二人の関係

 特にこれと言った兆候も意味もないのだが、野ばらと百合愛は定期的に遺言書を書くようになった。

 理由は簡単。

 追放されてはや10年余り。そしてそれに反旗を翻すようになって8年余り。

 

 キリスト教だけではないと思うのだが、思想による結束力は正しく、「ペンは剣よりも強し」である。どんなに理由を説明しようと、文書にしようと、彼らの快・不快において「快」を求める傾向は止めることが出来ない。

 百合愛は基本的に、インターネットで交流をしない。理由は簡単で、

 誰も拒んではならないはずの教会で育った百合愛には、インターネットでのストーカーに対する『自衛』としての「拒否」がわからないのだ。

 誰とも会話をしたということになっているイエスを模範にするように育てられた百合愛には、自分の快のために他人を拒否するという文化を持たない。

 故に、百合愛は反逆心や復讐心を強く持つ野ばらなしでは、教会を運用することが出来ない。

 何故なら、ユリというものは、醜く茎にしがみつき、茶色く変色しながら枯れる姿を晒す植物だ。腐ったものを捨てられないし、「置かれた場所で咲きなさい」と育った彼女は、自分が豚小屋に放り込まれたアコヤ真珠であったとしても、その場を離れることはない。

 対して野ばらは、はっきり言って対人関係は苦手である。元々強い不満と鬱屈を抱えながら育った彼女は、基本的に自分の「不快」を表現する。それは周囲が「快」であってもそうだ。「不満」「屁理屈」そんなものも含む。モンスタークレーマーもびっくりの世間知らずで、核遊びが好きな国家元首たちもびっくりするほどの「わがまま」だ。自分の思い通り、つまりは、「快」になるようにならないと気がすまない。しかしその「快」になるという基準は、「要求が叶う」ということではない。

 理詰めで押さえつけられてきた彼女が求めるのは、いつだって「答え」だ。心地よく言うなら「真心」、本質をついて言うなら「本音」。それによって自分が「納得」した時、初めて彼女の刃は収まる。

 故に、野ばらは人間らしい慈愛や友情を育める百合愛なしでは、教会を運用することが出来ない。

 何故なら、バラというものは、必ず棘の処理をしなければならない。そしてその花びらは、一枚一枚剥がれながら、最後の一枚まで食いついて枯れていく。花実をつければ薔薇バラとして愛でられるが、それが美しいもの、つまり周囲を「快」にさせるものでなければ荊棘バラであり、そもそも芽さえ出ないならそれはいばらであって、花ですらない。


 しかし、いばらの冠を被せられ死んだ、男の母は、常に白ゆりと共に、十字架を見上げているのである。

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