5.初めての授業。
女生徒たちがざわついた始業式から数日後。初めて不二が教鞭をとる、金曜日の6限目、美術の時間がやってきた。6限目は14時20分から始まり、終了時間は15:10分。
最初の授業は「模写」。名画の中から好きなものを選んで水彩画を描く。名画の解説については、すでに2学期の最後の美術の授業で、産休に入った原ちゃん先生から宿題として出されていた。
「3学期は模写の完成を目指します。各々どの作品を選ぶのか、何故選んだのか理由をまとめて、次の授業でレポートを提出してください。」
不二祐介の言葉は機械的で、用意された台本を読んでいるかのようだった。授業に関わることしか発言しない。雑談もいっさいない。
「不二先生、グループで相談し合ってもいい?」
クラスの女子の1人が不二に聞くと「はい。」とシンプルな回答があった。その声に各々、好きなグループを作り、話し合い始めた。
私もいつもの女子グループ、松井千里、黒田裕子、佐藤美咲の4人で席を並べた。
「人物のほうが難しいよね、風景のほうがいいかな。」
美咲がぺらぺら教科書をめくりながら言う。さらに続けて、
「モネとか?」
「え、むずくない? ゴッホのひまわりは? 主は花だし。」
千里が突っ込む。
「私はフェルメールの真珠の耳飾りの少女の絵が好きだなぁ。」
「フェルメールは難しそう。でも確かにいいね。」
美咲の言葉に裕子が答えた。
「あ。葛飾北斎とかもありかな。模写しやすそう。私、北斎にするわ。」
突然、千里が日本画に方向転換。千里は食事に行ってもメニューを決めるのがグループ内では早い。
「ナナは、何にするの?」
「ぜんぜん思い浮ばない・・・。超苦手なんだよね。模写とか写生とか。」
裕子に聞かれて、私は机にうつ伏した。おでこがコンっと机とぶつかる。
まじめに授業を聞き、課題も一生懸命に取り組んでいるのにもかかわらず、小学校のときは図工の成績は5段階中「3」。中学1年生のときの美術も5段階中「3」。美術のテストは80点以上だったのだが、提出した作品が毎回、足をひっぱる。
友人たちと会話しながらも、私は目の端で不二の姿を捉えていた。
彼は窓際に設置された椅子に座り、本を読んだり、ときおり頬杖をついて窓の外を眺めていた。同じ教室にいながら、不二だけが別の世界にいるようにも感じた。
「テストの成績がいいのにね。でも自由課題は得意じゃない。」
「え? ああ、うん、そうだね。」
裕子の声に、私は4人の会話に引き戻された。
「でも自由課題は年に一回あるかないかじゃない。はぁ、何を模写しても同じになるよ、きっと。」
私の絵や彫刻のへたさを知っている面々が笑う。
「大丈夫、一生懸命さは伝わるから。」
適当ななぐさめの言葉を千里が投げかける。
「いや、伝わってない、必死に努力して万年「3」だから。」
私は不二にセンスのない自分の制作物を見られたくないなとも思っていた。
明日は何を模写するのか、美術の時間にレポートを提出する日。
あれやこれやと名画を一通り見たが、結局、想像画に近い絵のほうが誤魔化せるだろうという考えもあって、私はゴッホの「星月夜」を選んだ。
さらにもう少し、描くヒントみたいなものが欲しくて、教科書に掲載されていない「星月夜」の解説を探しに、図書室に行った。もはや4や5なんていう、通信簿の成績は求めていない。努力しなければ「3」の維持ができないのだ。
中学校の図書室には、あまり美術史関連の本がなかった。
(んー、やはり、市立図書館に行けばよかったな。)
ぱらぱらと本をめくっては戸棚に返す作業を繰り返した。
その日の放課後の図書室は人が少なかった。
私は学校では使用が禁止されているスマホを取り出し、周囲に人がいないことを確認してから検索をした。そうすると、ネット書店にちょうどいい本があった。
「え、なにこれ。星月夜の解説本がある。」
思わず、独り言が出る。そして、がくんと首を落す。なかなか模写の名画を決められなかったことが敗因だ。もっと早く決めていれば、購入できたはずなのに・・・。
「ゴッホの星月夜ですか?」
周囲に人がいなかったことを確認したにも関わらず、ふいに頭上から声がかかった。顔をあげると、不二祐介が右隣に立っていた。不二がいたこと、声をかけられたことにも衝撃を受けたが、気配を全く感じられなかったことにも驚いた。
彼の顔は、見上げないと辿り付かない。長い前髪の間からすっきりとした切れ長の瞳が現れ、彼と目があった。とても綺麗な瞳だなと思った。同時に、ドキンと一瞬、心臓に痛みが走る。
「美術室に寄ってもらえれば、お貸出できますよ。同じ本を持っています。」
「あ。ありがとうございます。」
不二が歩き始めたのでその後をついていく。少し腕をまくった黒いシャツから見える腕も、透明感のあるアリボリーのような肌だった。鼓動が速くなる。頬も紅潮していたかもしれない。
中学校の校舎は4階建て。3階の図書室から4階へ移動する。4階は東から美術室、美術室専用の画材などを収納する部屋、ピアノ室、トイレを挟んで音楽室があった。ピアノ室はもとは倉庫となっていたようで、何年か前に音楽教師からの要望があって、ピアノの練習室ができたらしい。
不二は4階まで上がると美術室はスルーし、隣にある画材などの収納部屋のドアの鍵を開けた。不二が入っていたので、私は少し遠慮がちにドアから中を除いた。
美術室の隣にある部屋は、画材や備品倉庫だと聞いていたが、なかなかどうして、落ち着けそうな部屋になっていた。小さなアトリエといってもいい。
部屋の真ん中には使い込んだ古い机があり、右側の壁には棚が設置され、さまざまな画材が収まっていた。窓際には机と椅子、イーゼルが置かれていた。
不二は、机のサイドにある本棚の前に立っていた。本を探しているようだった。
部屋に入ってもいいものなのか、ためらいながらおずおずと歩を進め、私はそっとドアを閉めた。画材が詰まった棚には、紅茶の缶とティーポットも置かれていた。なんだか不二の部屋に入ったような気持ちになり、おかしな緊張が走る。
不二は、何かと女生徒を中心に、美術の質問と称して追いかけられることが多い。でも彼女たちから「あまり姿を見かけない、どこにいるんだ」という愚痴を耳にしたことがある。もしかしたら不二は、この小部屋に避難していたのかもしれない。
「はい、どうぞ。」
不二は部屋の中央で突っ立っていた私に本を手渡した。
「あの、いつお返しすれば・・・」
「キミが不要になるまで、貸し出します。」
不二は言葉数が少ない。無駄は話しは授業中でさえ一切しない。けど、人に話すときはしっかりと人の目を見て話す。ただ、その目には、感情が灯らない。
「はい・・・ありがとうございます。」
私は本を受け取ると、その部屋から出た。
ドアの前で、本をぎゅっと抱きしめた。そして足早にその場から去った。
顔がかっとほてる。どきどき、どきどきと鼓動が早鐘となって胸を騒がせた。
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