8 胸元
となりのカウンター席で、ゴマ団子ヘアがいたずらに揺れていた。それは中華街地下に眠る飲み屋での、素敵な夜の出来事で。カクテルを傾ける彼女にキスをされた。
「え」
「ちゅ、しちゃった」
「なんで」
はじめて会う彼女は、へらへら笑う。どっかに置いてきたような輪郭が揺れる。忘れていた。こんな風に女の子をじっと見るのも、心の奥が痛むのも。
「ねえ、ゲームしようよ」
「ゲーム?」
「そう、かんたんだよ。お店から借りた、このサイコロを振って出た目が大きい方が勝ち。それで負けたら——」
麻雀牌のネイルが光る彼女の手が、頬に伸びてきて触れる。シナモン香水の匂いに捕らわれて一瞬、目が合う。
「お酒をひと口飲んで、自分のことを相手にひとつ教えるの。どう、楽しそうじゃない?」
結局、俺はその誘いに乗った。理由は単純で、彼女のことが知りたかったから。どんな女の子で、何が好きなのか。そして美しすぎる横顔で、いまなにを考えているのか。
茶碗の中でサイコロが響いて、彼女のことを知るたびに、自分のことも知られて、視界が溺れた。彼女は
「そんな。それじゃ、ナユタには親がいないの?」
「うん」
「どうやって生きてきたの」
「それは、なんとなくだよ。キムチって猫がいて、そいつと一緒に、物置で過ごしてた」
泣きそうな目を丸くした彼女は、おいでって両手を開いてくれた。果実のように甘く香る胸元に、飛び込む。さみしかったねって手のひらで撫でてくれて。夜とゲームが終わった。
それからも娘々とは、何度も会った。由比ヶ浜に連れて行ってもらったり、駅前でハンバーガーを食べたり。ときにはゲームセンターでリズムに合わせて太鼓を叩き合ったりもした。
「ナユタ、おまたせ。ごめん、待ったよね」
「ううん、ぜんぜん」
そして今日は、八景島にある水族館に、サメを見に行く。移動の電車で、彼女が跳ねるたびに、八角のイヤリングが楽しそうに揺れていた。
「最近、わたしさ」
「うん」
「ゲーム実況動画見てて。いま見てるパピルスキャットってホラゲーがめっちゃ怖いの」
ドーナツでできた吊り革に捕まりながら、なんともない会話ができるしあわせ。彼女といる時だけは、子どもに戻れる確かな一瞬があって。それが、青春なんだと曖昧に思った。水彩画のように淡い笑顔を見せて、彼女は言う。
「でも、わたしにはナユタがいるから。パピルスキャットが来ても、倒してくれるよね」
八景島の入り口に着くと、そこには止まった馬が群れていた。それはメリーゴーランドで、彼女は目を丸くして駆け寄っていく。
「すごい! これ、乗れんの?」
「どうだろう」
明らかに錆びれた機械仕掛け。塗装の剥げたしっぽ。それでも、コイン投入口はあって。上には、一回五百円って薄くなった字で書いてある。
「乗ってみよっか」
「ほんと? 動かなかったら損するよ」
「それはそれで、思い出になるさ」
小銭を入れてふたり、馬に跨がる。静かな時間が辺りに漂った後。豆電球が一斉に灯って、光の森が広がった。豪華で安っぽい音楽が鳴る。煌めく落ち葉を踏んで、馬がゆく。
「すごい、動いた!」
「動いたね」
彼女の楽しそうな横顔を見て、回り出したのは地球より青い感情で。もっとわかりやすく言えば、好きだった。俺はこのとき、恋に落ちた。
「思ったよりはやい!」
「そうだね」
「やば、たのしー」
馬に乗って、ふたり。同じスピードで進む。腐ったような世界で、この馬が描く円の内側だけが、どうしようもなくきれいで。こんな時間が続けばいいと思った。
その後、水族館を回っても。頭の中を流れるのは、メリーゴーランドの音楽だった。ベルの音を背景に彼女は、サバの群れる水槽を眺めている。
「サバ、すきなの?」
「うん、だって美味しいじゃん」
「おいしい?」
「うん、わたし。結構、青魚すきだよ。サバとか、アジとか。あとは……サンマとか」
振り返って、食べちゃいたいって笑う彼女。今日はまだ飲んでないはずなのに、出会ったあの日とおんなじ顔をしていた。
「それって、告白?」
「さあ、どうでしょう」
彼女はくるりと回って、先を泳いでゆく。掴みどころのないその笑みは、暗い館内をゆっくりと漂っていて。なんだかクラゲみたいだった。
「にゃんにゃん、待って」
「ふふ」
「待ってよ」
「捕まえてごらん」
いつの間にか鬼ごっこが始まった。逃げる彼女と、追いかける自分。熱帯魚のアマゾン、フラミンゴ、カワウソの群れを抜けて。ふたりがたどり着いたのは、サメの水槽だった。
「はやいって、にゃんにゃん」
「そう?」
目の前には大きな水槽が立ちはだかる。濃い青のなかを、いろんな種類のサメが泳ぐ。ついに追い詰められた彼女は、負けを認めたのか。あの夜と同じように、ナユタおいでって両手を開いた。
そこに飛び込んだ、刹那。腹部に違和感を感じた。血が垂れて、初恋が散る。やさしく包み込むはずだった彼女の胸からは、鮫の胸ビレが鋭利突き出ていて、それが自分の身体を貫いて離さなかった。
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