ひとりめ

つるりとした、自分の手を見る。


労働の痕跡の無い、白く若々しい手だ。


体のどこにも痛みも無く、吐く息は白いのに寒さも感じない。


先ほどまで脳髄に渦巻いていた息子の苦悶、妻の怨嗟。

そしてこの私を不幸へと追い込んだ世の中への暗く煮えたぎる恨みも、全てが遠くまるで他人事のように感じる。


「寒い、寒い・・・」


枯れ木が立てる風の音のような、微かな声。


「お若いの、わたしに火を、暖を恵んでおくれ・・・」


ボロ布と思っていたそれが老人だと分かった時、激しい悪臭を知覚した。

おもわず呻きながら距離を取るように退がる。


「助けて、助けて・・・」


憐れみよりも、強い糞尿の臭気に激しい嫌悪を感じる。


冷えの苦しさは、よくわかる。

山でテントから足を出したまま寝てしまってとんでもないことになった。

痛み、しびれ。そして、たとえようもない冷たさ。

骨が氷となったようだった。

何度も転び、妻の肩を借りながら車に入り、暖房を全開にしたが、体や表面が温まるにつれより一層辛く痛気持ち悪さが募ってゆく。


妻は、「ああ、冷え性もそんな感じかな。男はならないっていうから得したね」


などと笑っていた。

鬼嫁か、と罵ったが、その後モーテルで温めてくれた。


あのときの温みと、妻の「こんなに冷たくなって、かわいそうに」という言葉は今も昨日のことのように思い出せる。



・・・しかし、もはや汚物と言っても相当であろうこの老人を、抱いて温める?

拷問か。


いや、このケガレを纒った人間に対する強力な差別感情を駆逐するには、家族愛というより強力な差別感情をもってすれば敵うのでは?


そう、この老人は生まれ変わった妻、ナオミだ。


前世におき最も愛しかった二人目の妻。

死んだ時、この世の全てを呪い、焼かれた骨まで愛しすぎて思わず素手で握ってしまいあまりの熱さに放り出し、謝りながら箸でつまんでツボに入れ、墓に入れずに自分の死の床に置きっぱにしてしまったくらい大切な人間。


「おおお、寒い、辛い・・・」


・・・すまん、無理だ。

温めてくれた時、私はそんな汚くなかっただろう?

続々と湧いてくる言い訳で頭も感情も埋め尽くされ手も足も出ない。

心もまるで動かない。


こう、手を払うだけで汚れだけ奇麗に消える奇跡など行使できないものか。


相手を自分と同じ人間と思っていればしないであろう行為、ゴミや埃を払うように老人に向けた手をヒラヒラと払う。


「んんん???」


黒い老人は消え、目の前には白い老人が倒れていた。


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