第5話
落ち着いてきた白石さんが、静かに声を震わせた。
「思い出した……。私は今のいままで、忘れていた。かけがえのない親友だ。この時計も、彼が亡くなったときに貰い受けたものだ……。そうだ、私は、忘れていた……」
続き、ミシェルさんも顔を伏せたまま言う。
「私も、自分には親がいないと思ってた。……でも、そんな事はなかった。女手1つで育ててくれた母を、忘れるだなんて……!」
「俺は妻のことを忘れていたようだ。子供嫌いの俺を、なんとか子供好きに変えようと頑張ってくれてた、それを思い出した。そうだ、そうだった。妻のいる家に、帰りたかったんだ、俺は」
目をのぞき込むと、全員の焦点が合っている。
良かった。
だけど、この差はなんだろう。
どうして僕だけ、レナという少女のことを忘れて、他の3人は思い出しているんだろう。
「……ふぅ……ああ、落ち着いてきた。さあ、まとめようじゃないか」
白石さんの声は、もう震えてなかった。
腕時計をさすりながら、見ていると安堵する優しい眼差しで僕らのことを見つめる。
「私が忘れていたのは、親友。ザン君が忘れていたのは奥さん、ミシェル君は母親の存在を思い出し、カゲフミ君は想い人の存在を忘れている。――私にとっての親友は、かけがえのない人だ。みんなはどうだ?」
「私にとっての母は、人生において指針にしたい人、尊敬する人です」
「俺は単純に……。この世で、最も愛している人だな」
僕は、僕はどうなんだろう。
僕にとって、僕が忘れているそのレナって人は、どんな人だったのだろう。
思い出そうとするが、思い出せない。
失ったことを知ったからか、やり場のない喪失感を憶える。
「みな表現はバラバラだが、おそらく私たちは『もっとも大事な人』の記憶を忘れていた。そう考えて良いだろう」
僕以外の全員が頷く。
となれば、僕はもっとも大事な人の記憶を失っているのか……。
「だけどよ、どうしてカゲフミは記憶を失って、俺ら3人は思い出せたんだろうな」
ザンさんが、背もたれにドザッと体を預けて言う。
「ああ。おそらくそこに、脱出の糸口があるだろう」
僕も感じたその疑問に対して、ゴクリと飲み込む音が聞こえたのは、ミシェルさんからだった。
「……そのことなんだけどさ。今のいままで、私もとくに疑問に思わなかったんだけど」
そんな枕詞を置いて、続ける。
「どうして白石さんとザンさんは、カゲフミ君が来た時に『これで全員か』って言ったの? 5人目が来る可能性だって、あったのに」
ザンさんと白石さんが、ハッとした顔を見合わせる。
「確かに、言った記憶がある」
「4人で全員。それでようやくスタートだっていう、妙な確信があった」
それについては、僕も疑問に思わなかった。
これで全員かと言われたから、そうだと思った。そういうもんかと。
だけど、この異世界が記憶に干渉できるというのなら、この世界に来たとき既に、なんらかの影響を与えていた可能性がある。
記憶を操れるなら、常識や考え方に干渉して、違和感に気づけなくさせることもできる。
……なんなんだよ、この異世界。
頭がおかしくなりそうだ。
その気になれば1日が24時間という常識さえ覆して、別の認識にできるってことだろう?
すべてを疑ってかからなければならないじゃないか。
……無事にこの異界から、脱出できるのか……。
心が折れそうになる。
伏せていた目をあげて、白石さんを見る。そして、ふと気が付いた。
「白石さん。その手のひら、どうしたんですか?」
彼の左手。その手のひらに、一筋の切り傷があった。
そこから、血が流れている。
彼の左手は、真っ赤な血でべっとりだ。
「何って、おいおい。さっき、切っているとこを見ていただろう? それであの血文字を書いたんじゃないか。ドミニク君からの提案だったか」
思わず、狼狽える。言葉を選びながら、僕は尋ねた。
「あの、いいえ。手を切っているところも、文字を書いているところも、見ていません。……それに、ドミニクっていう人の名前、僕は初めて聞きました」
白石さんが目を丸くする。
そのとなりで、ザンさんが頭をかかえた。
「いや待て。ドミニク、知ってるぞ俺は。そんで確かに、やつのナイフで白石さんが手を切って、あの文字を書いたんだ。赤い壁紙に書いた文字はすぐに消えちまったが、白紙の場所ならどうだってな。……記憶を失くしても、ヒントを残せるんじゃないかって、試したんだ! ……そうだ思い出した、やつの肖像画だ。……右の部屋の、黒人男性! あれ、ドミニクじゃねえか!」
もう、何がなんだか分からない。
もしかして、本当に5人目の仲間がいたのか?
都合の良いように、僕たちの記憶が改ざんされている?
となれば、僕たちはいつからここにいる?
「いいえ。ここには私たち4人だったはずよ。じゃなけりゃ、左右で部屋が分かれていることに――左の部屋に、私たちの絵画スペースがあることに説明がつかない。絵画のスペースは東西南北で4人分。スタートは、確かに4人だったはず。私にも、ドミニクという人について記憶はないもの」
ミシェルさんが真顔で言い切る。
「でもよ、俺と白石さんには、ドミニクの記憶があるぞ?」
ザンさんが怯えた目のまま、不思議そうに尋ねた。
「そうね、だから推測してみた。いくつかの仮設を、今から言うわね」
一息おいて、続ける。
「1つ目、肖像画に描かれていて、かつ記憶を戻した私たち3人が人間。肖像画が描かれておらず、記憶を失ったカゲフミ君が、実はここで作られた幻……。もしくは、ここがモンスターありのクリア型で、カゲフミ君は人間に擬態したモンスターという説」
ザンさん、白石さん、ミシェルさんの視線が一斉に僕に向く。
ミシェルさんが、腰に差した和傘の持ち手に右手を添える。白石さんが左手中指に嵌めた指輪に手を置く。ザンさんが立ち上がる。
明らかに、臨戦態勢だった。
「ち、違います。僕はモンスターじゃありません!」
両手をあげて無害アピールするしか、僕にはできなかった。
「だが、それを証明することはできねえだろうよ」
ザンさんが言い放つ。
「ああ、そして、それは我々にも言えることだな。反対に、カゲフミ君のみが人間で、私たち3人がモンスターや幻だという推測もできる。……どちらにしろ、肖像画がある者とない者、記憶が戻る者と失う者で何かしらの線引きがあり、違いがあることは明白だろう」
ってことは、この中の誰か、もしくは3人全員が、敵という可能性もあるってことかよ。
和傘に手を添えたまま、ミシェルさんが続ける。
「2つ目の説を言うわね。……2人の言うドミニクという人物は存在しておらず、白石さんが数時間前に自分で手を切って文字を書いた後、絵画を元の壁に戻していた。その記憶を失った私たちが、それをあたかも初めて見たかのように発見。――つまり、実際にはいきなり4時間経ったのではなく、4時間フルに探索していたという説。ただしこの場合、この異界は、偽の記憶を植え付けることができるという意味をもつ」
「探索していた記憶を消すこと、ドミニクという人物の記憶を与えること、その2つがないと、この説は成立しないですもんね。……だけど、この説が本当かどうか、立証は難しいんじゃ……?」
僕の発言に、ミシェルさんが自慢げな顔をした。
「そうよ。でも、私がいて本当に良かったわ。『無暗に行動するな。おそらく時間が進む。我々は記憶を失っている』この文字を読んだとき、確信をもったの。記憶を失っているなら、きっと私たちは論理的な思惑でもって、そのときに考えられる最善の選択を――つまり、いつだって同じことを繰り返すだろうなって。それを防ぐために私、白紙の壁紙に今つけている口紅を、ほんの少しだけふき取って、付けてきたの」
「……やるなぁ」
ザンさんが思わずといった様子でつぶやく。
「それはどうも! 私のことだから、あの文字を見るたびに思うはずなの。この赤い点は口紅で、ここに来た回数をチェックしているんだなって。――そして、あの文字を発見したとき、私の絵画スペースに口紅の跡はなかった。もしもあの文章を書いたのが数時間前なら、口紅の点は2つ以上あるべきなのに、文字を発見したときの壁紙は白紙だった。つまり、この説はありえないわ」
「……あの文字が本当であると分かった以上、やたらに動きたくはないが……あとで確認しに行くべきだな」
「それで……。まったくアンタは凄いが、説はその2つか? ってなると、この中にモンスターか幻がいるってことは、確実か?」
ザンさんの問いかけに、ミシェルさんは首を横に振る。
「いいえ。私が思いついた説は、全部で3つ。……個人的には、これが1番可能性が高いんじゃないかと思う反面、この説が正しくありませんよう神様に懇願したいんだけど――その前に、確認したいことがあるの。…………あなた達、ローラとジャイルって名前に、聞き覚えはない?」
その問いかけに、首を横に振る。
「ないです」
「ねぇな」
「私もない」
全員の回答を待って、ミシェルさんが僕の方を向く。
「カゲフミ君の記憶のなかに、突然思い出した人物はいない? あ。そういえば思い出した、みたいな」
聞かれて、記憶をまさぐる。
だが、新たに出てきた人物も、レナという少女の記憶も、僕にはない。
「いないです」
その言葉を聞いて、ミシェルさんが大きな息を吐き出した。そして白石さんとザンさんの目を、1度ずつゆっくり覗き込んでから、重く、口を開く。
「3つ目は、ドミニクが存在していた、という説よ。ただしそれは過去形、存在していたという表現になる。……おそらく私は、あなた達が知らないローラとジャイル、今は思い出せないけど追加でもう1人の計4人で、この異界に、来たことがある。……多分、白石さんとザンさんは、そのドミニクっていう人と、この異界に来たことがあるんだと思うわ」
そこまで言って、ミシェルさんの言葉が止まった。言いたくない、そんな顔だ。
「つまり私たちは2回目――下手したらそれ以上、この異世界を彷徨っていると?」
雰囲気を察してか、白石さんがそう尋ねた。
「はあ? いやっ、だが待て」
ザンさんが信じられないとばかりに狼狽える。
その姿を見て、ミシェルさんが何を言いたいのか、言いたくなかったのか、僕にも分かってしまった。
3人にとってこの異界が1度目でないのなら、ザンさんが言った『次の4時になったら俺たちは死ぬ』。
――その言葉がまだ、僕たちがこの回で得られていない真実だとすれば。
「多分、私たち3人はすでに、死んでいる」
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