19.彼が私に見せたかったもの
夏休みに入った。受験勉強も佳境に入る。家庭教師の高木が母親に直談判した模擬試験が8月19日。同時にこの日は、不二と会う日だった。
勉強の合間にふと、千里と裕子の言葉を思い返した。
不二が私を好きかもしれないということ。他の生徒と私が違うこと。そして・・・。舞妓の言葉が単なる狂言と言い切ることができないということ。私は舞妓の件だけは納得ができなかった。
舞妓は6月の終わり頃から学校に来ることなく、そのまま夏休みに入った。顔を合わせなくて済むのは精神的に楽だった。バンダカの件もある。彼は単なる噂ではなく、証拠写真まで出てきて、懲戒免職となった。このことは親たちも学校に呼ばれてことの詳細について説明を受けている。内容は親たちからのかなり手厳しい質疑応答があったらしい。おそらく、不二についてもやり玉にあがっているはずだ。20代の先生はいずれも注意勧告を受けたはずだ。
そんな中で、私は不二と会う約束をしている。
不二はバンダカのことをどう思っているのだろうか。
そもそも、中学生と教師の事件があったばかりだ。それにもかかわらず、不二から私の絵が展示されている会場に一緒に行ってもいいかと尋ねてきた。
バンダカの件があるから余計に不二と会うことを千里や裕子にも伝えられなかったし、当然、親にも話せない。
ただ、展示会に出展された私の絵を見に行くだけだ。
そこには何もやましいことはない。
私は心のざわつきを言葉で押さえつけた。
「数学はわかる問題から解くように。時間配分に気を付けて。わかった?」
模擬試験前の家庭教師の時間。高木が念を押すように言う。語尾に嫌味な声色が含むのは相変わらずだ。家庭教師の時間は90分だが、今日は高木の都合で60分になっている。早く帰れ!と心で叫ぶ。だが、番場のことでひとつ、嫌味をいってやりたくなった。
「先生のご友人、女子中学生に手を出して、首になりましたよ。」
あと5分で終わるときに、私は見下すように言い放った。
「番場か。あいつも馬鹿だよな。」
「以前から生徒の肩や頭を気軽に触る人でした。不愉快な先生でした。」
と私が付け加えると、
「それな。あいつは男にもそうなんだ。だから注意してやったのに。あいつ、直さなかったんだな。」
「注意したんですか?」
「男女かまわず、肩を組んだり、抱きついたり。彼のくせだな。あれは俺も不快だった。」
「そうなんですか。無意識なんですね。距離が近いのがすごく気になりました。」
「・・・あいつは、バスケの道に行けばよかったんだ。」
え?と思った。もしかして高木は番場とそれなりに親しかったのだろうか・・・。私が戸惑った顔を見せると高木は話しを終えた。
「模擬試験、集中してやってね。ここで落としたら行く高校ないよ。」
辛辣な言葉を残し、部屋を出る。玄関で母と話している声が聞こえた。家庭教師の時間が終わると、本日の反省点をありったけ母に報告する。今日は何を言われていることやらと、いらっとしながら部屋のドアを閉めた。私は見送りはしない。
それにしても、あの言葉と高木の顔。「バスケの道に行けばよかったんだ」と言ったとき、高木の表情が私を心配する千里と裕子の顔と重なった。
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8月19日。今日はバスで40分ほど行った先にある江南タウン駅の近くの塾で模擬試験だ。電車ではなくバスを選んだ理由は乗り換えがないためだった。
試験会場には見知った顔もあったが、特別仲良くしている人はいない。午前中に4科目。午後に1科目の試験がある。長丁場だった。試験には全力で集中する。終わりさえすれば、私は不二と会うことができる。
千里と裕子の懸念は心に留めてある。けれど、不二と私は陳腐な恋愛ではない。ただ、教師と生徒でもないのだろう。
なぜなら私は、不二のことを一度も"先生"とは呼んでいない。
彼は私にとって最初から"先生"ではないのだ。
試験が終わりバスに乗った。バスに揺られながら心は自分でも驚くほど踊っている。手が少し汗ばむ。また頬も少し紅潮する。これから不二と会う。心が勝手に喜びだす。
バス停を降りてからトイレに寄った。髪の毛を直し、唇にリップを塗る。トイレから出たところで、タンブラーに入れた水を飲んだ。喉がからからだった。
心が喜び、緊張している。嬉しいが同時に不安。会いたいのに会うのが少し怖い。不思議な感情に包まれながらも、私の絵が展示されているはずの会場に向かった。
入口で受付をすると、私の絵は特別展示室というところにあるらしい。特別展示室は、中央に大きな花の飾りがあり、花飾りの裏側に進むと私の絵が見えた。
少しだけ絵に近づき、全体が見えるところで足を留める。私より先に絵の前で立っている長身で細身の彼がいた。じっと私の絵を見つめている。すぐには近寄れなかった。それは彼の姿がとても綺麗だったからだ。
立ちすくんでいる私に気が付いた不二が私の側に近づいてきた。
「もう、十分見ました。会場を出ましょう。」と私は促した。私の絵はライティングされた中に飾られていた。絵の下には作品の紹介と名前が書いてある。それも恥ずかしかった。
不二はうなづくと「ではこの場所を離れましょう」といい、エレベーターのボタンを押す。エレベーターは地下に行き、そのまま不二についていくと、かわいらしいレトロな車の前に案内された。助手席のドアをあけられて座るように促される。ドアは不二によって締められた。
「かわいらしい車ですね。どこの車なんですか、初めてみました。」
「フランスの車です。シトロエンと言います。」
助手席は両親の車しか乗ったことがない私はシートベルトをするのに手間取った。レトロなフランス車は、日本車とは少し勝手が異なる。なかなかシートベルトが出来ない私を不二がさりげなくフォローする。彼とのほぼゼロの距離に心臓がどきどきなり出した。
車は走りだした。
「ここから少し行ったところに、紅茶の専門店があるのですが、いきませんか?」
「はい、お願いします。」
車で走らせること、30分。ログハウス作りのお店だった。中に入ると焼き菓子の良い香りが漂っていた。マドレーヌと紅茶をいただく。不二と向き合って紅茶を飲むのはあの小部屋以来だった。
「紅茶を頼むと焼き菓子がついてくるんですね。」
「その日のおすすめの焼き菓子がつくそうですよ。」
「素敵なお店ですね。」
周囲の視線が気になった。
まわりを見渡すと、ママさん同士のグループが1組、女性1人の客がいた。ママさん同士の視線だろうか。不二を見ているような気がする。そして不二と一緒にいる私を。彼女たちには不二と私はどのように見えるのだろうか。
不二は街の中でも目立つ。通り過ぎる女性たちが不二を見る目は熱を帯びている。綺麗過ぎる顔は罪だ。
「このお店はよく来られるんですか?」
不二は美しい。不二の隣に堂々といられる女性はどんな女性なのだろう。私は胸が痛んだ。不二に対して初めて感じる痛みだった。私の知らない女性とここへ来たことはあるのだろうか?
「紅茶を買いに来るだけで、お店で紅茶を飲んだのは初めてです。」
彼の回答に胸の痛みが和らぐ。ほっと安堵している自分と向き合った。
「まだ時間はありますか?」
紅茶の店を出て車に乗り込むと不二が私に尋ねた。はいと答えると、不二がときおり訪れる場所に連れて行きたいという。
連れて行きたいという言葉に心がまた跳ねる。不二の言葉やしぐさに私の心は逐一反応する。
駐車場に車を停め、そこから先は徒歩で15分ほど歩くという。ふたりは並んで小路を歩いた。木々が生い茂る小路は涼しい。夏の匂いに包まれた空間はとても心地がよかった。
並んで歩くと、ときおり不二の手が当たった。少しだけ手を伸ばせば手をつなげる距離だった。私は手に触れたいと思った。そっと、自分の指を伸ばせばつなげる距離。
手をつなぎたい・・・という思いが大きくなるほどに、心臓がどきどきと波を打った。
小路を歩き、木々のアーチが途切れ、ぱっと視界が広がった。高台から臨む街の風景だった。遠くには海が見える。
夕暮れどきが近づいていた。
「よく、来るんですか?」
「はい。夕暮れどきがとても好きです。」
しばしの沈黙が流れた。でも気まずさはない。むしろずっとこのまま、この場所に留まりたいほどに美しい空間だった。
「地元なのに知らなかったです。」
「車がないと来られにくい場所ですからね。」
不二はどうしてここに私を連れてきたのだろうか。本当に裕子たちが言うように彼は私を女性と認識し、好んでいるのだろうか。
不二と出会ってからを振り返る。彼が女生徒と授業以外の話しをしているのは見かけたことがない。備品庫が不二のプライベートルームのようになっていることも、誰からも聞いたことがないから、あの部屋には私以外は入っていないはずだ。
私だけが不二の特別?
不二と私の間に起こったこと、事実だけを並べると、私はどの女生徒たちよりも不二の近くにいる。そして今、不二が連れて行きたいとと言った、彼が好きな場所を見せてもらっている。
どきん、どきんと胸が高まる。
夕日が空を赤く染めた。
日がどんどん沈んで行く。
ずっと、不二と沈みゆく日を見ていたかったが、不二は口を開いた。
「そろそろ帰りましょうか。」
私は不二の言葉に従った。
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