9 鮫肌
青に統一された館内に、血溜まりが広がる。心臓を刺したヒレ。彼女は、歪に姿を変えていく。シャンと音を立てて、身体中からヒレの刃が生えては、輪郭が変形する。そしてやがて、彼女——娘々はサメになった。
「わだじ、言っだよね? あおざかな好きなの。なぜなら、おいじーからって!!」
醜く大きくなる上半身と、変わらず細いまま伸びる脚。咽せ返るような生臭い匂いと、素敵なシナモン香水の匂い。そんなバランスの悪い全てを見ても、彼女のことは嫌いになれず。秋刀魚を抜いた鞘から、さみしさが漏れた。
「俺だって、にゃんにゃんのことが好きだよ。かわいいから」
「ごんな、わだじが、がわいい?」
「ああ、かわいい」
娘々の腹を蹴り、飛び退りざまの一斬り。かわいいけれど、敵は敵で。刀は、いつか一緒に買ったTシャツを引き千切り、プリントされた「GUESS」という字に、血を滲ませた。
刃で武装された身体で、一直線に跳ね飛んでくる彼女。身構えるのと同時に、びゅんっとヒレが振り抜かれ、水槽のガラスを粉々に斬り砕いた。海水と一緒に、水槽のサメが、世界に放たれる。
一方、攻撃を咄嗟に躱した俺の頬には、ガラスの破片が掠めたのか、血が流れていて。ひと粒の涙と混ざった。
「あなだはバカねえ。わだじが、あなだのごとを本当に好きだと思ったの? わだじサメなのに? 脳なんでないわよ」
潮水が飛沫をあげる中、彼女の目は、未練などなく目の前の獲物を捉えている。
「きみが、俺を好きだったか。それは」
「ぞれは?」
「ずっと、わからなかった」
娘々の気持ちなんて。あの日のサイコロゲームを何万回と繰り返しても、わからないのだろう。理解できずに、酔って、夜が終わるだけだ。
それでも俺は、彼女がいればひとりじゃないと思った。借金があっても、親がいなくても。娘々がいたら、何気ない瞬間が楽しくて、幸せだった。
降り注ぐ斬撃の雨を刀で受けながら、思い出すのは。そんな、なんでもない帰り道。ふたりで寄った薬局のコスメコーナーでのことだった。
「わたしはね、コスメは香辛料で揃えてるの」
「香辛料?」
「そう、すごいんだよ。これが豆板醤レッド、これが五香粉イエロー、でこれが——」
きらきらした顔でアイシャドウの色を説明する彼女。聞いているとどうやら、横浜ではコスメにも食品が再利用されているらしい。
「で。ナユタはどの色がいい?」
目の前に広げられるラメの光るパレット。ババ抜きのような緊張感の中、自分はピンクっぽいものを選んで引き抜いた。
「これがいい、かな」
「これ? これはね、花椒ピンクだって」
それを、買い物かごに迷いなく入れた彼女は、結構センスいいじゃんって笑って。また、コスメの棚に目を移してた。それからも、味覇ファンデーション、辣油ティント、シナモン香水と買って、店をあとにした。
「いっぱい買っちゃった」
「そうだね」
「使うの楽しみ!」
薬局前の交差点。信号機の光が、彼女の衝動的に火照った顔を照らして。かわいい夜が落ちた。
あの時の面影が、まだ消えない空気を切り裂いて。金切り音が水族館に響く。外に打ち上げられたホオジロザメを踏み潰して、彼女は襲い来る。
「サンマがサメに勝てるわげないでじょ??」
「そら、やってみないとわからない」
斬って、斬られて。そのたびに海水で再生し合って、そうやってふたり傷つけあう。世界一派手な痴話喧嘩。血が飛んで、命がぶつかって。俺はやっとこのとき、娘々と真正面から向き合えた。
「娘々、たのしいな」
「奇遇ね。わだじも、だのじい!!」
加速する接近戦。花椒アイシャドウの残り香と同時に、ブウンっとヒレが飛んでくる。それをするりと受け流してから一回転し、遠心力そのまま水平斬りを仕掛ける。彼女もヒレでそれを受ける。
ヒレと秋刀魚。ぶつかり合って散った火花が、足元の海水にジュっと消える。刹那の静寂の中、勝負は互角。その軌道は、お互いに胸を刺して、ふたりはもう一度、抱き合い、刺し合う形となる。
「娘々、好きだよ」
「わだじは、ぎらい! あんだなんか」
ヒレが内臓を抉る。それでも彼女を抱きしめて離さなかった。桜が散らなくても、卒業証書を貰わなくても、涙の別れがなくても、彼女がいれば、それは春だった。
「なでてよ、また」
「なに言っでるの?? ギモい」
「あの夜みたいに」
筋肉の硬直が解けて、涙が一滴落ちる。それを見た彼女は、その手をゆっくりと伸ばして、俺の頭に置いた。ざらりとした鮫肌が髪越しに伝い、彼女はそれを握りつぶした。
粉々に吹き飛んだ脳みそで、僅かに感じたのは温もりだった。身体が彼女の腕をすり抜けて、ぽしゃっと海水に落ちる。そして、その身体さえも、水槽から逃げ出したサメが食べていく。
すべてが喰われたら、再生は不可能。それでも好きな子に殺されるなら本望だって、出会ったあの日を思い出して、楽しくなった。
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