5 群生
暗い物置に突如現れた彼女も、よく見れば喰い屋の制服を着ていた。ネイビーブルーのジャケットとパンツに、耳元には茶葉のピアスが光っている。そして何より、背中に背負った大きなティーポットが、異彩を放っていた。
「あの、ホンファさん」
「なに」
「自分、横浜に行きます」
「そう? 決断がはやくて助かるわ」
彼女がにへらっとはにかむ度に、お茶の香りが辺りに広がる。それはあまりにも優しい匂いで、今まで女子とまともに話したことない自分には、あまりにも刺激的だった。
「ただ、ひとつ。おねがいがあって……」
「なあに」
「そこの物影に隠れてる猫を、一緒に連れていきたいんです。キムチって言います」
キムチは警戒をしながら、にゃって段ボールから顔を覗かせた。改めて見ても、毛並みも悪いし、眼光もするどいし、かわいくない猫。そんなキムチに彼女はゆっくり近づいて、手を伸ばした。
「あら、ねこちゃん。いたのね」
「にゃ」
「もちろん、いいわよ。わたし、ねこ好きだから。上には話を通しておくわ」
「にゃー」
そうして俺とキムチは急遽、幼少期から生まれ育った街を抜け出して、横浜に行くことが決まった。そして意外にも最後に思うのは、雪を投げてきた女の子のことで。彼女は真っ当な恋をして、幸せになってたらいいなって、ステッカーが貼られた電信柱に祈った。
その日のうちに荷物を揃えて、夕方にはホンファさんの車で横浜に向かった。キムチも最初は暴れていたが、いまは後ろの座席ですやすやと眠っている。
「ホンファさんは、お茶がお好きなんですか」
「ええ、すきね」
彼女は運転をしながら、耳だけを傾けて話す。
「私は、中国茶の中毒覚醒を行っているの。あのティーポットに入るだけのお茶が、私の武器よ」
「お茶でどう戦うんですか」
「それは、ひみつ」
いつの間にか、緊張もほぐれて。ふたりの間で紡がれる些細な会話が、車内に籠っていく。休日はなにをするの。好きな食べ物は。どうしてこんな仕事を。もう少しでディズニーランドが見えるよ。
見た目によらず、ホンファさんはよく喋る人だった。そんな彼女を助手席で見てると、死んだ先輩を思い出す。先輩も戦闘以外では、こんな風によく話す女の子だったなと。
「ナユタくん、聞いてる?」
「あ、すみません」
「私はね、この仕事をしてて思うの。全員を守れるヒーローは存在しないって。だから、大切な人だけを必死に守るの。それは、依怙贔屓でもあって。同時に誰かの悪になること」
さっきまでとは変わって、真剣な眼差しで話す彼女。きっと自分と同じように、過去の戦闘で傷を負っているのだろう。
「ナユタくんは、私のこと守ってくれる?」
彼女は、冗談混じりに笑う。茶葉の香りがやさしく包み込んで、離さない。窓の外にある大観覧車を見ながら俺は、守りますってカッコつけた。
それからしばらく車を飛ばしていると、都内で急に渋滞に捕まった。さっきまで流れていたのに、ひとつも動かない。それはどこか異質な感じで、事故かもね、なんて話し合った。
「もう夜になるわね」
「そうっすね」
「麗花さんに遅れるって連絡しないと」
そんな話をしながら、彼女が踏み続けたブレーキを離して、ほんの少しアクセルを踏んだときだった。自分の首輪、彼女のアンクレットから、アラートが響いた。「首都高速湾岸線にて、メロンパンの発芽を観測。東京都大田区班、また近くにいる喰い人は、直ちに駆除に取り掛かること。繰り返します——」
急ブレーキを踏んで、ホンファさんの顔つきが変わる。キムチが鳴いて、辺りの夜が晴れた頃。目の前に、都会の景色には似つかない、笠がメロンパンでできたキノコが群生していた。
ほら降りて、戦うよってホンファさんは後ろの席から自慢のティーポットを取り出した。自分も秋刀魚を手に取り、構える。
目の前でまた新しいメロンパン茸が生え、それに触れた人や、車が一瞬でサイコロ状に斬り刻まれた。足元に正方形の肉片が飛んでくる。
「いま、なにが起きたんすか」
「わからない。ただ、メロンパンに触れたら大変なことになるってことね」
瞬く間に車が炎上して、辺りのガソリンに引火する。火の海が揺れる。たったいま親を亡くした子どもたちの、流した涙すら蒸発して消える。
皆が立ちすくむ中、ひとつ。こちらにゆっくりと向かってくる影があった。見た目は小さな女の子。ライム色の髪の毛に、メロンパンのベレー帽が乗っている。深緑のワンピースをふりふりさせて、歩く彼女。顔や腕に深く刻まれた格子状の傷口だけが、その恨みを痛々しく表現していた。
「ぴえーん、えーん! にんげんにやられたあ。ひどい。にんげんもやられればいいんだ。えーん!」
メロンパンが泣くたびに、あたりに強風が吹く。それに舞って、飛んできたザラメのひと粒が、足元で発芽する。ボンって生えて、下から捲るメロンパン茸。触れたら、終わる。なにもかも。
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