2 鮮魚

 後ろを振り返ると、それはいた。足の生えた橙色の肉塊。ぎょろっとした眼球がふたつに、口もふたつ。そして何より、多くの芽が伸びている。俺はいつの間にか、そんなにんじんの奇形に、キッチンの奥まで追い込まれてしまった。

「きゃろきゃろー!」

「でたな」

 にんじんが、女の下半身を見せびらかしながら笑うたびに、辺りに畑の匂いが広がる。

「女ってのは、下半身が美味いよなってお前は知らないか! 食べたことないもんな。かわいそうに。女の味を知らないんだなあ」

 にんじんは、ひとつの口で女を食べながら、もうひとつの口で食レポをする。太ももをしゃぶりながら、ぷりぷりで身が詰まってますねって。

「よくしゃべる野菜だな」

「それに比べて上半身はマズい、マズすぎる! だからいらなーい。君にあげるよ。食べてみろよ、吐くぜえ。きゃー!」

「いらねえよ。喰うのはにんじん、お前だけで十分だ」

 秋刀魚を抜いて、構える。にんじんがケラケラと嗤って。食べないの、じゃあ殺しちゃうけどって芽を伸ばす。心臓に真っ直ぐ向かってくるそれを俺は、秋刀魚で斬った。足元に落ちた芽は、大きな芋虫みたく、うねうねと動く。

「いたーい、なにすんだよ! クソ人間が。お前もこの女みたいに、きゃろっと殺してやる」

 キッチンの暗闇に芽が這い寄る。それを一本残らず斬っていく。肉を斬り落とす音が、ガスコンロに反響し、やがてビル群へと消えていく。血飛沫が舞う。棚の錠剤が落ちて、広がる。

 何本も伸びる新芽を見て、埒があかねえって力強く汗を拭う。秋刀魚を握る手を少しだけ緩めて、また一気に間合いを詰める。斬っても、斬っても立ちはだかる芽。それらを抉って、前に進む。

「なにお前、キモい! こっちくんな!!」

 にんじんの声に応えるように、ぎゃーって鳴く手元の秋刀魚は、血を浴びて嬉しそうに跳ねている。その足はまた一歩と近づいていく。


 やがてその刃が、にんじんの身体に触れた、瞬間。秋刀魚の刃は、弾かれてしまった。火花が散って、体勢が崩れたところを、にんじんは詰めてくる。そこを素早く、刀で受け身を取り、後退しつつ躱わす。左右から刺してくる芽を、斬り落として、空いた胴体に蹴りを入れる。

 お互いに間合いを取って、息を吐く。腐ってこぼれる目は、暗闇でも不気味に光る。ささやかな音を立てて、壊れた蛇口からカルキ臭が漏れる。

「サンマニンゲン、キモい。キモすぎる!」

「キモいのは、お互いさまだろ。馬鹿野郎」

 割れた窓からは、夜空が覗く。下には工場地帯が広がって、その奥には海があるって聞いてる。たったひとつ。工場の火に負けない強さで瞬く星が、流れ落ちたのを合図に、俺は地面を蹴った。にんじんは吠える。


「斬刀——秋刀魚の叩き」


 さっき女を噛み砕いた歯と、自身の刃が交差したとき。あたりには埃が舞う。遠くで夜が泣く。いのちが生きたいって叫んでいる。

 暗闇を先に切り裂き、相手に触れたのは、にんじんが僅かに先だった。大きな口から、手が出てきて、それが自分の腹を貫いた。臓器を捕まれて、刀の落ちる音が、かなしくキッチンに響く。


「喰い屋はひとりでは生きていけないよ。タベモノ狩りは複数人で挑んでも、普通に全滅させられるんだから」

 いつか先輩に言われたことが頭で駆け巡る。先輩は、集団でひとりだった俺を、唯一気にかけてくれた優しい人だった。

「ねえ、私がなんで。こんなにしつこく君に忠告するかわかる?」

「いいえ、わかりません」

「はあ、それはね。君が好きだからだよ。ナユタくん。私は君と少しでも生きて、一緒にいたいの」

 そう言った先輩のまん丸とした瞳が、忘れられない。街の中華料理店で唐揚げ定食を食べていたときの、永遠で些細なできごとだった。

「先輩、いまなんて」

「だから、好きだって言ってるの」

 それから先輩とは、いろんなことをした。一緒にカフェでパンケーキを食べた。恐竜の出てくる映画を見た。チョコレート味がするキスをして、その夜は一緒に寝た。どのシーンを切り取っても、戦ってないときの先輩は、普通の女の子でドキドキした。


 それでも、先輩は死んだ。あの告白から、2ヶ月も経たないうちの悲劇——ブナシメジとの戦闘でのことだった。ブナシメジの胞子爆弾を喰らって、巻き上がる砂埃のなか。目を開けると、先輩は世界から消えた。目の前の、ひとりぶんの血溜まり。

「ありがとう、楽しかった」

 そんな先輩の声が、聞こえたような気がして。俺はまたひとりになった。お金がなくて、好きな子も守れない。散々な世界だと思った。


 リビングには、穴の空いた死体が転がる。薄まった意識のなか、にんじんがケラケラと嗤っているのが見える。どうやら、他の千葉班も到着したらしく。目の前では、激しい戦闘が行われている。

「なんだお前ら、弱いなあ! 殺しがいがない」

 殺された人間はキッチンの方に投げられる。ひとり、またひとりと自分のうえに死人の層ができる。その層を血が浸透して、濾過されて、傷ついた身体に流れ込む。秋刀魚の身体は水分で活きが戻る、つまり再生する。そうやってひとり、生き延びた。今も、先輩が死んだあの時も。

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