第72話 再会

「幸人、一度ご挨拶に行ったほうがいいですか?」


「いやあ、辞めた方がいいよ」


 俺は駅から降りる直前に美由から、そう声をかけられた。美由の家は二つ先だ。俺たちはもしかしたら、駅のどこかですれ違っていたかも知れない。そう考えると、この地味な駅が感慨深い。


「そうですか……」


「姉さんからメール来てないからね。こう言う時はやばい」


「そう言えば最近、お姉さんからわたしもメール来てません」


「きっと、俺が帰ってくるのを家族総出で待ち構えてるよ」


「それは、言い過ぎですよ」


 それがあるんだよな。美由は、うちの家族を甘く見すぎている。


「じゃあ、お正月行くからね」


「はい、楽しみにしてます。あっ……」


 美由は口に手を当てて、ニッコリと笑った。


「幸人にとってはドキドキですね」


「今から冷や汗かいてるよ」


「大丈夫だよ! パパ、優しい人だからね」


 電車発車のベルが鳴る。俺は手を振りながら美由を見送った。美由のお父さんは、きっと美由には優しい人だろう。だが、何処の馬の骨とも分からない俺に優しいとは限らないんだよ。


「あー、だるい……」


 このまま家に寄らないで帰ってしまいたいが、そう言うわけにもいかないよな。俺はそう考えながら階段を降りた。


「あっ、幸人!」


 駅のホームに降りると一番会いたくない人がいた。


「彩芽か……」


 その隣にはやはりいるよな。


「俺の彼女に馴れ馴れしい呼び名で呼ばないでくれないか」


「川口か……」


「春樹いいよ。今日は気分がいいから、その言い方許してあげる」


 俺は唇を噛み締めた。何が許してあげるだよ。ずっと小さい時から、ずっとその呼び名だったろうがよ。


「春樹、かっこいいよ」


 彩芽はそう言って俺に見せびらかすように、川口の腕に自分の腕を回して、胸を擦り付けた。くそっ、くそっ……くそっ……。


 彩芽はそんな女の子じゃなかったはずだ。小さい時から、俺の後ろを妹のようについてきた。


(ねえ、将来何になりたい?)


(うーん、まだはっきりと分からないよ。彩芽は?)


(わたしは、もちろん幸人のお嫁さんだよ)


 その後、彩芽が俺の唇に……。とてもぎこちないキスだったが、それでも俺は嬉しかった。


「俺たちから京都にまで逃げて、何かいいことあったのか?」


「ハアッ!?」


 俺はあまりの強い怒りに思わず川口を睨みつけてしまう。


「ああっ、怖い怖い……」


「春樹、そんなこと言ったらダメだよ。幸人がモテるわけないじゃないの?」


「そうだよな。悪かった。おひとり様だっけか。今でもやってるのか?」


「……るさい」


「おっ、今度は逆ギレか。本当にあの頃と変わんないよな」


「うるさい!!」


 だから帰りたくなかった。美由と出会って、彩芽のことは忘れたと思ってた。だが、こうして出会ってしまうと、長い時間に育んだ記憶は簡単に忘れることなんてできない。


「逃げるのか?」


 俺の一番大切だった彩芽を奪った川口が許せなかった。綺麗なストレートヘアーの黒髪には、今では綺麗にパーマが充てられ、軽く茶色に染められていた。


 俺は力の限り走った。もう大丈夫だ。もう、あの純粋だった彩芽は、いない。その代わり俺には美由がいる。


 それでも俺の心臓は潰されそうに痛む。長い時間に培った記憶が俺を深い牢獄に捕えているようだった。


 苦しい。なぜ、こんなに苦しいんだ。もう忘れた、と思ってた。いや、忘れていたはずだった。


「ハアッ、ハアッ、ハアッ……」


 俺はどこに向かって走ってるのか分からない。だが、俺はあてもなく逃げた。だから、来るのが嫌だったんだよ。忘れたい。全てを忘れて、今は美由の側にいたい。


 いや、今の俺に美由を好きになる権利なんてあるのだろうか。きっと今の情けない俺を知れば美由も呆れていなくなってしまう。俺はまた、ひとりぼっちに戻ってしまうのか。


「……どうして、こうなるんだよ!!!」


 彩芽のことを忘れたと思ってた。いや、忘れていた。でも、あの髪のサラサラとした手ざわり、ふんわりとしたキス。俺は彩芽のことを忘れられていない。本当に最悪だ!!


「あの時の彩芽はどこにもいないのに……」


 頭では理解しているのに、心が、身体が覚えているんだ。あの心地よかった。当時の記憶を俺は忘れてはいない。


「結局、ここに来てしまうんだな」


 嫌なことがあると俺はこの海岸で、時間が経つのも忘れてずっと座っていた。そしてその傍には、いつも彩芽がいた。


(ねえ、どこ見てるの?)


(……るさい)


(幸人は未来のお嫁さんに向かって、そんなこと言うんだ)


(悪い……今日は一人でいたいんだ)


 忘れていた記憶が呼び起こされる。後ろから抱きつかれた温もりが今も忘れられない。


(一人でいたって、何も解決しないよ。話してみて、わたしが解決してあげる)


(お前に何が解決できるんだよ!)


(解決できないかも知れないね。でも、幸人のことなら誰よりも、このわたしが一番知ってるんだよ)


 そのクリクリとした瞳がとても可愛く思えた。美由ほど綺麗ではないけれども、それでも俺にとっては大切な人だった。


(ねえ、言ってみて。わたしなら幸人の苦しみを取り除いてあげるよ)


「彩芽、俺はお前を忘れたい。変わってしまったお前を見るのが、辛くて苦しいよ……」

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