7.美術の時間。


 中学2年生、3学期の美術の課題は「模写」。


 私は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「星月夜」の模写に取り組んでいた。美術教師の不二から借りた本を読んだが、少し、「星月夜」を選んだことを後悔していたた。


 というのも、この「星月夜」をゴッホが描いたのは、36歳のときで入院中の精神病院だったらしい。亡くなったのが37歳だから、その前年にあたる。


 入院するきっけかとなったのが「耳切り事件」。一緒に暮らしていた画家と意見がぶつかったことで関係が悪化して、共同生活は解消。その後、画家にからかわれた左耳を、ゴッホは自ら切り落とし、錯乱状態になったとか。


 ゴッホには珍しく想像画の作品。見たままを描くのが苦手な私にとっては、想像画の選択は正しい。でもゴッホが描いていた背景を考えると、この絵と向き合い続けることで、自分自身も飲み込まれていくのではないだろうかと考えてしまった。


 ある意味、これは14歳の子供らしい考え方だ。


 芸術作品として客観的にとらえれば、そんな意味不明な呪いのようなことを考えるのは滑稽だとわかる。でも当時、14歳の私にとっては、模写することで、描いた当時の闇に捕らわれてしまうような怖さがあった。


 松井千里は、初志貫徹。ささっと、葛飾北斎の富士山を描き提出していた。美咲は同じゴッホでも「ひまわり」を選択。裕子はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を選んだ。


 美咲も裕子も完成間近で、最終の締切日よりも早く仕上がりそうだった。私だけ、あれやこれやと考えすぎて、終わりが見えない状態だった。


「ちょっと、ナナ、まだここまでしかできてないの? これじゃ居残り組じゃない。」

 と、美咲が心配する。

「でも、今日は合唱部休めないよ、先生いないから。ナナが弾いてくれないと。」


 そう、私は合唱部の中で、ピアノの伴奏担当だった。

「大丈夫、合唱部に行くから。部活が終わり次第、また戻るよ。18時まで美術室使っていいみたいだから。」

 合唱部の練習は、たいていの場合、16時半ごろには終わる。いま合唱部も3学期最後の締めくくりとして『時の旅人』の練習中だ。中3の夏の大会に向けて、課題曲を検討している段階に入っている。こちらも休むわけにはいかない。


 合唱部で練習を終え、おしゃべりには参加せず、私は1人美術室に戻った。教室には、同じクラスの岡田直樹、西村賢太がいた。


「桜井も居残り?」

 西村が声をかけてきた。西村は、美咲が片思いをしている相手だった。西村が残っていることを知っていたら、美咲にも伝えたのに。


 私は軽く「そうなんだよね。」と応じながら、後ろの長机に置いておいた制作途中の絵と画材を用意し、いつも美術の時間に座っている廊下側の一番前の席に座り、絵に取り掛かった。もう時間がない。こうなれば、気合い。やっつけ。何も考えず、無心に模写しよう。そう、心に決めて取り掛かる。


 そもそも「星月夜」は油絵だ。それを水彩画で模写すること自体に無理がある。あの、全面に押し出てくる、孤独の感情の渦を表現しきれない。


 それでも絵具をふんだんに使い、何度も何度も重ね塗りをした。

(この絵。模写しようと考えるのではなく、インスピレーションから自由に塗りたくったほうが書きやすいな。)

 と、途中でコツをつかむ。


「なかなか、独特なセンスだな。」

 岡田が私の絵を後ろから盗み見て、感想を述べた。

「勝手に見ないでよ。集中しているんだけど。」


 岡田とは小学校6年生から、偶然同じクラスが続いている。小学校から中学校という時期は、通常、男性と女性は意識し合うのか、行動するときは分かれるものだが、岡田は自然と女性の輪の中にも溶け込める人だった。男性からも嫌われることなく、先生からも好かれる。14歳にしてはコミュニケーション力がとても高い。


「ニューゴッホって感じで、いい感じだよ。」

「岡田、それ、褒めているの? ニューゴッホって(笑)」

 と、佐藤美咲の思い人の西村が笑う。美咲は今年こそ、チョコレートは渡せるのだろうか。


「俺たちは帰るけど、まだ、やっていくの?」

「うん、出来れば仕上げたいから。」

「そっか、じゃ、頑張れよ。」

 岡田は私の頭をポンと手で軽くたたき、西村と教室を出ていった。

 

 いよいよ、ひとりぼっちだ。持ち歩き用のタンブラーの水を飲み、もう一度、絵に集中した。


 はっとして、時計を見ると、いつの間にか、18時半を過ぎていた。

 もうすでに辺りは真っ暗だ。席を立ち、窓から外を眺めた。体育館の明りはまだついている。バスケ部だろうか。うちの中学校はバスケ部がけっこう強い。県大会は常連校だ。そういえば、岡田と西村もバスケ部だったはずだが、あのあと、部活に行ったのだろうか。


「桜井さん。」

 その声に振り返ると、不二祐介が美術室の小部屋から出てきた。

「すみません、すぐに帰り支度をします。」

 急に心臓がどくんと波を打つ。不二はずっと部屋にいたのだろうか。18時で帰るのを待っていたのだろうか・・・。慌てて絵筆を手にとると、廊下にある水道のある場所へ移動し、絵筆を洗う。教室に戻ると、不二は私の描いた、ニューゴッホなる「星月夜」を見ていた。


 「本を貸していただいたのに、ぜんぜん活かせなくてすみません。」

 「・・・良い絵です。」

 「え?」

 不二の顔を見ると、整った唇の端が少し緩んでいた。これは彼ならではの微笑みなのだろうか。目にかかった前髪から見える、切れながらの瞳。相変わらず、この人は美しいひとだ。


 中学校の教師なんて、まったく似合わない。

 見つめ過ぎたのか、不二と不覚にも目が合ってしまう。

 恥ずかしいのに、目が合うと、そこから離れられない引力があった。


 なぜ、こんなにも真っすぐに目を合わせるのだろう。

 何秒、見つめ合ったのか。それともたった1秒の出来事だったのか。とにかく力を振り絞って、目を離し、帰る準備をした。


「お先に失礼します。」

「はい。」


 私は美術教室をあとにした。どきどきを通りこして、胸がきんきんと痛む。

 




 

 

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