第2話 びしょ濡れ少女、家へと招き入れる
「・・・入れ、て」
ずぶ濡れの服に髪、不知火夜霧は顔を俯かせたままそういった。雨音で小さな声はかき消されそうではあったが確かにそう聴こえた。
訳がわからない。入れたくねえ、というかどうして俺の家知ってんの?どんな要件であるのかは知らないが考える限りどれも面倒くさそうだ。勘弁してほしいが、先の失言の件もあるし、勝手に彼女の事情に突っ込んで荒らしたというのもある。なにより、寒さに震えただでさえ白い肌が血色が悪くなっており見てられなかった。
「どうぞ」
そう言うほかなかった。
「バスタオル持ってくるから、とりあえず待っててくれない」
急いでバスタオルを持って行ってその途中で思ったのだが、濡れた服はどうしよう。いくら水気を取ってもこのまま家に上がれば濡れることは免れない。だからといって服貸すから脱げとも言えない。
「ありがとう」
たどたどしくそんな言葉が返ってきた。大分拭き終わったようでバスタオルを畳んで渡され、互いに固まること数秒。彼女からのアクションはなく、当然といえば当然で仲の良いわけではない俺に何か自分から要求するのは相当ハードルが高い。不知火夜霧という少女は俺の知る限り、厚かましさとは真反対の人間だ。つまるところ、俺から言わないといけないらしい。
「良ければ服貸そうか。ぶかぶかだと思うけど」
Tシャツとコート、下はジャージを渡した。
「その、ごめんなさい。ありがとうございます」
「着替え終わったら、部屋に入ってくれて構わないから」
「はい」
安さだけが売りの賃貸マンションなだけあって部屋は狭い。一人で暮らすための最低限必要な広さしか確保されていない。普段なら問題はないのだが、これから不知火が入ってくるには手狭だった。畳っぱなしの布団を退かし、今までで物置きの肥やしにしていた椅子を取り出す。まさか使うことになるとは思いもよらなかった。
10分後、ノックと共に不知火夜霧は先ほどと変わらない様子で訪れた。分かってはいたが案の定、服はぶかぶかだった。不知火が入り数秒、動かず固まっている。
「・・・椅子、座っていいよ」
随分とたどたどしい会話である。
「え、あ、あの、隣はだめ?」
「・・・はい?」
驚愕で固まること数秒。言葉を理解するのに時間を要した。頭の中が混乱して何と伝えればいいのか思い付かない。無音の時間が経つにつれて不知火の表情が曇っていく。
「えっと、なんで?」
「え、なんで、───」
語気が強かったのかもしれない。不知火の表情がさらに曇っていき、困った表情をしている。
「あー、どうしてなのかと、理由を聞きたくて」
「理由は・・・隣の方がきっと嬉しいから」
は?声に出せば不知火が今にも泣き出しそうになるだろうから心の中で呟いた。それは、俺がという意味だろうか?いや、確かに不知火夜霧という少女は傍目から見て可愛いと思う。だからといっても、他人にそこまで迫られても困惑しか生まれない。
「・・・それは、俺が、という意味?」
恐る恐る聞いた。
「うん?私がです」
今日、俺は何度驚愕しなければいけないのだろう。
「隣って隣だよね?横に座るってことだよね?」
自分でも何言ってんだろと思ったが、今の俺は混乱で何か思い違いをしているのではないかと思い確認した。不知火は静かに首肯した。
「別にいいけど」
何故嬉しいのかは甚だ疑問だが、先の件が理由なのは間違いないのだから俺からすれば都合の悪い内容だろう。もしかしたら土下座でもさせられるのかもしれない。どのみちここで揉めても仕方ない。さっさと帰ってもらうためにも了承した。
不知火が椅子を持ち上げ、隣に座る。
「失礼します」
やはり不知火夜霧がいう隣と俺の思っていた隣とは乖離していた。そう、思っていた以上に近い、近すぎる。少し揺れれば肩が触れ合ってしまうスペース、脚も閉じなければならない。
あまりに気まず過ぎて、言葉が出ない。
無言の空間が続く。流し目で不知火の様子を見たところ、こちらもまた気まずそうだった。でもなんていうか、さっきまでの暗い表情からほんの少しだけ明るいというか、なんか嬉しそうだった。
まだ無言の空間は続いている。いつまで続くんだ。それから3分ほどが経過した。忘れていたがどっちもぼっちだった。不知火がどれだけの研鑽を積んでいたか知りもしないが、気まずいだけで耐えられる範疇である。
このまま不知火が話し出すのを待つのもいいが、俺として早く帰ってもらいたい。せめて話しやすい雰囲気でも作れるように、疑問を口にすることにした。
「そういえば、何で俺の家分かったの?」
学校で知っているとしたら担任くらいだが、あの無気力な教師がわざわざ名簿を引っ張り出して教えるなんてしなさそうだ。
「私の家、隣のアパートだから」
それで知っていたのか。俺は全然知らなかった。でも良かった。これならいつでも家に帰せる。
「そうなんだ。知らなかったよ」
テンポもラリーも悪い会話だった。
「お茶でも出そうか?」
「ううん、大丈夫」
「そっか」
そこで会話は途切れ、また無音の空間が出来上がる。とはいえ、進捗はあった。不知火が何か言いたそうにしていた。まだ表情は暗いままだが、彼女は頑張って何か伝えようとしていた。あとは忍耐強く待てばいいのだろう。
何分経ったのかは分からない。その間、俺は天井を見上げてぼーっと考え込んでいた。らしくないことをしている自分、その理由をなんとか導き出そうと。
「あ、あの」
やっとの思いで不知火夜霧が重い口を開き出す。
「その、さっきはありがとうございます」
一体どのことを言っているのかわからないが、もし最初のアレならお礼を言われる筋合いなんてない。
ふぅー、と何度も深呼吸を繰り返す音が響いた。ゆっくりと不知火が言葉を紡いでいく。
「私、お父さんが亡くなっちゃって、大変で、たい、へんで・・・」
不知火は今にも泣きだしそうな声で震えていた。泣き出しそうなのを必死に我慢して伝えようと、いや、伝えたいんだと思う。気づけば俺の手を上から被さるように握っていた。
「・・・ママはもうずっと前から、友達も居ないし、先生も助けてくれなくて。誰も私のことを思ってくれる人が居なくて」
どこかで似たような話を俺は知っていた。
ああ、だからか。だから、俺は、彼女に──。
「つらくて、さびしかったの」
目尻に溜まっていた涙が溢れていて、「え?」不知火の素っ頓狂な声が響く。
「うん?ああっ、ごめん」
生暖かい液体の感触が親指から離れない。
「あ、ありがとう」
そう言った不知火の表情は明るかった。学校では見たことのない本当に嬉しそうな笑み。不知火は可愛い方だと思う。でも、この時だけは普段の何倍も可愛くて、つい目を奪われてしまった。
一旦涙を拭きあげると不知火はなにやら固まっていた。でも、言葉に詰まっているというわけではない。何かに気づいた様子だった。
「え!えっ、ごめん」
無意識に握っていた手と、この明らかにおかしい距離感に気づいたようだ。
二人で椅子をズラし、一般的な距離感に戻す。不知火の頬は赤く染め恥ずかしそうにしていた。
「イヤ、じゃなかった?」
そんな風に問われて、嫌だったと言える人間はいないだろう。
「嫌ではないけど、驚いた」
言っていて恥ずかしくなってきた。さっきまでの冷え切った空気が、嘘のように生暖かい。なんだかそれがおかしくて二人して噴き出してしまった。そんな空気に水を差すようにチャイムが鳴った。
「悪い、行ってくる」
ただの宅配物だった。
「あ、今更だと思うんだけど御両親の方は?」
「・・・一人暮らしだから、気にしなくていいよ」
不知火はそれを聞き、途切れていた話を再会する。
「辛くて、寂しくて、誰も私のこと必要としてしてないって思って」
きっと父親以外の人との交流がなかったのだろう。そんな少女が父親を亡くし、孤独を感じた先で何を求めるかなど想像に容易い。
「初めから、分かってたの。田中さんの優しさが本物じゃなくて、偽物で不純な動機なのも。それでも誰かに見てほしかった、私を求めてほしかった」
孤独は辛い。人は常にだれかを求めていて、求められたいと思っている。
「だから、湊くんが私の手を掴んでくれたの嬉しかった」
少女はまた涙を流していた。でもそれは悲しそうなんかじゃなくて、きっと涙を拭く必要なんてないのだろう。
「私を見てくれる人いたんだって。本当に私のことを想ってくれてるのは湊くんだけだった」
あの時、俺は不知火を想ってなんかいなかった。俺も田中と同じ不純な動機で不知火を助けた。それが気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がない。
「ほんとうにありがとう」
「そっか。良かったよ」
不知火と居るのは心地良かった。
人はキライだ。
でも、俺も誰かを求めていて、求められたいと思っている。
だけど、それはきっと叶わない。
だってそうだろ。愛は一方通行では成立しない。どれだけ求めようと、求められなければ意味はない。
「服、近いうち返すね」
あのずぶ濡れの服が当然乾く訳もなく、不知火は俺の服を着ているままだ。
「ねえ───、え、ええとやっぱりなんでもないです」
何か言いたそうにしてもぞもぞしてたが、話はそこで終わった。
「じゃあな」
家は隣のアパートだという。すぐそこなので夜道とはいえ送ってやる必要もないだろう。元々そんな仲でもないしな。
不知火とは玄関で別れた。背中を見送ることもせず、扉を閉め施錠する。
「そういえば、雨止んでたな」
本当におかしな一日だった。変な事態を目撃したり、いきなり家にクラスメイトが押し掛けてきたり、いつもの日常とはかけ離れている。それよりも今日の俺はおかしかった。普段ではしないことを何度もやった。
明日は普段通り生きよう。
不知火夜霧とは、もうこれ以上関わらない。
だって、そうだろ。俺たちは恋人でなければ友人でもなく他人で、今日のことはただのきまぐれなのだから。
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