の目。とても優しい瞳だった。
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