横浜中華街編

4 栄町

 産声をあげて、自分が生まれたのは、今日みたいな暖かい春の日だった。表通りでは、コートを脱いだ男女が並んで歩いているが。この裏路地は、季節など関係ない。夏でも冬でも、男女は裸で抱き合う風俗街。それが、栄町だった。

「なあ、キムチ」

「にゃん」

「お前はなんでこんな町に来たんだ」

 呑気に伸びをする猫を抱き上げて、膝の上に乗せる。静かな温もりが広がるのに対して、上の階からは猫みたいな嬢の声が響く。

「もっといい所に行けば、いい飯が食えたんだぞ。ちゅーるも食い放題だ」

「にゃー」

 ここはイメージクラブの地下で、キムチと俺だけの秘密基地だった。物心がついた頃にはもう、親はいなくって、この物置で生きていた。

 自分が「生まれてきてしまった子ども」だと知ったのは、もう少し成長した後のことで。黒い背広を着たオーナーから、母が風俗嬢だったことを教わった。

「夜の世界では身籠ることなんて、日常茶飯事よ。オレは雇った嬢が、子どもを堕ろすところを何度も見た。その中で、ナユタ。お前だけは生まれてきた。そこには何か、理由があるとは思わんかね」

「母さんは、どこにいるんですか」

「それはオレにもわからん。ただひとつ言えるのは、今のお前には親はいないってことだ」

 それからは、ひとりで生きていくって決めた。お腹が空いたら、奥に置いてあるコスプレ衣装を着て、外を出歩いた。メイド服とか、チャイナドレスとか、ブルマとか、どれも布面積が少なくて寒かったのを覚えている。


 そんな風に過ごしてたある日、雪が降った。ジングルベルの鳴る夜空。嬢はみんなサンタクロースとか、トナカイの格好で「クリスマスなのに、来てくれたんだ」なんて、客に媚と身体を売る。

 自分は、クローゼットに残ってたチアリーダーの衣装を着ていた。短いスカートで寒波を切って、銀世界のなかを飛び出したのを覚えている。雪だるまを作ってから、暇になって「人妻」って書いてある看板に向かって雪玉を投げてた。こんな楽しいことないって思った。


 しかし、ひとりでいると楽しいことも飽きてくる。自分も小学校に行って、みんなと遊べたらなって、悴んだ手が赤く腫れていた。

「りっちゃん。ほらっ」

「あはは、ママつめたい!」

「りっちゃん、ゆきたのしいね」

「うん!」

 遠くの方で雪合戦をする声が聞こえてくる。俺は声のする方に誘われていった。もしかしたら一緒に遊べるかもしれない。雪の魔法を信じたかった。そして、見つけた親子の元に駆けていって、大きな声で叫んだ。

「おれも仲間にいれて!」


 雪が舞うなか、まだ小学生にも満たないほどの女の子が、指をさして笑った。

「ママ、へんな子!」

「そうね」

「なんで男なのに、スカートなの?」

 女児は自分のむき出しの素足に雪を投げた。温かい親子から投げられた雪玉は、思ったよりも冷たくて、痛くて。生まれてはじめて涙が出た。

「あんた知ってるわよ。レイって風俗嬢に捨てられた子どもでしょ。噂では聞いてたけど、ほんとに生きてたのね」

「母さんのこと、知ってるの」

「知らないわよ。レイってのも偽名でしょ。気持ち悪いから、あっち行きなさいよ」

 子どもに加えて、母も雪を投げてくる。それを躱して、手元の雪を握る。そして自分も思い切り投げた。夢の雪合戦。こんな風に投げ合ってくれる母がいる女の子のことが、羨ましかった。


 変わらない物置でひとり。寒かった冬を思い出した俺は、キムチを再び抱き上げて、猫にも伝わるようにゆっくりと言った。

「母さん、どこにいるんだろうな」

「にゃ?」

「タベモノ狩りでお金が貯まったら、ふたりでこの街を出よう。母さんに会いに行くんだ。そしたらきっと、自分もやさしくしてもらえると思う」

 聞いているのか、いないのか、キムチは風邪の引いたダミ声で鳴く。すると。ふと、物置のとびらが開いた。オーナーがなにか取りに来たのかと見ると、そこにはスーツを着たお姉さんが立っていた。

 見ない顔だったが、メイクの薄さを見れば、彼女が嬢じゃないことはすぐにわかった。お姉さんはゆっくりと近づく。嬢じゃないなら誰か。いつも来る警察の制服ではないし、市役所の職員でもなさそうだ。もしかして。

「もしかして、母さん?」

「いいえ。残念ながら私は、貴方の母さんではないわ。私は横浜市食物対策駆除課——紅花ホンファと言うの。よろしくね」

「ほんふぁ?」

「そう、紅花。横浜班課長、麗花リーファから、千葉の戦闘でひとり生き残ったナユタという男を連れてくるように言われてる。あなたがナユタくんであってるかしら」

 あっけに取られたまま、首を縦に振っていた。そんな俺に、彼女は美しい顔を近づけて、やっと見つけたって笑い、続ける。

「いまから横浜についてきてくれる? きっと、ここよりいい暮らしをさせてあげる。約束するわ」

 宝石のような目で、目線をひとつも外さない彼女は、美しい蛇のようで。どうせ食べられて死ぬなら、こんな女性に食べられたいって思った。

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