第13話
廊下に出て右の部屋には目もくれず、ザンさんが左の部屋のドアを開ける。
僕たちも、それに続いた。
部屋に入って視界に広がったのは、16枚の肖像画だった。
うち4枚だけが、真っ黒に塗りつぶされている。
「さて、それじゃあ怒った顔でも披露するか」
部屋に入るなり、白石さんがそう言って、両頬をリスのように膨らませて眉根を寄せた。
「ぶわっははは! その顔、おい! 整ってた顔はどこいったんだよ!」
それを見て、指をさしながらザンさんが爆笑する。
確かに、ひどい顔だった。
ほっぺたは空気でパンパンだ。
眉間にものすごい数のシワが寄っているくせに、その眼はより目になっている。
こんな白石さん、見たくなかった。
「……どうだ? 私の絵は揃ったか?」
言いながら振り返り、白石さんが自身の肖像画を見やる。
だが、怒りの表情は描かれていない。真っ黒なままだ。
「そりゃそうでしょ。今の、明らかに怒ってないじゃん」
呆れたようにミシェルさんが言った。
「やはり感情を伴わない表情では無意味か。怒ると疲れるから嫌なんだが……、子供のころ盗まれたボールの記憶でも、ほじくり返すとするか。まったく、あのボールは世界的スターのシニィンツァ直筆のサインが入っていたというのに……」
言って、彼はゆっくりと目を閉じた。しばらくすると、彼の耳が真っ赤に染まり、奥歯をギリギリと噛む音が聞こえ、その鼻にシワが寄る。
めちゃくちゃ怒るじゃん。
ふと肖像画に目をやると、ぼんやりとその顔が映し出されているところだった。
5秒もすれば、くっきりと描かれた立派な肖像画が浮かび上がる。
これで、白石さんの肖像画は、喜び・哀しみ・怒り・恐怖の肖像画が、すべて揃った。
「……ふぅ。今でも鮮明に思い出せるとは、思った以上に私は執念深いらしいな。――さて、肖像画が揃ったが、すぐにクリアできるのか、それとも何か、ほかにアクションが必要なのか……?」
描かれたばかりの怒りの肖像画を見ながら、静かに白石さんが言った。
白石さんに、変化はない。
「良し。んじゃあ俺は、妻にぶん殴られたときの記憶でも思い出すかな。あんときはマジで振られたかと思ったね」
「え?」
ミシェルさんが間の抜けた声をだした。――と思った次には、もうザンさんは両目から涙を流していた。さすがにダバダバの涙ではなかったが、両目から二筋の涙が流れている。
タンクトップの筋肉に涙。
最初のザンさんから受けた印象だけみれば、明らかに違和感があった。
だけど一緒にこの異界を探索して、今はもうそんなことは思わない。
この人は変人だ。
変人の、良い人だ。
ぼくたちは仲間だ。だから、ドン引きはしない。
せいぜい引くだけだ。
だって思い出すって言って2秒で泣くなんて、もう正気じゃない。
ザンさんをここまで変えた、そのお嫁さんについても知りたくなってくる。
「……あんた、女のひとに殴られるなんて、何したのよ」
ドン引きしているミシェルさんが、ザンさんの“哀しみの肖像画”が描かれたのを見ながら問う。
「俺はなにもしてねえ。帰ったら、泥酔している妻に殴られただけだ。心底安心したね」
「うわぁ……」
気色悪ぅ、みたいな顔をしているミシェルさんと目が合う。
「……私は、最後に残った喜びの表情をどれにするかは決めてあるから、お先にどうぞ」
そう言われ、僕は自分の肖像画が描かれているスペースに向き合う。
レナという子の記憶を失くしたと知って、描かれた哀しみの表情。
偽りのクリア方法を思い出したときか、不可視のモンスターがいると言われたときに描かれた、恐怖の肖像画。
ふざけ倒すザンさんを睨んだら描かれた、怒りの肖像画。
残るは、ミシェルさんと同じ、喜びの肖像画だ。
幸い、僕の人生は愛に溢れていた。
異性からの愛を受けた記憶はないけど、両親から、ばあちゃんから、沢山の喜びを貰っている。
喜びの記憶を思い出すのに、苦労はしないだろう。
さて、何を思い出そうかな。
「目をつむると、思い出しやすいんだってさ」
考えていると、ミシェルさんの助言が聞こえた。
その助言に従い、目をつむって考える。
誕生日の記憶か、クリスマスか、それとも――。
すっと、誰かが近くを動く気配がした。
なんだよ、思い出してるじゃんか。
気が散るのでやめてほしい。
「いまはレナちゃんのこと、覚えてないし、ノーカンにしていいからね」
そんな言葉が聞こえたかと思うと、なんだか甘いような、良い匂いが僕の鼻をふわりとくすぐった。
この香りはなんだろう、そう考えるよりも早く、僕の唇に温かくて柔らかいものが触れた。
いや。
触れたなんて、そんな生易しいもんじゃない。
優しく包み込むように、唇に押し付けられている、この感触――は。
ドッドッドッドッ! 今までに聞いたことがない爆音で、心臓が跳ね上がる。
お腹の底が、きゅんと張り詰めていく。思わず、ぶるりと体が震えた。
目を開けていいものか迷った。だけど、そんな勇気はなかった。
目は瞑ったまま――唇から受ける感触もそのまま、僕は情けなく震える手をゆっくりと前に出してみる。すると、触れた。柔らかい。なんだこれは。
「んっ」
いままで聞いていた声よりも、少しだけ高い声色のミシェルさんの短い声が、耳にとどく。細い手が僕の手を握り、華奢な腰に回らされる。
緊張と、嬉しさと、なんとも言えない興奮で、僕の肺活量はもう限界だった。
あれッ? これ、キスだよなッ? キスって、いつ呼吸すればいいんだッ?
僕はもうパニックだった。
口を開けて呼吸すればいいのかッ? でもそれじゃ、相手の口も一緒に動いて開いてしまう。一緒にパクパクすればいいのかッ? でも、それって正しいのかッ?
考えたのが良くなかった。
心臓の早鐘もあって、本当に、僕の肺活量はもう限界だった。
「ぶはっ!」
そんな無様な声をだして、一歩うしろに下がって、初めて目を開ける。
頭がクラクラする。
思った通り、目の前にはミシェルさんがいた。
金髪で、琥珀色の眼をしたお姉さんで、僕よりも背の低い――そんな彼女の耳は、真っ赤に染まっていた。一瞬だけ目が合うが、やっちまったとばかりに目を逸らされる。
無意識のうち、彼女のぷっくりとした柔らかかった唇に視線がいく。
ゆっくりと自分の唇に手を当てて、その指先を見てみた。
ほとんど薄れてはいたが、彼女の口紅の色が、ほんのりと指先に付く。
やっぱり――。
「あーあ、カゲフミの最後の肖像画、こりゃあ間抜けな面だなあ」
そうだ、この部屋には僕とミシェルさんだけじゃなかったんだ!
そう思わせたのはドキドキする僕の思考をぶっ壊す、にやにや笑いの含んだザンさんの声色だった。
反射的に、僕は右横にある自分の肖像画スペースに目を向けた。
……すると確かに、にへらとだらしなく笑った自分の顔が、A4サイズで飾られていた。
白石さんもザンさんもミシェルさんも、全員が僕の肖像画を見ている。
「み、見ないでください……!」
あまりの羞恥に、僕の声はほとんど声になっていなかった。
肖像画で両手を広げてジャンプして、みんなの視線をブロックしよう! そう考えていた僕にミシェルさんが振り返り、また恥ずかしそうに笑って、その唇をゆっくりと動かす。
「……へへ、良かった。笑ってくれて。これで肖像画が描かれなかったら私、とんだ変態だもんね」
はにかみながら笑う彼女の奥で、その壁に飾られた肖像画が、同じ笑顔で描かれる。
ミシェルさんの喜びの肖像画は、とても可愛くて、エロかった。
「はー青春してんなあ、いいなあ、そう思うだろ、白石さん?」
「うむ。君は少し、黙っていてあげなさい」
「なによ。あなた達だって青春してきたでしょッ? 私たち若者がして、何が悪いのよ! ほうっておいてよ、もう! …………こっち見ないで!」
照れ隠しするように怒るミシェルさんに、ザンさんがお茶らける。
「おーこわ! 別に悪いだなんて言ってないだろぉーう? おーカゲフミ、気を付けろ! 尻に敷くタイプだぞ、ミシェルちゅあん」
「~~~~~っ!」
紅い和傘で、バシバシとミシェルさんがザンさんを叩く。だがザンさんは腕を硬質化したようで、ダメージは一切入っていなさそうだった。ケラケラと笑いながら、その攻撃を甘んじて受けている。
「どうだった?」
「感想を訊くのやめてください白石さん」
大人だと思ったのに。
そう考えていたが、白石さんはふっと笑って首を横に振る。
「キスのことじゃない。肖像画を揃え終えたが、なにか変化を感じるものはあったか?」
尋ねられるが、もうキスの衝撃ですべてが塗り替えられていた。
肖像画を揃える前の感覚といまとで何が違うって、そんなもの、覚えているわけがない。
だってキスだよッ? 思い出そうとしてもキスのことしか思い浮かばないよ!
「…………俺は、何も変化は感じねえな」
ミシェルさんが傘で叩くのをやめ、ザンさんが腕の硬質化を解く。
「私は、私は、その…………えっと、分からないです」
答えられなかった僕とは違い、目を伏せて、それでも健気に、分からないことを分からないとミシェルさんは答えた。
「ふむ、では、もう1度探してみようか。この次に、何をすべきなのかを」
白石さんの提案に、ありがたく乗ることにする。
いまいる部屋は、6畳ほどの小さな部屋だ。
家具はなく、壁紙は赤黒い花柄の模様が貼られている。
その壁に飾られているのは、僕たち4人の喜び・怒り・哀しみ・恐怖の肖像画だ。
調べるなら、その肖像画しか無い。
「……破いてみるか?」
「やめておいた方がいいだろう。わざわざ持ち出し厳禁の文字が書いてあるんだ。この肖像画に害をなせば、おそらくバッドエンドだ。肖像画を完成させたんだ。何か進展があるかもしれん。……今まで成果はほとんどなかったが、もう1度、外してみよう」
A4サイズの肖像画を外すと、そこには日焼け跡のような真っ白い壁紙がくっきりと見えた。
白石さんのスペースには今までに起きた記録が、血文字で箇条書きに書かれている。
……だけど僕のスペースには、何も書かれていない。
真っ白だ。
なにか、ヒントがあればいいのに……。
そう思うけど、やはり何も書かれていない。
「ヒント、なにかありました?」
「いや。変化さえない」
白石さんが答える。ザンさんもミシェルさんも、同じようだった。
「…………玄関は、どうかしら」
ミシェルさんがぽつりと言った。
「廊下に出て確かめてみるか? ……出口ができているかもな」
ザンさんが同調する。
「しかし、何も変化がなかったらどうする? 次の部屋移動は第3フェーズを引き起こす。それは食器棚のグラスが割れていたことを考えれば、死だぞ。我々が動けるのは、廊下に出るまでだ。それ以降は……」
「……でも、ここには何も変化がありません。次に進めって、そういうことなんじゃ?」
そう言うと、鼻に手を当て、白石さんが喋らなくなった。
白石さんが考えているときの仕草だ。
しばらくして、ゆっくりと話しだす。
「……良いだろう。だが、少し、待ってみよう。……もしかしたら、肖像画を揃えたあとに待つことが、クリア発生のトリガーかもしれん」
それから、僕たちは待った。
時計はないし、白石さんの腕時計もこの異界では正常に動かない。
正確な時間こそ分からないが、体感で5分、10分、待ってみる。
白石さんとザンさんは、それぞれ自分の肖像画が飾られている壁に寄りかかって座り、僕とミシェルさんも、自身の肖像画が飾られている壁面に、寄りかかって座っていた。
5分ほど経ったとき、ミシェルさんが移動した。
僕の横に座って、無言のまま、僕の肩に頭をのせてくる。
心臓のドキドキとは裏腹に、僕の頭はネガティブでいっぱいだった。
肖像画を揃えたことが、致命的な失敗だったんじゃないか。
そんな風に、何度も心の中で弱音を吐いた。
だけどそのたび、隣に座るミシェルさんがそっと僕の手を握ってくれた。
それだけで、僕の弱音が吹っ飛んで、消えていく。
しばらくして静かな空間に、白石さんが低い声で言葉を発した。
「…………誰か1人だけが廊下に出て、その結果を伝えられるのなら私が行ったが――あいにく、この異界のルールは団体行動だ。生きるも死ぬも、全員でだな」
「なに。正解に決まってるさ」
ザンさんがニヤリと笑って立ち上がる。
「みんな。後戻りはできない。……この選択をして、後悔しないか?」
「はい」
握られているミシェルさんの手が痛くならないよう注意しながら、その小さな手を強く、握り返す。
「……ええ」
ミシェルさんも強く握り返してくれたが、その手はすぐに離れていった。
立ち上がり、部屋の中心に、4人で集まる。
「それじゃ、最後の戦いだな。おい、覚悟はいいか? 俺は怖ぇえぜ」
発言者のザンさんの言葉に、僕たちは笑った。
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