ナユタの食べ物
秋冬遥夏
千葉中央区編
1 発芽
なめらかな幸せが輪郭を撫でていくような、そんな夜だった。あと数分したら、彼は仕事から帰ってきて、私は夕飯の下準備をしている。
スーツを脱ぐ彼を想像して、キャベツを切る私。たったそれだけの暮らしのひとときが、同棲をはじめてからは、新鮮で大切なものに思えた。
冷凍の豚バラ肉を解凍している間に、にんじんの皮剥きをする。ピーラーを隙間のないように、するするって滑らせていく。そんな中、玄関で物音がした。彼が帰ってきたのだ。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
「今日もお仕事つかれた?」
「ああ、つかれたよ」
毎日と変わらないやりとり。それが今日も続いていることが、私にとって素敵なことだった。
「今日はね、
「あー、うん」
「なあに、その目」
「たえちゃん、ぎゅーしてほしい」
彼は強面の見た目によらず、たまにこうして甘えてくる。そんな私しか知らない一面を、ひとりじめできることが嬉しかった。
「まったく。ぎゅーしたら、お風呂行ってよ」
ふたりの熱がまだ冷めない廊下を残して、彼はお風呂場に、私はキッチンに戻った。お風呂場の軽いドアが閉まる音が響く。
それを合図に、彼が出てくる前に作り終えようって包丁を構えた。まな板の上には、鮮やかなにんじん。皮を剥ききったそれを、短冊切りにしたときだった。血が滲み出た。
私の血じゃない。それは、にんじんの血。見ると裏には、うねうねと芽が伸びていた。どろっとした赤がまな板に溜まるのを見て私は思った。このにんじんは、生きてるって。
❖
首輪のアラートが鳴り響いて、俺はひとり。夜に目を覚ます。「千葉市中央区のアパートにて、にんじんの発芽を観測。千葉班は直ちに駆除に取り掛かること。繰り返します——」
ベッドから飛び起きて、喰い屋の制服に腕を通す。ネクタイを締めて、タンスに入った白いカモメの通帳を手に取る。お金がない。これじゃ、いつまでも借金の返済ができない。
今日の敵はにんじんと言ったか。こいつを殺れば、ざっと50万くらいは入る。これだからタベモノ狩りはやめられねえって、俺は傘立てから
「おい、キムチ」
「にゃー」
「ちゅーる食いてえだろ。いまからその分の金、稼いでくるから。いい子に待ってろ」
2本の秋刀魚を背負った俺は、野良猫に背を向けて、勢いよく部屋を飛び出した。今日も死なない、生きて帰る。
現場には、裸の男が落ちていた。タワーマンションへ謝るように、道端で泣き崩れている。
「たえちゃん……ごめん」
「どうした、お前」
俺の声を聞いた男は、何かを思い出したように顔を上げて、
「ああ」
「助けてください。まだ彼女が残っているんです。704号室です。おねがいします。まだ残ってるんです」
現場の被害者は決まって同じようなことを言う。おねがいします、助けてくださいってそればかりだ。
「言われなくても、するさ。それが仕事だ」
吐息が夜に溶けていく。背中の秋刀魚を鞘から抜いて、慎重に構えた。敵は、704号室。一瞬で切り刻んで、料理してやる。手元の秋刀魚はゆっくりと、そして確実に、暗闇にメスを入れた。
「
ぱくっと開いた空間から、いっぴきの巨大な秋刀魚が出てくる。そいつに飛び乗って俺は、夜を泳いでいった。水で薄めた絵の具のように、空が水っぽくなる。
街灯をくるくると回り、電線に絡まって。大きな秋刀魚は久しぶりの出番に嬉しそうに鳴いた。
「このマンションの7階まで泳げるか」
「ぎゃー!」
「そうか、ありがとう」
秋刀魚は一気に駆け上る。夜飛沫を上げながら、するすると空気を塗っていく。月光を浴びて、雲は楽しそうに笑っている。50万する高級にんじん、絶対に収穫してやる。
そのリビングは静かだった。自分の窓ガラスの割った音だけが、不気味に響く。この部屋のどこかに発芽したタベモノがいるとは思えなかった。
キッチンに近づくと、ぽたぽたっていう音が靴に触れてきた。一定の間隔で、酸っぱい匂いがする。しかし、蛇口はしっかり閉まっている。じゃあなんの音だろうって見渡した、刹那。ぬるっとした感触が、足裏を貫くのだった。
見ると、足元は赤黒い液体で染まっている。辺りには、肉片が落ちていた。なにかの臓器かもしれない。そこでようやく、俺は音の正体に気づいた。
冷蔵庫だ。冷蔵庫のドアから、血が垂れている。ぽたぽたって赤い血が落ちていくのは、ASMRみたいで、ずっと見ていられた。やがて、そのドアはゆっくりと開いて、汚れが流れ出る。秋刀魚を構える。
気になる中身は、豆腐が一丁、納豆のパック、棚に調味料とお茶が雑多に刺さっていて、チルドにはベーコンやソーセージなどの加工肉が眠っている。そして不気味なのは、血の池に浮かぶキャベツと、女の上半身。血に溺れた黒髪を見て、確実に香るそれは、罠だった。
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