9.気が付けば、ふたりの時間。
私は不二の代わりに美術室の小部屋のドアを開けた。
「ちょうど、お返しする本もあったので、お渡しします。」
「ありがとう。中へどうぞ。」
不二は中央の机の上にばさばさとチョコレートらしき箱を置いた。私も床で拾い上げたチョコレートらしき箱を机の上に置く。
「紅茶、飲みますか?」
不二の言葉に驚きつつも、私は素直に頷いた。不二は常温で置かれたペットボトルの水をポットに入れてお湯を沸かす。右の棚に並んでいたティーポットとマグカップを机の上に置いた。
「本は棚に戻しておきますね。」
「ありがとう。」
ゆっくりとした時が流れる。私は紅茶を淹れる不二の姿をときおり目の端で見ながら、何を話したらいいのか、会話を探していた。気になるのは山ほどのチョコレート。20、30個ほどあるだろうか。いったい、不二はどうやってお返しするのだろう。
「チョコレート、食べきれないですね」とか「大変ですね」と言ったところで、会話は続きそうにない。
「最後に。いつも最後に弾いていた曲はなんという曲ですか?」
予想外にも不二から質問された。
(いつも? いつも??? 彼は私が弾いていることを知っていたの?)
「・・・ラヴェルの『水の戯れ』という曲です。」
「ラヴェル・・・。ありがとうございます。」
「あの・・・。いつも、ピアノ、聞こえていましたか? 迷惑ではありませんか?」
ピアノ室は狭い空間のため、喚起を含めて冬でもときおり窓を開けている。部活動終わりで、4階だったこともあり、窓をあけてもそれほど迷惑ではないだろうと思っていた。
「まったく迷惑ではありません。むしろ・・・、」
私はじっと、彼の言葉の続きを待つ。
「むしろ、とても心地よいです。」
「あ・・・、迷惑でないのなら、よかったです。」
紅茶が注がれたマグカップが目の前に置かれた。
差し出す不二の色白の手はとても綺麗だった。
「お砂糖は必要ですか?」
「このままで大丈夫です。」
不二も手に自分のマグカップを持ち、紅茶を飲んでいた。彼もノンシュガーだった。一口、二口、紅茶を飲んでマグカップを机に置き、顔を上げると、不二と目が合う。視線は絡み合ったままだった。
「好きなんです。ピアノの音。・・・勝手に聴いていてすみません。」
「いえ、ぜんぜん。あの。ときにストレス発散といいますか、かなりめちゃくちゃに弾いてしまったりもしているのですが。それでも大丈夫ですか?」
「はい。いろいろなクラシックが聴けて、良い時間を過ごさせてもらっています。これからもよろしくお願いします。」
なぜか、不二にお願いされている状態に戸惑いながらも、
「ありがとうございます。ではこれからも自由に弾かせてもらいます。自由に聴いてください。」
「ありがとう。」
不二は、少しだけ口角をあげた。笑った。相変わらず、表情は読み取れないが、これは初めて見る、彼の微笑みだった。
「ショパンやブラームス、ドビュッシーもよく弾いていますね?」
「クラシック、詳しいんですね。」
「はい。・・・桜井さんは、ラヴェルが好きなんですか?」
「はい。私にとって弾き心地も耳心地も良いんです。」
「いつも、最後に弾くのがラヴェルだったんですね。僕も好きになりました。」
不二は自分のことを"僕"と言った。僕も好き。その言葉に心臓が鷲掴みされた気持ちになる。かーっと体が熱くなり、頬が紅潮し始めた。
そして改めて考えると、ふたりっきりで紅茶を飲んでいる。
まるで・・・。まるで、これは。
少しぬるくなった紅茶を飲み干す。
「ごちそうさまでした。カップは・・・、」
「そのままで大丈夫です。」
「では帰ります。本、ありがとうございました。」
心臓が痛い。でも、もう少し、あの空間にいたかった。矛盾した心を抱えながら、私は自転車置き場に向かい、急いで自転車にまたがる。
帰りがけ、体育館のほうを見るとまだ女生徒たちが群がっていた。
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