3 蛇口

 静まりかえったリビングに、にんじんが一匹立っている。千葉班は全滅してしまったらしい。こんなことはよくあることだ。今までも何度も人は入れ替わった。その流れで、先輩もいなくなった。

 耳をすませば、すこしだけ。細かな雑音が聞こえてくる。ぴしゃぴしゃっていう水滴の落ちる音。その音を乗せた水流は、自分の心臓までたどり着く。

「所詮は人間だな! それにしても、腹を抉られた奴の顔を見るのは気持ちいいなあ。喰い屋も事情があって、好きで戦ってるんじゃないんだろうな。かわいそう、きゃー!」

 にんじんは、得意の独り言を吐きながら。落ちてる人を食べていく。基本的にタベモノは、食べることで強化される。肥大化する肉塊の、楽しいディナータイムが始まる。

「こいつは女だ! 半分にしなきゃ。上半身は食えたもんじゃない。下半身は美味!」

 そう言って解体する姿は、まるで人間がエビの頭を取る作業みたいで、恐ろしかった。気づけば、にんじんの身体は2倍に膨らんでいる。きっと、いつかこの街なんて軽々しく潰せる大きさになる。


「きゃー、メインデッシュだ。やった!」

 そう叫んで、にんじんはキッチンの死人山まで向かってくる。一歩、動くたびにドンっていう衝撃が響く。マンションが悲鳴をあげる。世界が軋む音がする。

 そんな音が何度か揺れて、キッチンにたどり着いたとき、違う音が弾けた。それは、ぱしゃっていう子どもが水たまりに飛び込んだときと同じ音。この時を待っていたのだ。シンクから溢れた蛇口の水を、にんじんが踏む、この時を。


「斬刀——秋刀魚の叩き」

 水たまりでは、無数の秋刀魚が跳ね、死体の山が吹き飛ぶ。にんじんの、大きく見開いた目に、一匹の秋刀魚が飛び込む。血の噴水が上がる。その一瞬を見逃さず、足に力を入れて駆け出す。伸びてくる芽を何度も躱して、さっき落とした秋刀魚を拾って、また立ち向かう。

「お前は、サンマニンゲン!? なんで生きてるの。キモい、やっぱお前キモすぎる、きゃー!」

「さあな、俺もなんで生きてんのか。わかんねえんだ」

 味方も、先輩もいない、ひとりぼっちの世界で。なんで生きているのか。なんでいつも生き残るのか。そんなの、簡単にわかってたまるか。


 壊れた蛇口からいのちの水が噴き出して、床は瞬く間に浸水する。その中を、秋刀魚の群れが泳いでいく。夜に跳ねた秋刀魚は、にんじんに飛び込んでは、皮膚を喰い破って、内臓を啜る。

「これは、罠だ。お前が女を使って、このキッチンの奥まで誘い込んだように。俺も、お前を不利な状況に追い込んだ。これが本当の、誘い水ってやつだ」

 闇に叫ぶのは、にんじんの奇形。数箇所、喰い破られてもなお、迫ってくる。その影は正義を背負ってるようにも見えるし、食欲に駆られているだけのようにも見える。

 にんじんは泣きながら、狂い、襲い掛かる。眉間に飛んできた芽を斬り落として、最期。潰れた目をもう一度、深く刺す。殺す。生命の鳴き声が轟いた後、今にも消えそうな月だけが、足元を照らす。水道水で薄まった血の海を、秋刀魚の群れが回遊する。ドンって大きな音を立てて肉塊が倒れて、いのちが抜けていく様を、俺はずっと見ていた。

 秋刀魚の群れに喰い殺される中。にんじんは最後に、まるで人間みたいな優しい声で笑った。

「ぼくも、ぼくも。ほんとは、おなかがすいただけなんだ。きゃ」


 一匹の秋刀魚が、今回もひとり生き残っちまったなあって跳ねた。明日からまた千葉班には、新しい社員が募集される。そんな風に、喰い屋の社会はできている。最前線で戦うのはみんな、俺みたいに借金に苦しむ人や、前科のある人ばっかりで、捨て駒なのだ。

「これで、50万もらったぜ」

 消化されていくにんじんの身体から「にんじんの種」を抉り取った。厳密に言うと、これが50万の価値がある。手元で心臓のようにどくどく動く種が、金メダルみたいで愛おしかった。

「金ねえけど。これで、キムチにエサ買って帰ろ」

 荒れた部屋にも、朝日は平等に差し込む。たくさんの人間と、にんじんの死体。その中から、冷蔵庫で眠る女の上半身だけを抱えて、その部屋をあとにした。いまだ蛇口から噴き出す水に、日光が反射してきれいだった。


 ❖


 後日、避難所に指定された小学校に足を運んだ。あの夜会った彼に、事情を説明しようと思ったのだ。自分以外は、全員死んでしまった、つまり彼女も亡くなったということを。しっかり伝えようと思った。

 避難所では、喰い人の証明書を見せると、別の教室に通された。チョークの粉が溜まった黒板下。画用紙を張り付けた手作りの時間割。がたがた揺れる椅子に、机に掘られた相合傘。自分の経験していない青春に想いを巡らせていると、やけにうるさくドアが開いた。

「てめえか、サンマ野郎!」

 入ってきた彼は、真っ先に俺の胸ぐらを掴む。眉間のしわを見れば、この人がどれだけ俺を憎んで、恨んで、怒っているかがわかる。

「人を守らずに、自分だけ生き延びやがって。許さねえからな」

 その後は、なんども殴られた。にんじんとの戦闘で傷ついた身体に沁みる蹴りを、ただ受けることしかできなかった。小学校の先生が言ってた、他人にしたことは返ってくるってこういうことかと、ひとりで納得して。点滅する蛍光灯に向けて、笑った。

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