第8話「帰宅――」

 ラスノマィにとって天袖が恐怖するものが怖さレベル一〇とすれば、久那無架の存在は怖さレベル五〇。世界の崩壊がレベル一〇〇で、その他の些事がレベル一。

 とはいえ、あの場から逃げ去ることを最優先にしたのは少々焦りすぎだった。

 相手は画面越しで、しかも写真。ラスノマィ達を追跡することも認識することもできない。帰宅を急がされている途中、何もしてこない相手に何をビビっているのか、天袖は気になった。


(——でも)


 安易に聞き出すことはできない。もしかすれば、天袖が抱えるものと同じトラウマに繋がっているかもしれないのだ。

 だから天袖はできるだけ気にしない、ラスノマィを刺激しないよう、落ち着いた時に話が聞ければいいやと、ただ帰ってきた時のように何事もなく振る舞っていた。

 ……ラスノマィでなくても、天袖が何かを気にしていることはすぐにわかったのは間違いないが。


「……あぁ、反応したのは〝久那無架〟にじゃない。〝レッテル〟の方だから」


 二人が帰宅したすぐ後、忘れ物を思い出したかのようにラスノマィは天袖に教えた。気にしてすらいない。

 予想外——考えてみれば予想外と呼べるほどでもないのだが、ラスノマィへの気遣いで敏感になっていた天袖は、洗面所の鏡に映る自分を目にした時、とある変化に気づいた。


「……そうなんだ」


 極めて平静であることに努める天袖。……努めているつもりだが、ラスノマィが自分に「大事なこと(過大評価)を打ち明けてくれた」という嬉しさ、喜ばしさが彼の表情筋を支配していく。具体的には、彼は笑みが溢れるのを止められなかった。


「……元々帰ったら話すつもりだったから、いいんだけどさ。そんなに嬉しそうにするなよ」


 頑張って〝ちゃんとした顔〟を保とうと頬をこねる天袖に、見かねたラスノマィがぽん、と頭を叩く。


「……ごめん。ちょっとうれしすぎた」


 と言いつつも天袖のふにゃけ顔が収まらない。わざとではなく、あるものが不足すると感情の抑制が上手くいかなくなってしまう天袖の〝人種魔妖〟としての性質のせいだ。

 すぐ不安になって泣いてしまったり、マイナス思考になって気にしすぎたり。

 ここ数日、天袖が情緒不安定になっているのも「あるもの」が不足している兆候だ。


(……やっぱアレが必要な時期か)


 不足しすぎると天袖が死んでしまう、彼が生きていく上で必須の栄養素。……ではあるが、逆に摂取しすぎてもまた性格が変わってしまう。

 過剰摂取が原因で過去にとある事件が起きてしまったこともあり、不足しているからと安易に摂らせることもできない。


「……今日はもう風呂入って寝るぞ。獲物の後処理とかはまた明日やるからな」


「うん……あれ、ステーキは?」


「明日。朝イチでヘビーなもん食わせてやるから覚悟しとけ」


 にひひ、と笑うラスノマィの笑顔につられて天袖もふにゃふ、と笑う。洗面所から繋がる脱衣所の扉が閉まる瞬間、目にした天袖のふにゃけ顔。トゲがひとつもない天袖のトロけ具合に、ラスノマィは少し焦り……とも言えない緊張を感じた。

 性格に変化が表れているだけでなく、天袖の人格が溶け始めている。これは天袖の体が発している危険信号だ。


「ウチにステーキにくとかあったっけ?」


 扉越しに響く天袖の声。理性が飛びかけてても、脱衣所まで入ってきたりはしない。

 天袖が僅かに残った理性をかき集めて頑張っている——のではなく、ラスノマィが天袖に脱衣所内に入ることを『許可していない』からだ。彼は幼い頃から、許可された場所以外に立ち入ることができない。〝許可していない〟は『招待していない』とも言い換えられるが、自分達の家の中では招待も何もない。


「〝碌亡(ろくな)〟が冷蔵庫に入れといてくれたってさ。代わりに今日の獲物提出しろって」


 浴室へと繋がる扉を開き、天袖の問いに答えると、浴室に入って扉を閉める。

 なるべく早く出て、交代してやろうと思いつつ、ラスノマィはシャワーヘッドを手に取った。







△◯







「よしじゃあ寝るぞ」


 もこもこのフード付きパジャマに着替えたラスノマィと天袖。同じデザインのペアルックを着こなす彼らは、ラスノマィの寝室前にいた。


「……うん、おやすみ」


 自室に入ろうとするラスノマィに返事をして、あくびをする天袖は自分も部屋に戻ろうとする——が、部屋の中から伸びるラスノマィの手に袖を掴まれる。


「——行くな」


 行くな、とは天袖の寝室に行くなということ。ラスノマィが天袖を引き留めたのだ。


「……え」


 廊下の灯りと、ラスノマィの部屋の暗がり。光に照らされて暗闇に浮かぶラスノマィの頬は……強く、朱に染まっていた。


「……っ」


 困惑する天袖の腕を、さらに強く引っ張る。殴るようにスイッチを叩き、廊下の電気を消した。


「オマエも一緒に寝るんだよっ!」


「…………」


 普段のラスノマィなら決して言わない言葉、見せない表情。

 早口で喋るその顔色は真っ赤で、何かを覚悟した表情。まるで今から何か大変なことが始まると知っているかのようだ。


「……いいの?」


「いいも悪いもあるかっ」


 言って、覚悟を決めた顔のラスノマィは自室に天袖を引き込んだ。

 ラスノマィが天袖の腕を引っ張ったまま、何かにつまづく。絡み合っていた二人はそのまま転んだ。

 幸い床にはマットが敷かれていて、二人に怪我はない。

 天袖が上、ラスノマィが下。少し怯えた様子の天袖が、興奮し、獰猛な笑みを見せるラスノマィに覆い被さっている。

 ベッドにはまだ到達していないが、これ以上は我慢の限界——〝ラスノマィ〟の、理性と本能の臨界だ。

 部屋の灯りも消され、サリカの低層階に浮かぶ偽の月明かりが部屋に差し込む。


『お前のためだお前のためだお前のためだ——大好きだから、少し分けてやる』


『……ええと、その……よろしく、お願いしま、……っ!?』


 天袖の生存に必要不可欠な栄養素「あるもの」。人類もある程度は必要とするが、天袖のように食事として喰らうことはまずないだろう。さらに、それさえ足りていれば他の食事は必要ないのかといえばそういう訳でもなく、食事の他に睡眠や〝別の栄養素〟を摂る必要もあり、そちらもまた不足すれば天袖の生命をおびやかす危険性がある。


『あひゃあっ!? ……なっ、なんでっ、らすのみがかぶりつくのっ!?』


 だが、その〝別の栄養素〟は、今この場でラスノマィが天袖に分け与えることも可能だ。

 その上「あるもの」と違って摂取量は厳格ではない。ある程度は代用として補うことも可能だろう。……摂ることができれば、だが。


『うるさいな……ボクだけどわたしだってから直接精気を送り込んでやってるんだ。感謝して動かないでいろ』


 それはラスノマィが〝羞恥心〟さえ我慢できれば、天袖の感情の暴走をある程度抑制し、楽にしてやれるのは間違いない。

 そうすれば「あるもの」の摂取を少し先延ばしにできる。


『すすすすわれてるっ! 大事な何かがすわれてるよう!』


『だいぶ戻ってきてるな。あと少しか』


『……あれ? なんかそういえば、——っ!? なんでまた噛む!?』


『おほえあはいほあむあむ』


 勿論これは一〇〇パーセント天袖のためであり、純粋な目的における行為以外の何ものでもなく、他に取りうる手段が無かったのかといえば、…………それは嘘になる。




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