ありふれた怪談のような

山本貫太

お祓いとかしたほうがいいのでしょうか?


私の住むマンションには精神異常者がいた。あらゆる掲示物を剥がし、エレベーター内の簡易トイレを盗み、インターホンを破壊して回り、粗大ごみをズルズルと自室まで運んで行く。端的に言えば、この上なく迷惑な男であった。


とはいえ、冷たい街東京は隣室すら交流がないのが常だ。男は407号室に住んでおり、私は907号室。到底、顔見知りになどなれるはずもない。


私がその男と会ったのは一度きり。エレベーター内での出来事である。


その日は遅くまで仕事をし、半ば朦朧としながらエレベーターに乗り込んだ。閉まっていく扉の隙間から人影が見えたので、私は「◀▶」の開けるボタンを押した。このときほど染み付いたビジネスマナーを後悔したことはない。


男は自分より遥かに大きな、粗大ごみの薄汚れたベッドを引きずりながら、ゆっくりと、すり足でエレベーターに入ってきた。


「すみませんねぇ」


ずいぶんと柔らかい口調。男の背は小さく、170センチすらない私でも頭頂部が見えた。


「何階ですか?」

「四階で、お願いします」


ああ、コイツがヤツなんだなと確信した。不思議と清潔感のある服装に神経質そうな薄いフレームのメガネを掛けていて、けれども、そんな男が薄汚れたキングサイズのベッドを抱きかかえているのは明らかに異様だった。


鼻からも口からも呼吸をしたくない数十秒を味わっていると四階についた。ガリガリと音を立てながらエレベーターが開く。私は「◀▶」のボタンを再び長押しした。


「どうも、ありがとう」

「いえ」


やはり、柔らかく、丁寧な口調で、うっかり好感を抱きそうになるほどだった。



男はしばらくすると強制入院の措置を受けた。なぜ私がここまで知っているかといえば、このマンションの管理人がプライバシーのプの字もない老人だったからである。


「いやー、こう言っちゃなんですけどね、良かったですよ。なんかどんどん精神おかしくしちゃったみたいでね、私も困ってて。貼っても貼っても掲示物、剥がされちゃうでしょ?」


私は愛想笑いをしながら「たしかに、これで安泰ですね」と返した。


管理人は宿敵がいなくなったからか、精力的に掲示物を貼り始めるようになった。点検日など誰もが見なくてはならない物から、手書きの「バルコニーでの喫煙禁止」という警告、果ては趣味なのか折り紙まで貼り出したのだから、よほど剥がされる日々は辛かったことだろう。


そんな管理人が亡くなった。いつからか、老人ではなく中年が管理人となっていたので「前の方は?」と聞いたところ、そう聞かされた。あれだけピンピンとおしゃべりな人が亡くなるだなんて人の運命はわからない、とその時は思っていた。


けれども、そうではなかったのだ。おかしいのは407号室の住人ではなかった。


管理人の亡くなる数週間前、私は彼が掲示物を貼っている姿を見た。一枚の紙を貼っては剥がし、貼っては剥がす。少し腕を組んだかと思うと一番高いところに貼られている掲示物に手を剥がしクシャクシャに丸め、ポケットにしまい込む。


「こんばんは」


私の挨拶は耳に入らなかったようで、管理人はまた別の掲示物を剥がそうと爪を立て、カリカリカリと音を鳴らしていた。いや、カリカリカリなんて生易しい音ではなかった。ガリガリと爪を剥がそうとしているような、閉じ込められた人間の最後の抵抗のような、そういった類の音だった。



管理人が変わった頃だったと思う。私はいつも通りエレベーターに乗り込み、スマホで大して面白くもないショート動画を見ていた。

ガタン、と下手なブレーキでもかけるみたいにエレベーターが止まったかと思うと扉が開き出した。ガリガリガリと音を立てながら。私は誰かが乗ってくるのだろうと思い、顔を上げた。

誰もいなかった。しん、とした廊下が真新しい蛍光灯の光で照らされているだけ。私は再びスマホに視線を戻し「▶◀」の閉まるボタンを押した。ガリガリガリと音を立てて、扉が閉まり始める。

けれども、扉は閉まらなかった。人が挟まったときのために、扉についている金属部分がカシャンと音を立て、再び扉が開いたのだ。誰かが居たのか、と思い顔を上げる。やはり、誰もいない。


けれども、私は確かに「誰か」が乗ってきたのだと感じた。靴底から僅かな振動が伝わってくる。人が乗り込んできたときの、あの揺れだった。憑かれたとしたら、たぶん、この日だったのだろう。

エレベーターが止まった階は四階だった。




それから、数日置きに全く同じ夢を見るようになった。同じ悪夢、といったほうがいいかもしれない。


私は姿見の前に立っている。姿見はベランダを背に置いているため、鏡ではその反対である部屋の扉までが写り込む。私の部屋は廊下と真っ直ぐ一本に繋がっているため、鏡一つで部屋全体が把握できてしまう。

扉がゆっくりと開かれる。そのことに鏡越しに気がついた。顔に白い布袋を被った、長身の、スーツ姿の男がゆっくりと近づいてくる。男の手にはロープが握られていた。振り返ってはいけない。私はそう直観した。男はゆっくりと私に近づいてくる。

私はここが自分の部屋ではないことに、そのとき始めて気づいた。私のベッドだと思っていたものは、かつて、四階の男が運んでいた薄汚れたキングベッド。そして、私がベランダのカーテンだと思っていたものは無数の掲示物と折り紙だった。


夢としてはこれだけだ。けれども、この夢を見るたびに、男と私の距離は縮まっている。


あと数回で男は私のすぐ後ろまでやって来るはずだ。そして、私の首を締め上げるだろう。

こんな、大して練られてもいない怪談のような出来事が自分の身に降りかかるとは思ってもみなかったし、思いたくもない。多少神経質な性格が、勝手にこういう悪夢を見させているのだと。そう思いたいが、そうではないと私の本能のようなものが告げている。


今日、扉の取手がガチャガチャと動いた。早足で扉に近づき、覗き窓を覗く。


誰もいなかった。


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