10 昆虫

 海水にひとつ浮くナユタの心臓を捉えるのは、サメでもなく、娘々でもなく、一匹の昆虫だった。それは、ライチの実に翅を備えたカナブン型の虫で、真ん中にぎょろっとした目が光る。その虫は、足で心臓を絡め取り、大きな羽音を立てて宙を舞った。

「虫、ギモい!!!」

 奇声をあげて、錯乱する娘々。振り回したヒレは、壁や天井に突き刺さり、建物が崩れる。落ちる2階、瓦礫と海水をすり抜けて。ライチ虫は、秋蟹――明玉ミンユーの元へと帰っていった。

「サンマのシンゾウ。入手シマシタ」

「ありがと、1号」

 嬉しそうに主人あるじの周りを飛ぶライチ。その羽音はひとつではなく、仲間が他に6匹ほど舞っていた。どれも違った目の表情で、1号を讃える。

「1号、やったね!!」

「しゅごい、しゅごいー」

「は、そんなにすげえのかあ?」

 パーティのように盛り上がるその場を、ちょっと黙ってというミンユーの声が切り裂く。後ろに並ぶ喰い人たちの背筋が凍り、ライチも大人しくなる。

「虫のしらせを頼りに来てみれば。あんた、横浜班が全員恐れるフカヒレ、なんでしょ」

「ぞうだよ」

「ウケる、どれだけ強いのか知らないけど。ここ、あーしの縄張りなんだわ。容赦しないから」

 ブラウン系のカラコン、尖ったネイル、厚底スニーカー。ミンユーを形作る全てが、威圧的に空気を飲み込む。

「あんたら。こんなキモいサメ、やっちまいな」


 ❖


麗花リーファさん、なんでナユタを横浜に引き抜いたんですか」

 事務所で月餅を食べるリーファさんに聞くのは、彼を連れてきた本人、ホンファだった。

「紅花ちゃん、この世にはいっぱいの食べものが存在してね。その種類につき一匹、突然変異するの。そして、その強さを決めるのは、その食べものがどれだけ人を魅了してきたかによる」

「と、言いますと」

「うーん、たとえば。中華料理で言えば、レバニラのレバーとかは、好き嫌いが分かれるから弱そうよね。逆に小鈴シャオリンちゃんの伊勢海老とかは、高級食材だから強いでしょう」

 常に感情を一定に説明するリーファさんは、にこやかに笑って話を進める。

「ここ、横浜班がいちばん恐れてるのは、フカヒレの存在なの。私がここに来る前に一度、横浜班を全滅させてから、姿を消してる」

「そんなに強いんですか」

「強いわ。でも、それとおんなじくらい。なゆたくんも強いはずよ」

 そう断言するリーファさんは、振り返って窓から街を見下ろす。夕陽を浴びた机の上には、多くの新聞記事が広がっていて。それらには、大きい見出しでこう書かれている。

『サンマ不漁 中国密漁船が原因か』

『政府、遂に中国船打払令を認める』

『日本vs中国 サンマ戦争勃発』


 ❖


 目を覚ますと、そこはアザラシの水槽の中だった。自分の身体は今回も嘘みたいに、治っている。俺はガラスを破って戦場に出た。

「ナユタくん、待ってたわよ」

「ホンファさん?」

「フカヒレ相手によく耐えたわね。見ればわかる通り。いまここには、全横浜班が招集されて、総攻撃を行ってる」

 自慢のティーポットバズーカを構えるホンファさんは、どうやら自分のいる水槽を守ってくれていたらしい。知らぬ間にひと回り、ふた回りと大きくなった娘々フカヒレの足元には、シャチなどの海洋生物、そして喰い人の死体が転がっている。

 ホンファさんは笑ってから、泣きそうな背中を見せた。震える手で、フカヒレに遠距離射撃を放つ。

「伝えておくと、ナユタくん。いまの間に、君の心臓を拾ってくれた明玉ミンユー含め、秋蟹部隊は全滅してる」

「秋蟹部隊が、全滅……?」

「そう、残るは3部隊とナユタくんだけ。今度こそ、私のこと守ってよ。あの時の借り、返してもらうんだから」

 恥ずかしそうに顔を赤らめて、秋刀魚の刀を差し出すホンファさん。任せとけって返してから俺は、それを受け取った。ふたり、一気に畳み掛ける。


「泳刀——秋刀魚の開き」

「砲茶——プーアール」

 開かれた時空から秋刀魚が泳ぎ出て、俺を乗せてゆく。影と死体の山を縫って、バケモノと化した娘々の元へ。振り下ろされるヒレを、ホンファさんの紅茶弾が撃ち抜き、その隙に太ももを斬りつける。

「ごんながずり傷、なんともないわ!!!」

「そうかな」

 自分を乗せた秋刀魚は、そのまま右足を噛みちぎった。噴き出る血は、煮えたぎる感情の熱で、蒸発して消える。血の湯気で眩んだ視界。そこをフカヒレの刃が光り、切り裂く。反射的に刀で受け身を取るが、間に合わなかった。

 自分の身体は、弾き飛ばされて、メリーゴーランドに刺さる。一回五百円と書かれた青春の看板が歪んで「勝てない」と悟った。見ると地面には、ライチ虫が八日目の蝉のように転がっている。

 俺は弱かった。ひとりで生きてきたから、千葉で少し活躍してたから、強いと勘違いしてたけど。本当は弱かった。身体が痛くて、胸が苦しくて、涙が出た。それはつーと頬を伝い、口に入ると潮の味がする。


「なにしてるの、ナユタくん!」

 元気に満ち溢れたその声が、爆薬の匂いと一緒に飛んでくる。涙で歪んだ目を擦ると、小籠包を持った女の子がひとり立っている。冬蟹——万姫ワンチェンだった。

「ホンファちゃんを、守ってあげて! クールなあの子が、あんなに必死になるのはね。ナユタくん。あなたに恋してるからなんだよ」

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