10月 斉藤さん

「三門くん、お疲れ様」



 社員食堂のカウンター席でハンバーグ定食を頬張っていると、隣の椅子を静かに引いて、誰かが声をかけてきた。



 俺は完全に閉ざしていた意識を再起動して、隣に座った人物を見る。そして思わず、声をあげる。



「斉藤さん」



 お疲れ様です、と返すと、営業の斉藤さんが、きつねうどんの湯気の向こうでにっこり笑う。「定食もうまそうだね」と俺のトレーを覗き込んだ後、すぐにうどんに向き直って手を合わせる。



「お疲れ様です。お昼にここにいるって珍しいんじゃないですか?」

「いやまあ、ほんとにホントに。ひっさしぶりに社食で食べるわ。定食にしたかったんだけどさあ、なーんでか俺今日、猛烈にうどんの気分だったんだよね」



 ずず、と麺を吸い込む音が続く。ついでみたいに「彼氏元気?」と聞かれて、俺は思わずハンバーグを吹き出しそうになった。



「げっ、元気、ですけど。なんで急に」

「三門くんの顔見たら思い出した。最近は大丈夫? 俺、呪い殺されたりしない?」



 斉藤さんが言っているのは、おそらく八月の焼肉帰りの件だろう。



 そう、真輝が勢いあまって、公道ど真ん中、斉藤さんの真正面で、俺にキスをした日のことである。



 あの日、俺はだいぶ酔っていた。だからまあ、案の定ほとんどなにも覚えていないわけなのだが、後々斉藤さんから聞いた話によると、真輝は恐ろしい顔で彼を睨みつけ、見せつけるようなキスをしたらしい。



 後からそれを聞かされた俺が、どれほど恥ずかしい思いをしたか。



 そういえばまだ、真輝に文句を言っていなかったなと思い当たる。今からでも厳重注意だ、と意気込んでいたら、思いがけないセリフが飛んできた。



「三門くん前、首にキスマついてたからさあ。ずいぶん独占欲の強い恋人がいるんだなとは思ってたけど、まさか男だとは思わなかったよねえ」

「えっ?」



 俺は咄嗟に、襟元を両手で隠した。



「大丈夫。今日はないよ」



 そんな俺を見て、斉藤さんは愉快そうに笑う。よかった、と安心しかけて、いや、そうじゃないだろうと思い直す。



 キスマークをつけられた日のことは、朧げだが覚えている。確か今年の春頃だったはずだ。そんなに目立つ場所ではなくて、ワイシャツの襟元を少し覗き込まないと見えないような、ギリギリの場所。



 見られてたんだ。



 そう思ったら、さっと血の気が引いた。思わず視線を向けると、目が合った斉藤さんは不思議そうに片眉を上げた後、納得がいったのか「ああ、」とつぶやいて微笑んだ。



「君は可愛いから、気をつけたほうがいい。萩本くんも大変だねえ」



 ずるずる、ずずっ、と響く麺の音を、俺はしばらく呆然と聞いていた。返す言葉を見つけられないでいるうちに、斉藤さんはうどんを食べ終えて席を立った。

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