12 海老
お金のことを切り出したとき、カエデくんは初めて怒った。オレンジ色のカクテルを揺らしながら彼は、夜の底にヒビをいれるような、冷たい声で言う。
「一緒にNo. 1目指そうって、あれは嘘だったの?」
「そういうわけじゃ」
「いや、そういうことじゃないの。簡単に諦めて。君の愛は、そんなもんだったってことでしょ」
片想いだってことは知ってた。カエデくんはホストで、私は育て上げられた太客だってことも、わかって通ってた。それでも、男に捨てられた夜は胸が痛む。
それからは、立ちんぼをしてた公園で路頭に迷った。身体を売って、青春を捧げて、手元に残ったのは売掛で作った借金。それを返すために、喰い屋の門を叩いたのだった。
「つくづく私は、男を見る目がなかった。それでもナユタくん。あなたは私の出会った中で唯一、いい男だったわ」
❖
剣先で恋が潰れて、中国茶の香りが鼻先をくすぐる。娘々は芽で絡めとり、ホンファとワンチェンを身代わりにしたのだった。今回もふたりを守れない結果で終わった。
「そんな……」
自分の感情が涙に変わる前に、懐に蹴りを入れられる。自分の身体は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。割れたコンクリートが酷く刺さる。
再生するために水を探したが、近くにない。どうやら娘々は、水のない方向へ計算して蹴ったようだ。
「もう、諦めなざい。あんだにば、わだじを倒すごとはできない。ごの子は、いだだくわね」
娘々は見せつけるように、ホンファさんとワンチェンを食べる。肥大化する身体は、やがてビルほどの大きさとなり、ズドンって音を立てて近づいてくる。
トドメを刺すという強い殺気。動かない足。それでも精一杯に這って、いちばん近くにある水溜まりを目指した。娘々がたどり着くのが早いか、自分が再生するのが早いか。生死をかけた、かけっこが始まった。
途中、瓦礫の影に泣いている少女を見つけた。一般人だろう。逃げ損ねたか将又、親が食べられてしまったか。大きい声をあげて少女は、子どもらしく泣いた。
「わーん! だれかたすけて!!」
その声が鼓膜を揺らしたとき、大きな足が水たまりを踏みつぶした。かけっこは負け。目の前で命綱が斬られたとき、人はただ死という奈落に落ちてゆくだけで。なにもできない。
「やめて!! サンマくんに触らないで!」
少女は走り出して、俺の前に立った。小さい身体、震える足、彼女は精いっぱいの勇気で両手を広げて。そのまま気絶をしてしまった。
「あばば! 最後に面白いものを見ぜでもらっだ。小ざい女の子に助げでもらうなんて、情げない」
娘々の大きなヒレは月明かりで密かに光る。それがビュっと振り下ろされ、世界を一刀両断するとき。少女のバックパックが開くのを、俺は見逃さなかった。
❖
「
新聞記事を机に広げたまま、夕陽を見つめるリーファさんに向けて、ホンファは真剣な眼差し向ける。
「いいわよ、なんでもきいて」
「喰い人の強さは、食べ物の魅力に一存してしまうのでしょうか」
「と、いうと?」
「つまり、レバーは伊勢海老に一生勝つことができないのでしょうか」
リーファさんがふわっと揺れて、斜陽に照らされた一室に、小さな埃が舞っているのが見える。いい質問ねって言いたげな表情で彼女は、ホンファの方を向いた。
「あるわよ、自分より強いタベモノに勝つ方法」
曰く、それは「制限」を設けることだと言う。食べ物の力を借りるのに、何かしら発動する制限をつける。例えば「朝の3時から9時まで」といった時間制限、「屋内内だけ」といった場所制限、中には「メイド服を着る」なんてユニークな制限もあると話してくれた。
「ちなみに、横浜で
「そうなんですか」
「そう、彼女には気絶をするという発動条件をつけてる。無論、私がつけたから、彼女は知らないけれどね」
リーファさんは優しく笑いながら、続ける。
「でも珍しいね、ホンファちゃんが自分から戦闘の質問をしてくるなんて。どうしちゃったの」
冷やかすような目線の先には、世界を睨むようにホンファが立っている。お茶の香りを舞わせて、彼女は言い放つ。
「命をかけて、守りたい人ができたんです」
❖
「雨茶——
ふと、夜空に浮かぶ月が雲に隠れて、中国茶の雨が降ってきた。それは、ホンファさんが残した置き手紙のような「制限」のかかった技だった。
発動条件は、ホンファ自身が死ぬこと。彼女は自分の死と引き換えに、秋刀魚の心臓に中国茶を流し込む罠を仕掛けたのだ。
「なんで雨が降る! 天気予報を見でがら、誘っだのに。ゾラジローぶち殺ずぞ!!」
情緒が揺れる娘々のヒレは、少女と俺を切り裂く前に、バックパックから溢れた海老の尻尾に阻まれた。真っ赤な殻を纏うそれを前に、ヒレは簡単に折れてしまう。
中国茶の雨を受けて、意識なく立つ少女。彼女こそがひとり残った四季蟹——
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