13 春蟹

 雨が海老の殻に弾けて、飛んでくる。戦闘で傷ついた身体を優しく包み込むような、優しい降り方だった。

『ナユタくんは、私のこと守ってくれる?』

『私たち案外、相性がいいかもしれないわね』

『ナユタくん、待ってたわよ』

 雨音が落ちるたびに、ホンファさんの声が響く。その中を大きなサメと、伊勢海老が取っ組み合う。海老が喰い千切り、サメが斬る。本州に繋がる橋は、とっくに崩れて八景島に閉じ込められた。

 俺は地面の粉塵を握りしめて立ち上がった。もう一度、秋刀魚の刀を手に取って、現実を見る。消えた母親。胞子で爆死した先輩。今回の戦闘で亡くなった数々の命。そして、死ねない自分。

「知ってる。みんな愛されたいだけなんだ」


 流星のように頬を伝う汗を力強く拭ってから、瓦礫の山を駆け出した。腐った世界を、死者の雨が洗う。潮水が月夜に照らされて、伊勢海老が狂う。それらすべてを踏みつけて、斬り進む。

「ごの海老野郎、硬ずぎる。斬れない」

「キュー!!」

 鳴きながら触角を刺す伊勢海老。娘々の心臓は一気に絡め取られる。その中を泳ぎ、明け方を目指していく。秋刀魚も血に濡れて、活きを取り戻す。

 そして最後。伊勢海老が心臓を引き抜いたのと同時に、刀を突き立てた。今度は間違いなく、娘々の首元を捉えている。噴き出る血が、雨に滲む。


「刺刀——秋刀魚の刺身」

「喰海老——四川式喰海老型鞄」

 星が落ちて、香る雨一粒一粒に卵が宿った。そこから産まれるは秋刀魚の稚魚で、娘々のあらゆる傷から侵入し、体内を喰い破っていく。

 内部から抉られる痛みに、娘々は為す術がなく、ただひとつ膝を折って、夜空を見上げていた。見えない星まで想うような、彼女の横顔は。サイコロを振ったあの夜と同じで、どこかさみしい味がする。

 やがて稚魚は体内で大きくなる。成魚になって、娘々の皮膚から幾つもの秋刀魚が生えた形になる。そして、穴の空いた肉体は、伊勢海老に引きずられ、そのままバックパックへと消えていった。

 最後に雨音が落ちる中、あの日の娘々が微笑むような優しい声が、朝日と共に昇ってきた。

「ナユタほんとはね。私も親、いたことないの」


 ❖


 バックパックが閉じて、目を覚ましたシャオリンは、俺を見つけた途端に泣きついてきた。

「サンマくんが倒してくれたんでしょ」

「いや、俺がっていうか」

「ありがとう、サンマくんだいすき」

 別にロリコンじゃないが、小さい子が懐いてくれるのは嫌な気持ちはしなかった。しかし、この絵は外から見れば、子どもと誘拐犯だ。

「やめろ、離れろ!」

「なんでよ、いいじゃん」

「良くねえ! せっかく生き延びたのに、ムショ暮らしなんてごめんだ」

 朝日から逃れるように顔を埋める彼女は、きっと昨夜のことを覚えてないのだろう。背中に背負った海老の怪物も、自分の活躍も。

 ただひとつ。今まで出会った喰い人の中でも、彼女が頭ひとつ抜けて、強いことは確かだった。今回は彼女のおかげで勝てたと言って間違いない。だから、ささやかながらお返しをしようと思った。

「なあ、シャオリン」

「なあに」

「ご飯食べに行こう。なにが食べたい?」

 壊れたメリーゴーランドの前で、やったって跳ねる彼女は、すこし考えてから楽しそうに答えた。

「やっぱりフカヒレスープでしょ!」

「え?」

「わたしね、フカヒレが大好きなの。それでこの横浜班を希望したくらいなんだから」

 いや、強すぎる。これが春蟹のシャオリンかって改めて笑みが溢れた。いつの間にか止んだ雨。空が中国茶で水っぽく濡れて、そこを一匹のサンマが跳ねていた。


 ❖


「ホンファちゃんは、フカヒレとサンマが闘ったら、どっちが勝つと思う?」

 あの日、リーファさんはホンファにこんな質問を投げかけていた。ホンファは夕陽に目を凝らしながら考える。

「普通に考えれば、サメとサンマなら。サメが勝つような気がします」

「そうよね」

 リーファさんはおっとりしたペースで、月餅を頬張る。ゆっくり噛んで、次はジャスミン茶を啜る。

「でも私はね、なゆたくんが勝つと思うの」

「それはなぜですか」

「いまじゃサンマは高級魚だけど、昔は庶民の味方として食卓に並ぶものだったの。それが2000年に入ってから変化した。地球温暖化の影響で取れなくなったの」

 リーファさんは新聞記事を指さして、丁寧に教えてくれる。

「そこから50年間ほど、密漁する中国との間でサンマ戦争が勃発して。人々はサンマのために闘いあった。つまり、元々高級食材のフカヒレより、逃したサンマが大きいって、そう思うの」

 なるほどって息を多く吐くホンファは、少し考えてから、新聞記事をじっと見て言う。

「彼が強いのであれば、私は安心して闘えます」

 彼女の背負う陶器のティーポットが、死んでも闘い抜くっていう意志を乗せて、カランと音を立てていた。

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