10.ホワイトデー
ランチの時間。教室でお弁当を広げておなじみのメンバー4人で食べていると、
「ナナさ、近ごろ、イライラしてない?」
乱れが一切ないきちんとした三つ編みが定番ヘアスタイルの裕子が言う。いっけん裕子は人に興味がなさそうで、誰よりも人間観察をしていて、さらには色々な情報収集能力にもたけている。
「わかる? 家庭教師とうまが合わなくて。なぜ、1度で覚えないの?とか、このままでは受験に間に合わないとか、かなり暴言を吐くんだよね。」
家庭教師は高木という。名前は忘れた。医大生の5期で浪人しているから年齢は今年25歳になる。父親の知人の息子で、何人も高校受験の生徒を合格させているらしい。
「かっこいいの?」
と、千里がにやにやしながら聞いてくる。それに対して私は少し大きく首を振る。身長は175センチ程度で、中肉中背。色白眼鏡で、少しつり目気味。普通にしていれば普通。ときおり、独特な匂いを放ってくる。おそらく解剖実習を終えた後のホルマリンの匂いだろう。
「でも医大生で年上でしょ? 恋が生まれたりして。」
千里の言葉にうすら寒くなる。顔も思い出したくないほどだった。
「それでも、ナナ、数学の成績、一気に上がったよね。その家庭教師、なかなかの手腕では?」
「それ、言わないで。」
成績が全く上がらなければ、両親も家庭教師の必要性の有無を検討してくれるだろうが、残念ながら、私が家庭教師を嫌悪する気持ちとは相反して、成績は上がってしまった。まさに悔しさをばねにした形。
裕子と千里、私の3人で会話が続く中、美咲だけが気もそぞろだった。食事もあまり進んでいない。
「お返し、もらえるといいね。」
千里が美咲に言った。
美咲はかーっと赤くなりながら、慌てて千里の口を片手でふさぐようなアクションをする。
「声、大きいから。千里こそでしょ。」
そう、今日は、ホワイトデー。今度は女の子たちがどきどきする番だった。中1のときは渡し損ねた美咲だったが、今回は何とか無事に西村に渡すことができたそう。
「最後まで美咲がびびっていたから、相当背中を押したからね。」
「うん、千里のおかげだよ。」
美咲と千里はバスケ部が終わるまで待ち、いろんな女生徒たちが渡し終えた後に、それぞれ思い人に渡した。美咲がやっぱり、来年にする!と逃げ腰になったところを捕まえた千里は、バスケ顧問のバンダカに無事に渡し終えた後、美咲の本命、西村も呼び寄せたらしい。
「バンダカはマメ。昨年もひとり、ひとりにお返ししてたから。私は最後に受け取りたいから、放課後は粘るつもり。美咲、一緒に教室にいようよ。」
と、千里が美咲を誘う。
「うーん、なんか待つっていうのもなぁ・・・。合唱部の練習もあるし。」
「でも今日は顧問の先生がいないから、休んでもいいんじゃない?」
と裕子が言う。そんな話をしているところに、西村が現れた。
「佐藤さん、ちょっといい?」と、美咲は西村に呼び出されて廊下に出る。しばらくして美咲が戻ってくると、顔が真っ赤になっていた。手にはお返しらしい包みを持っていた。
「西村君に、付き合おうかって言われた。」
美咲の言葉にみんながよかったね、がんばったねと声をかける。2年越しの片思いがチョコレートを渡して、ホワイトデーで叶うって、とても理想的な中学生の恋愛かもしれない。
「それにしても、西村君。女性に興味なさそうなのに、言うときはちゃんと言うんだね。見直した。」
と千里が言う。
合唱部の練習を終えた後、ピアノ室には裕子と私の2人が残っていた。バンダカからお返しをもらうことを期待して千里は教室で待機中。美咲も千里と一緒に付き添ってあげている。バレンタインに背中を押してくれた千里への感謝の気持ちも込めてだろう。
「ホワイトデーに合うクラシックって何だろう。」
「んー、そうだぁ~」と私は少し考えながら、ドビュッシーアラベスク第1番のはじまりを弾く。「もしくは、こんな感じ?」と、リストの「愛の夢」を弾いた。
「ロマンチックだね。それにしてもホワイトデーに女ふたりで何をやっているんだろうね(笑) ・・・ひとつ、聞いていい?」
「うん。」
「どうして、音大、諦めたの? 高校も音大につながる高校を選ぶ選択もあったのに、普通科にしたよね?」
「単純に、ピアノは自由に弾きたいなと思ったからかな。将来的にピアノでご飯を食べていくつもりもないし、音楽教師やピアノの先生とか、そういった道もイメージできなくて。」
「なるほど。好きなものを仕事に出来ることは幸せだというけど、好きなものを仕事にすると苦しいとも言うしね。」
「小学校の低学年辺りで、かなり専門的なレッスンになってしまって、それがしんどかったのかも。それなりに弾けたから、周りの大人たちが急にコンクールの準備しようとか、級をとるための試験対策みたいな課題をやろうとかなってしまって。子供ながら苦しかったのかもね。」
子供の才能を伸ばしてあげることは大人の責任なのかもしれない。けれど、大人たちは昔、子供だった頃の自分のこをを忘れてしまいがちだ。
「ね、ナナ。あれ、弾いてほしいな。」
裕子が言う"あれ"というのは、ラヴェルの『道化師の朝の歌』。1度、聴いたらはまってしまったらしく、ときどき裕子からリクエストされる曲だった。
冒頭から独特の世界観を織りなす曲調で、スペイン風の情緒あるリズムが面白く、私も気に入っている曲の1つだった。「いいよ。」と返事をし、さっそく弾い始める。楽譜がなくても弾ける曲だ。
「スマホに曲をダウンロードしたんだけど、やっぱり、ナナのピアノで聴くのが好き。この曲って、弾いているところみながら聴くのが楽しいよね。」
裕子には珍しく饒舌だった。
「ホワイトデーっぽくないけどね(笑)」
ラヴェルで締めくくったところで、裕子と私はピアノ室を出た。裕子が美術室の隣にある小部屋のドアの前で立ち止まる。何を見ているのかと思えば、ドアに貼られた張り紙だった。
『2/14にお菓子を贈ってくださった皆様へ
お返しがありますのでお声がけください。期限は明日までとさせていただきます。
不二』
「何、これ(笑)」と裕子が軽く笑った。淡々としている裕子にしては珍しい。ちゃんとお返しを考えたことは、人間味ある一面だが、張り紙のみで知らせるのは、一方的なやり方だとも思う。張り紙に気がつかなければお返しは受け取れない。
がちゃと小部屋のドアが開き、不二が出てきた。
「桜井さん。」
裕子と一緒にドアの前に立っていたが、不二は真っすぐに私を見、声をかけてきた。
「はい。」
「余剰分ですが、いつも素敵な演奏を聴かせてもらっているのでお礼です。」
と、不二は言い、私に10センチ角程度の小箱を渡すと、また小部屋に入ってしまった。
私は呆然としたまま、閉まったドアを見つめる。裕子の「帰るよ。」という声にやっとその場から離れることができた。
裕子がいるにも関わらず、裕子を見向きもせずに、不二は私に余剰分だと言って手渡した。お菓子のようだった。余剰分というのはホワイトデーのお返し用という意味だろうか。
「不二先生と交流があったんだ? チョコレート渡したの?」
「うううん、渡してないよ。ちょっとびっくりした。」
「・・・不二先生って、不思議な人だね。感覚が一般人と違うのかな。」
裕子はさほど突っ込んでこなかったが、違和感は私自身も感じている。普段、授業でもほぼ離さない無口な人。職員室にいることも少なく、休み時間や放課後は見かけることも少ない。
「先生と呼んではいるけど、先生とは思えないね。」
裕子が淡々と言った。いつもより低い声色だった。
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