「……」


 赤崎慶あかざきけいは今日も画面に文字を打ち続けていた。会社を退職してからというもの、彼は息子夫婦の暮らす家で、日がな一日中、部屋に籠って小説を書き続けていた。


 職業として小説家に返り咲いたわけでも、趣味として誰かに読ませるわけでもない。にもかかわらず何かに取りつかれたように文章を書き続けるのは、傍から見れば異様な光景だった。


 それでも赤崎は書いた。書き続けていた。



 妻の彩音あやねが病で亡くなったのは、今から五年ほど前だった。五十代前半という早すぎる死だった。


 彩音は、入院生活となった晩年でも、赤崎に小説を書くよう求め、彼も彼女に読ませるため仕事の合間に書き続けた。


「今回のはどうだ。人生を余すところなく込めた名作だろう。もう文句はあるまい」


「……そうねぇ。確かにすごく面白いし、感動的なのだけれど」


「けれど?」


「なにか、なにかが足りない気がするのよねぇ……」


「……お前、最近そればっかりじゃないか。何かってなんだ。感想になってないぞ」


「うるさいわね。読書は読者が主人公なの。どんな感想でも、書き手は甘んじて受け止めなさい」


「でも、なにが足りないか分からないと改善のしようがないだろ」


「それを探すのが、創作ってものでしょう?」


「もっともらしいことを……」


「ふふふ」


「……なんだよ」


「別に、幸せだなぁと思って」


「なんだそれ」


「なんでもない。大丈夫、あなたならもっと書けるはずだよ」


 そういってベッドの上で笑っていた彩音の目が、病でほとんど見えていなかったことを知ったのは、彼女が亡くなった後のことだった。


「奥様は、あなたの作品をずっと楽しみにしていましたよ。最後の最後まで」


 医者は慰めの言葉をかけたが、赤崎は愕然として涙を流すこともできなかった。


 葬儀は親族の間で粛々と進められた。

 出棺の後、焼かれて骨の山になった彩音の姿を見て、赤崎は彼女が正しかったことを悟った。


「ああ。なるほど……確かに全然足りてなかったな」





 滅多に入ることのない応接室で、人事部の男に呼び出されたのは大体三年前だった。


「ご存じの通り、シンギュラリティが本格化して以降、当社の競争力維持のためにはシステム側に投資せざるをえない状況です」


「……はい」


「社員の皆さまには順次ご相談しております。ただ、それぞれご事情があります。小さい子供とか高齢の両親とかがいると大変ですから……その……」


「……大丈夫です。覚悟はしてました」


「そ、そんな気を落とさないでください! 前向きに前向きに! 自由な時間が手に入るわけですから。あ、そうだ。赤崎さんはもともと小説家でらっしゃいましたね。どうです? これを機にまた創作活動に専念して、小説家に返り咲いちゃったりとか。あはははは」


 いやに大きな声で笑う人事の男がどこか不憫で、赤崎はあわせて力なく笑った。


 会社に対しての不満はまったくない。小説家としての道を断たれた自分を食わせてくれた。彩音と出会わせてくれた。自分の人生に居場所をくれた。この会社には、いろんなものがつまっていた。


 出社の最終日、同僚に見送られて会社を出た瞬間、赤崎は一人つぶやいた。


「やっぱり、足りないな。全然、書けてない」




「ねえ。お義父さん、やっぱりおかしいわよ」


「またその話か……」


「気味が悪いのよ。一日中パソコンの前に座って何か書き続けてるなんて」


「別にいいだろ。迷惑かけてるわけじゃないんだし。金がかかるわけでもない。老後の趣味としては悪いモノじゃないだろうに」


「でも、部屋の前通るときなんだか怖くって……。どうにか出て行ってもらえないかしら」


「独り身の親父に一人暮らしなんてさせられない。孤独死なんてされたら後処理が面倒だ」


「じゃあ、いっそ施設とかに入れたら……」


「バカ。そんな金うちにあるわけないだろ」


「で、でもぉ……」


「謙太ももうすぐ小学生だろ? 私立にいかせるならお金はいくらあったって足りないんだ。少し辛抱してくれ」


「う、うん」


 息子夫婦の間で自分がどう思われているかは、赤崎もわかっていた。自分の生活が迷惑をかけている自覚はある。客観的にみて、自分がどこかおかしくなっていることは十分に理解していた。それでも、書くことをやめるわけにはいかなかった。


「まだ書き終わっていないんだ。せめて、それまでは……」




 赤崎は書き続けた。それは、物語という形をとって、自分の人生をそのまま写し取ろうとするような作業だった。


 小説家になったこと、黒木のこと、仕事のこと、彩音のこと、家族のこと。それらが自分にとってどんな意味があったのか、それはどんな言葉なら伝えられるのか。


 途方もない作業だ。もしかしたら自分の残りの人生では足らないのかもしれない。そう思うと、赤崎は怖くなった。恐怖を振り払うように、昼も夜もなく、言葉を探し続けた。



 そして、そのときは突然やってきた。


「……で、できた」


 最後の句点を打ち終えた瞬間。脊髄の神経がむき出しになったかのような強烈な痺れが走った。とんでもないことを成し遂げてしまったという予感にがたがたと身体が震える。


 自分の持っている言葉すべてで、自分の想いをぴったり表現しきれたという実感があった。絶えず揺れ動く心と言葉と人生が完璧に噛み合った彼の作品は、プールに投げ込まれた部品が波の揺らめきだけで時計に組み立てられるような、奇跡そのものだった。


「圭介……圭介!」


 赤崎は自分の息子の声を大声で呼んだ。久々の大声に自分の喉に焼けるような痛みが走る。


「どうしたの父さん。どこかケガとか……」

「すわれ。ここに、はやく!」


 焦って部屋に入ってきた息子を、無理やりに椅子に座らせ、画面を見せる。


「できたんだ。とうとう」

「あ、ああ。なんだ、小説か。よかったね」

「読んでくれ」

「へ? 今から?」

「そうだ。頼む」

「え、えぇ……わかったよ」


 父親の鬼気迫る様子に気圧された息子は、仕方なく画面に向き合った。


 そして、完成したテキストファイルを上書き保存して閉じた。


「ちょ、ちょっと待て。読んでくれるんじゃ……」

「もちろん今から読むよ」


 息子は慣れた手つきでソフトを起動し、躊躇いなくテキストファイルをアップロードした。


「な、何を?」

「ん? 読書ツールだよ」

「…………は?」

「いやいや。今時知らない人いないでしょ。何か読むならまずコレ通すって常識だよ?」


 困惑する赤崎をよそに、息子は画面に表示された文字列を眺めている。


「もう結果出てるね。お、すごい。スコア200だって! 流石は元小説家だね」

「ち、ちょっと」

「へぇ。テーマは家族愛。主人公は元作家で、その後電力会社に勤務する普通の会社員……。あ、父さんの人生経験がもとになってるんだね。『比喩表現の距離感が美しい』『登場人物の立体感が抜群』……AIコメントも高評価ばっかりだ」


 息子は、心底関心しながら画面の文字を読み上げた。自分の父親が努力して作り上げた作品が高い評価を得ていることに、感動さえ覚えていた。


「すごいじゃん。頑張ったかいあったね」


 屈託なく笑う息子の顔を見て、赤崎は背筋が凍るような恐ろしさを感じた。


「そんなことはどうでもいい! とにかく、早く読んでくれ」

「え、読んだけど」


 息子は、至極当然の顔をして言った。


「……は?」

「だから、もう読んだよ。スコアもあらすじもわかった。テーマも書いてあるよ。『どんな人生でも価値がある』って話でしょ?」

「違う。そうじゃない」

「あ、もっと細かい部分? 考察コメントちょっと読んだからわかるよ。あれでしょ、雪が死のメタファーに」

「違う! 直接読んでくれって言ってるんだ!」

「ええ?」

「俺の言葉を、そのまま! そうじゃなきゃ伝わらないことが沢山あるんだよ!」

「ええ、なんで?」


 息子は、やはり至極当然の顔をして言った。


「だって人間が書いた文章って読みづらいじゃん」

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