21.背徳感。8月の最後の日

 暴走した心が私をここに連れてきてしまった。

8月の最後の日。私はピアノ室にいた。体育館ではバレー部かバスケ部が練習をしているようで、サッカー部、テニス部なども活動していた。音楽室にはブラスバンド部もいた。合唱部の練習はないが、私が中学校をうろうろしていてもさほど、問題ないはずだ。


 成人男性と中学生。これには埋められない隔たりがある。たとえ互いに好感を持っていたとしても、発展はしない。私は理解しているつもりだった。大人が中学生を対等な対象にするわけがない。仮に間違ってここから先に進んでしまった場合、バンダカと舞妓のように、社会的制裁を受けることになる。周りは大人が中学生を相手にすることを許さないし、まともな大人だと思われない。


 それに不二が私をどう思っているのか、まったくわからなかった。確かにわたしは彼から『特別』な扱いをされている・・・と思う。けど、それが恋愛に直結しない。これは私が未熟だからだと思うが、彼の胸の内が本当にわからないのだ。


 ただ私は彼に会いたい。会いたい気持ちが抑えられずに、彼との接点がとても多い「ピアノ室」に来てしまった。


 美術室も彼がよく過ごしている備品を収納する小部屋も、人の気配はなかった。夏休みに彼が学校に足を運ぶわけがない。なるべく学校との距離を置きたいと思っているだろうから。


 それでも、私はここで彼が好きだと言ってくれた、ピアノを弾き、彼を想って奏でたかった。壁にかかった時計を見ると時刻は15時。丁寧にたくさん弾こう。最初はショパンのピアノソナタ第3番作品58第4楽章。よく、ストレスを発散するために速弾きで弾いた曲だった。一気に弾き終えると、ふぅーと一息ついてから、次にドビュッシーの月の光を弾く。小学校の頃、ピアノの発表会で弾いた曲だった。


 ここでピアノを弾いていると、部屋でもんもんと苦しんでいた胸の痛みが少し和らいだ気分になる。例え彼に会えなかったとしても、ここに来てよかった。不二が側にいるような気持ちになる。音大には進まないけれど、ピアノは生涯、弾いていきたい。ピアノと向き合うひとときは、私の精神安定剤だ。


 3曲目にサティのジムノペディ第1番を弾き終えたところで、水を飲んだ。もう一度大きく、ふぅーと深呼吸をしてから椅子から離れた。窓から外を眺める。サッカー部が縦横無尽にグランドを走っていた。夏なのにすごい体力だ。サッカー部員は年中、色黒だった。これだけ太陽を浴びる環境なら当然か。不二は会った頃からずっと色白だ。透明感のある肌色。彼が陽光を浴びているシーンが思い浮かばない。日陰でひっそりと咲く、植物のようだ。


 さて、どうしよう。気持ちはだいぶ落ち着いた。ここを離れがたいが、そろそろラヴェルを弾いて終わりにしようかな・・・。最後に選んだ曲は、不二が何の曲か尋ねてくれた「水の戯れ」。もともと好きな曲だったが、不二に知ってもらってからますます、好きになった曲だ。


 椅子に座ると、コトンと椅子の足が鳴った。鍵盤に指を置く。瞳を閉じた。目を閉じると不二の顔がはっきりと浮かんだ。少しだけ目を開け、私は静かにラヴェル「水の戯れ」を弾き始めた。


 落ち着いていたはずの心が動く。やはり、会いたい。せつなくて涙があふれた。完全に情緒不安定になっている自分と対面した。誰かを想って、涙するなんて。映画のヒロインみたいだ。笑ってしまう。自分がこんなにも自身の感情に酔うことがあるとは思わなかった。それでも不二に教えてもらった高台の風景が頭に広がる。夕日に染まった街並みと遠くに臨む海がとても綺麗だった。ふたりで見たあの日の光景はたぶん、私は生涯忘れない。


(手を・・・つなげばよかった。)

 あのとき私に必要だったのは、ほんの少しの勇気だけだった。ちょっと自分の指を伸ばせば、彼の手の中に私の手が包まれたはずだ。彼に触れたかった。



 ガチャン・・・。



  弾いている手が止まる。ピアノ室のドアから人が入ってきた。

 

「桜井さん・・・?」

 

 ずっと夢にまで見た不二の姿と声だった。私はすーっと涙を流しながら、ぼんやりした表情をしていただろう。涙は止まらなかった。不二は私の泣き顔を見て、しばし私を見つめていたが、ゆっくりと私に近づいてきた。


 ピアノの椅子に座ったまま、不二を見る。彼の瞳を真っすぐに私は見つめていた。彼は立ったまま、私をそっと両腕で包み込んだ。それはまるで壊れ物を取り扱うように、とても優しく、撫でるように。


 私は身を任せた。そのままずっと、そのままずっと、いたかった。


 どれくらいの時間が経ったのかわからないが、私は自分の背中にまわった不二の両手のうち、片方の手を掴んで背中から離し、自分の手を絡めた。


 「やっと、手がつなげた・・・。」

 私は心の中の思いを口に出して発してしまった。


 その言葉を不二はどう感じ取ったのかわからないが、少しの沈黙の後、私の背中にあった不二の片方の手にぐっと力が入り、彼は私を引き寄せた。そして私の頭の上に彼のアゴがのった。


 廊下からがやがやと生徒たちの声がする。ブラスバンド部の部活が終わったのかもしれない。はっとして、不二の手を離し、離れた。不二も私の背中にまわしていた手を離した。


 ここは学校だ。しかも、番場先生と女生徒の問題が起こったばかり。不二と私の今の状態を誰かに見られたら、大変なことになる。私は我に返り、青ざめた。

(大丈夫、ピアノ室にはこないはず。)

 と祈るような気持ちで思うも、万が一、ピアノ室のドアを誰かが開けたら、なんて言い逃れすればいいのだろう。嫌な緊張が走った。私は不二との関係を番場先生が起こした問題とは全く同列には並べていなかった。けれど、今のこの状態を他人が見たら、同列に並んでしまう。

(イヤダ。私は舞妓とは違う。あんな汚い人間じゃない。)


 生徒たちの声が遠ざかるまで息をひそめた。しばらくして、廊下が静かになる。


 「送ります。」

 不二が言った。この状況ではどう考えてもまずいのに、不二は私を送るという。不二の警戒心のなさに驚く。それとも、全く、私のことを"女性"というカテゴリーに入れていないのだろうか。


 「自転車で来ているので、私、帰ります。」

 私の言葉に対して、不二は無言だった。私は静かにピアノの蓋を閉め、カバンを手に取りピアノ室を出た。


 不二に会えた喜びや抱擁されたときのドキドキよりも、今は、不二と私がふたりで抱き合ってしまったことを誰かに見られたり、感づかれてしまうかもしれないことの、恐怖心が大きかった。とにかく、誰にも会わないように、私はここを離れなければ。


 慎重に、足早に、私は自転車に乗り、学校をあとにした。

 

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