第9話「朝食と約束①」

 サリカは、時代によって価値観をアップデートしている。

 統一された安定のある暮らしから、刺激にあふれた毎日へ。

 発展の無い仕事なんて必要がなく、安定の無い料理なんて物好きだ、それこそ掃除なんて面倒くさい。

 今までの経験に見切りをつけるように、それまで〝発展階層〟と呼ばれていた場所に低階層と名付けて、その上に新しい価値を構築する。

 その一方で、今まで受け継いできた「便利の裏で綺麗な河川を汚すこともない、完璧なサイクル」を切り捨てたりはしない。

 より善く、新しいものの何が悪いのかと、その都市は新しきを尊ぶ。







△◯







 階層都市サリカ低層階第一〇位。

 一から一〇位まである低層階のうち、第一〇位だけは他と異なる作りをしている。

 他の階層は歓楽街、住宅街、商業区、工業区、農業区の五つの区画に区切られているが、一〇位のみ、四つの区画しかない。

 その理由は、元々あった四番目と五番目の区画がとある企業によって買い取られ、統合されたから。

 新たに四番目の区画となっているその場所に、天袖達が住まいとする拠点はあった。

 三階建て一軒家。サリカの中に建てられたこの家は天袖とラスノマィの活動拠点であり、自宅でもある。

 自宅の周囲には庭や池、畑など色々、果ては小型ジェット機用の滑走路などもあったりして、個人が住む家としては発展階層すら凌ぐほどの豪邸なのは間違いない。


『ほらぁー! 起きろー! メシだメシー!朝食だぞー!』


 部屋同士を繋ぐスピーカー、そして下の階から直接響く声。

 何より天袖の目覚めを促したのは、部屋の中にいても香ってくる、香ばしい肉の匂い。


「ん……にゃむ」


 いいやそれだけではない。

 天袖の〝本能〟を刺激する匂いが漂っている。まだ寝ていたいと心では思っていても、彼の肉体が両手を使って彼自身を目覚めさせていた。

 現実を目にしてはいるけれど気分は夢の中で、匂いの元を探す。


「…………」


 隣で眠るラスノマィから——ではない。もっと直接、天袖が目指すもの「そのもの」の匂いがする。


「——っ、とと」


 天袖の頭……というより、体がグラつく。

 精神の栄養補給はできても、肉体の栄養補給ができていないからだ。

 すやすやと眠るラスノマィを起こさないように、静かにベッドから這い出る。

 寝汗でもかいたのか、それとも〝何か〟別のせいなのか……ベッドが湿っていたせいで指先の感覚がはっきりとしていて、間違えてラスノマィの体を蹴ったりすることもなく。

 天袖が這い出たことで捲れた掛け布団をラスノマィに掛け直し、大きく伸びをする。

 ——より強く、その匂いを感じ取れた。


「……そと?」


(部屋の中からじゃない……。たぶん、下の階から……?)


 誰かが下の階で料理をしている。

 天袖とラスノマィの家で、二人ではない誰かが。


(……ん……?)


 誰が来たのだろう、と天袖は一瞬考える。だけど、美味しそうな匂いに頬を撫でられて思考はすぐにかき消えた。かき消した、が正解かもしれない。

 香ばしく、鋭く強い香り。肉の焼ける匂いに混じる、香辛料の匂いだ。それに脂の匂いも合わさって……こんなに美味しそうな匂いを前に、他の思考などやってられるか。

 ドアノブを握る手に迷いはなく、少年は香りの下へ向かうためにドアを開けた。







△◯






「ぉあよ」


 寝室を出た時点で忘れていた眠気がぶり返してきた天袖は、階段を降りて、寝ぼけ眼のままリビングの扉を開ける。


「おはよう。……起きたな」


「んゅ」


 赤いエプロンを着た青年と目が合う。どう見ても天袖の知り合いだ。ほとんど目を瞑っているせいで視界が70パーセントほど遮られてはいるが、それでも目の前の人物を間違えたりはしない。青年は、天袖達のキッチンでフライパンを振るっていた。

 赤。手に持つものも、身にまとう彩色も。

 フライパンはこの家にあるものだが、彼が手にすると驚くほど馴染んでいるようにも見える。それでいてどこか不機嫌な態度なのは、彼の嫌いな色を身につけているからか。

 いずれにせよ、これほど赤色を嫌って、しかしながら赤が似合う人間を天袖は他に知らない。


「むぉふぇふぁるぁ……の? あすおみがよんあ?」


「到着したのは今朝だ今朝。ラスノミが呼んだ……というか、連絡してたら今日受け取りに行くってことになったんだよ」


「ほうふぁんふ」


 意思を伝える手段としての形が崩壊している天袖の言葉に、適当な返事をする青年「碌亡(ろくな)」。天袖とラスノマィの住まう第四区を買い取った企業「廻我」の社長息子であり、天袖とラスノマィのために旧四区と旧五区から人を追い出した、通称『暴君』。

 だが、物騒なあだ名とは裏腹に、彼は天袖達のために居場所を用意してくれるだけでなく、仕送りをしてくれたり、時間ができればこうして会いに来てくれたりもする。

 血の繋がりはなくても、大切にしたい家族のような存在だ。


「昨日ラスノミから聞いてたからな。今ステーキ焼いてるから、少し待ってろ」


 そして、今日は「暇だから」と言いつつも会うために時間を確保し、天袖達のために食事を作りに来ているのだった。


「ふぃふぃふぉふぁ……」


「よし、待て」


 飲み物を求めて天袖がキッチンに入ろうとすると、碌亡に止められる。


「ほぇあ……ん?」


 なんで、と抗議する天袖にコップに注いだ麦茶を渡しながら、碌亡は彼の左腕を指差した。


「……何で、お前上着の片袖が無い……?」


「…………」


 言われてみれば。

 確かに、天袖が着ていたパジャマの袖が無かった。

 触れてみれば、肩の縫い目から引きちぎられているようだ。


「いつの間に……」


 パジャマ姿で外出した記憶も天袖にはなく、パジャマ姿で誰かと会ったのだって————


「……あ」


 思い当たる節がひとつあった。それは確かに、昨日起きたことだ。


「……昨日の夜、何をやった?」


 碌亡が天袖に向ける眼差しを、天袖は静かに返す。


「……らすのみと」


「ラスノミと?」


 こくり、と喉が鳴る。覚悟を飲み込んだ音だ。

 一体どれほどのことがあれば、片袖が千切れるような事態に陥るというのか。

 数秒の間、完全に手を止めて碌亡は天袖の答えを待った。


「えっちした」


「…………」


 碌亡が天袖にすぐ言葉を返せなかったのは、呆れていたからか、それとも納得するのに時間を割いていたからか。


「えっちしたんだ」


「イヤ繰り返さなくても単語の意味はわかる」


 天袖の顔は至極真面目。というより、嘘をついていないだけの「何も考えていない顔」だ。


「お前たちは……なんだ? なぜセックスで服の一部が千切れる? ぶつかり稽古でもしてたのか?」


 自分の中で答えを出すのは難しい、というか不可能であることを悟った碌亡は、止めていた手を再び動かしつつ、溢れた疑問を直接ぶつけることに。

 天袖は少し考えるそぶりを見せた後、口を開いた。


「疲れてて」


「……そりゃ、そうだろうな」


「でもえっちしたくて」


「疲れてんならやめとけよ」


「そしたら、らすのみが誘ってくれて」


「……あいつもやりたかったってことか」


「途中までは普通にシてたの」


「……で?」


「らすのみのナカがすごくあったかくて——」


「いや具体的なことは言わんでいい。袖が破れた原因だけ教えろ」


 目を蕩けさせる天袖の口を塞ぎ、先を促す。いくら親しいとはいえ、そこまで気にしたいものでもないからだ。


「らすのみをみんなの前で抱きしめちゃったの、らすのみが思い出しちゃって」


「……ああ」


 碌亡は遠い目をした。ラスノマィが人前で頭を撫でられたり抱きしめられたりすることを死ぬほど嫌っているのを、彼も知っているからだ。


「首噛まれた時、一緒にびりっ、て」


「力が入り過ぎたってことな」


 天袖の頸動脈が噛みちぎられることにならなくてよかった、と碌亡は内心胸を撫で下ろす。


『…………』


 軽い気持ちでラスノマィの頭を撫でたあの日、思わず死を悟るほどの敵意を向けられたことを碌亡は思い出していた。


「……お前に〝力〟を送って、ラスノミはまだ起きてこないってわけか」


「……うん。けっこう、わけてくれたみたい」


「そりゃよかったな。……んじゃ」


「うん」


「風呂入ってこい。もう少しでできるし、その頃には熱さも落ち着いてるだろうしな」


 猫舌——あまり熱いものが食べられない天袖が、ステーキを美味しく食べられるように。


「……におう?」


「臭わなくても風呂には入ってこい。セックスの後なら尚更な」


「わかった」


 ベトベトがかぴかぴになっていたとしても、普通は気持ち悪いだろうに。

 なぜそれを訴えないのか、とため息をつきながら碌亡は浴室へと向かう天袖を見送った。




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