22 約束
次いで、地面を突き破った蟹の手が、夜達磨をつまみ、やさしく包む。それは瀕死の彼を守る、防御シェルターだった。四方から飛んでくる生クリームの弾丸も、上海蟹の甲羅は打ち抜けない。
「あらあら、お外はこんなことになってたのね」
リーファさんはいつもと変わらない、真昼の草原のような穏やかな笑みを浮かべ、足のすくんだ俺の前にしゃがみ込む。
「だるまくんは私が見てるから、ナユタくんは駆除を頼めるかな?」
「……はい、任せてください」
「強い敵だと思うけれど、勝ったらごほうびあげる。ひとつだけ、なんでもしてあげるわ」
上海蟹のような真っ赤な口紅を香らせて、美しい小指を一本立てる彼女。その行為の全てに見惚れていると、指はゆっくりと目の前に差し出される。
「やくそく、私はナユタくんのこと信じてるわ。だから横浜に呼んだんだもの」
❖
「わあ♡ 人間の細胞破壊、内容がない内緒話、バイト探しの相性占い、秋刀魚のキミには才能がない。寄生虫のナイトサファリ、生存確認該当者なし、巻き込まない、アニソンじゃない、愛想笑いが愛のかたち♡」
歌姫は韻を踏みつつ、姿をなめらかに変えて、ロイドの傘を躱し、秋刀魚の刀を受ける。火花が夜に弾けて、また一歩、俺は刀を突き上げる。ロイドは後退り、遠方から寿司を撃つ。傘が声をあげる。
「HARUモード hey—オマチ。キス、シラウオ、サヨリ、アサリ、ハマグリ、ホタルイカ、シャコでーす!」
季節ものを撃つロイドの傘は、一気に春を纏う。枝の伸びた先端には桜が、胴体にはチューリップやネモフィラが、持ち手からはライラックが垂れていた。
歌姫は生クリームを壁として、寿司を受ける。カンカンっていう金属音が夜空に響く。その後、一歩遅れて撃たれたシャリの弾丸を見て、ロイドと気持ちが完全に通じ合う。秋刀魚を握って、力を抜いて夜を裂く。
「喰刀——秋刀魚寿司」
空間を切り裂いて現れた秋刀魚は、飛んできたシャリに乗る。そのスピードを殺さないまま、生クリームの壁を、その奥の敵を、破りに向かう。心臓がゆらゆらと熱い。理不尽な世界や、あの日ひとり流した涙も、本当は臆病な自分も全部。
「喰い殺して、生きることを、精いっぱい楽しんでやる!!」
秋刀魚が破り、生クリームにあいた大きな穴から、まんまるの月が見える。月光を浴びて、ロイドの寿司は根を伸ばし、やがて花になる。ネモフィラや芝桜が広がり、次いでポピー、アネモネ、ガーベラ、ツツジ。生クリームの水分を吸い上げて、あたりは一気に春。花畑と化す。
その花を毟って、歌姫はついに、らしからぬ声を上げる。かわいい目が血走り、肩を揺らす。
「いいかげんにしろ、てめえら!」
甲高い叫び声に晒された街は、ガラス窓が一気に割れ、地面にヒビが走る。目の前まで迫った俺と、ミナトクロイドも、弾き飛ばされて、老舗のコスチューム専門店に迷い込む。
背中を打たれて、血の味がする。横でミナトクロイドも足をガチャガチャと言わせている。真夜中に並ぶメイド服、チャイナドレス。それを縫うように這い寄る生クリームは、幽霊のように淡い。
血を吐く音で、こちらに気づいた歌姫は、また同じようにラップを披露する。しかし、その手にはマイクではなく、メガホンが異様に眠っていた。
「あ、みーつけた♡ ピンクセーラー、喫煙者の20年間、気分転換で子宮頚がん、B級映画で死ぬ運命だ♡」
先ほどとはなにか違う。暗闇のなかを緊張が泳ぐ、刹那。メガホンからボンボンって音とともに「みーつけた」というゴシック体が生成され、こちらに飛んでくる。
ロイドは傘を使って、闘牛士のようにそれを躱す。自分も危機一髪、地面を泳ぎ抜け出した。しかしまだ彼女の踏んだ韻は残っていて、次の「ピンクセーラー」が明朝体で作られていた。
「ナユタくん、これは一触即発。喰らったら一発KOです。お気をつけて」
「ああ、お互い様だよ。ばかやろう」
そう言い残し、ふたりは夜を駆ける。寿司を撃って、戦場を秋刀魚が泳ぐ。ナース服の並びで踵を返し「ピンクセーラー」を躱し、続く「喫煙者」を受け流す。破壊される店。それでも足は止めない。
静かな夜の大きな戦闘。この世の中は、ちっぽけにいのちを落とす人が多すぎる。「20年間」を撃ち落とすロイド。その隙に「気分転換」を叩き、勢いのまま「子宮頚がん」の上を走る。
「歌姫、うるせえんだよ。カラオケ行け!!」
躱しながら、確実に。距離を詰める。火花が散って、しあわせが鳴る。セーラー服や、厚底ブーツ、ウィッグのコーナーを抜けて「B級映画」も間一髪のところで避ける、ふたり。
あと一歩距離が詰められれば、という局面でロイドは俺に向かって空撃ちをした。あとは任せましたっていう機械音とともに、風圧のまま歌姫の元へ飛ばされる。
空中で回転をし、最後の「死ぬ運命だ」というかわいいフォントも躱して、月光に反射する秋刀魚を強く握った。汗が落ちる。夏が終わる。
「斬刀——秋刀魚の叩き」
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