3.押し寄せる後悔の波

 1LDKのひとり暮らしの家に帰った私は、ドアを開け、鍵を閉め、靴を脱ぎ、リビングにあるソファにうつ伏せに寝っ転がり、クッションに顔をうずめた。


 今日起こった出来事が目まぐるしく脳内を駆け巡る。


 不二祐介の墓参りに行ったのは、しまい込んでいた記憶の整理がしたかっただけだった。なのに、初めて不二の従兄の存在を知り、不二のアトリエを教えられ、不二が描いた自分の絵と対面することになってしまった。


「いまさら、知りたくなかった・・・。」


 あの絵は、あの絵だけはありえない。


 “ありえない、ありえない”と、念仏のように唱え繰り返す。

 心臓をえぐられ、ずたずたにされている気分になった。


 不二と出会ったとき私は、14歳だった。中学2年生だった。今思うと、やはり、子供だったことがわかる。でも当時は、どこかで大人たちを馬鹿にしているところもあって、人生に対しても達観していた。「自分は、まだ未成年で人生経験が少ないことを理解している私。」と、考えられることが、大人だと思っていた。


 中学生の自分が、27の不二とまともな恋愛ができるわけではないことを理解し、不二の美しい見た目に対して、ミーハーに群がる女生徒たちを、羞恥心の知らない中途半端な大人だと見下していた。


 馬鹿だった。自分もすっかり、大人ぶっただけの子供だった。周りを見下すとは恥知らずもいいところだ。


(私は不二を手放してはいけなかった? 逃げてはいけなかった?)


 言葉では言い尽くせない、後悔の波が襲い掛かった。


 けれど、あのとき、中学生の自分に何ができたのだろう。自分の気持ちにしか向き合うことができなかった。不二の底知れない思いを理解することも、寄り添うなんていう芸当もできなかった。



 中学生の自分は大人ぶった子供で、

 27の不二は、大人の仮面をかぶった子供だった・・・。


 27歳になってわかる。

 中学生の頃と、それほど考え方や心の揺れ動きは変わっていない。

 異なるのは経験から得る知識と、経験から考える想像力だ。


 

 中学生でも生理があれば子供を産むことができる。それこそ、明治時代までさかのぼれば、15前後で婚姻することは珍しいことではなかった。


 でも現代は、中学生は世間では未成年と定義され、大人たちが普通にできる権利は与えられていない。


 現代になればなるほど、社会は15歳を子供の枠組みに入れていった。



 けれど。

 本当に中学生はなのだろうか。

 27歳は、本当になのだろうか。



 いまある世間のルールにそって生きてこられなかった子供たちは、大人になっても年齢だけ重ねただけの大人になる。


 周囲と異なる自分を意識したまま、周囲と溶け込めず、淡々と年齢を重ねて、成人の枠組みに入れられ、社会的責任を背負わされていく。


 年齢だけ重ねた上っ面だけの大人。

 内側は小さく小さくうずくまった子供のまま。


 そんな大人を救うにはどうしたらよかったのだろう。



 「もっと必死に探せばよかった。なりふり構わずに。どうして私は彼を追い求め探さなかったのか。どうして、心に閉じ込めて逃げてしまったのだろう。」


 私はソファの上で体をぎゅっと縮めて小さくなった。ふいに涙がこぼれ、次第に嗚咽となった。


 中学卒業後、高校に入ったとき、高校を卒業したとき。大学に受かったら電話しよう、就職したら会いに行こう。そんなことの繰り返しで、結局行動をしないままだった。意気地なしの過去の自分を恨んだ。


 



 




 



 

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