8月 帰り道
職場に中途採用で新人が入って、歓迎会をするというから、たまにはと思って参加した。職場近くの焼肉屋、二時間の飲み放題で六六〇〇円。ずいぶんといいお値段である。
ビールを頼んだらおいしくて、上司の斉藤さん曰く「ここのは発泡酒じゃないから」らしい。二杯で頭がふわふわした。三杯目はゆっくり飲んだけど、その間もずっと、世界は緩やかに揺れていた。
会を終えて店を出ると、色々な人から「大丈夫?」と尋ねられた。「大丈夫っす。全然酔ってないです」と答えても信じてもらえないのは昔からである。
俺がにこにこと笑っていると、苦笑いの群衆の中で斉藤さんが手を挙げた。一人だけ徒歩だった俺を、わざわざ家まで送ってくれるらしい。すいませんと謝ると、「死なれても困るから」と返ってきた。
真輝じゃない人間と歩く、久しぶりの夜の道だった。へろへろした頭のまま、一カ月くらい借りっぱなしになっているミステリー小説の話をした。
――文体が読みづらいんです、と俺。じゃあ今度、映画を観に行こうと先輩。
いいっすねと言いかけて、なぜか言葉が止まった。「理玖」と呼ばれたような気がして、思わず後ろを振り返る。いない。なぜだ。今確かに、あの声で名前を呼ばれたのに。
「理玖っ」
今度ははっきりと聞こえて、前に向き直ったら視界の先に真輝がいた。アパート側の路地から出てきて、慌てた表情で走ってくる。
まき、と叫んで、俺は思わず駆け寄っていた。酒のせいで理性が緩んで、顔を見ただけでたまらなく嬉しくなる。飛びついた俺の背を、真輝はいつになくしっかりと抱き込んだ。
「この人は?」
「職場の先輩。斉藤さん」
ああ、この人が、と呟いてから、真輝は斉藤さんに向かって「どうもすみません」と頭を下げた。睨みつけるような、少し怖い目つきで。
「ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
真輝の剣幕に、斉藤さんは明らかに戸惑っていた。「三門くん、こちらは?」と尋ねられたので、答えようと口を開く。
「萩本真輝です。俺の大好きな――」
言葉の続きは、押し当てられた柔らかい唇に遮られた。
「恋人です。一緒に住んでるんで」
唇を離した真輝は、斉藤さんにそう告げて、さっさと踵を返して歩き始めた。俺は真輝の腕に連れられながら、懸命に後ろを振り返って斉藤さんに頭を下げる。
大通りを抜け、人気のない路地に入ると、真輝は電柱の陰で立ち止まって再び俺にキスをした。混ざり合う唾液の音が響くような、そんな深いキスだった。
「ん……お前ついこの前、外ではやめろって、ア」
耳の辺りを包み込まれて、つい反射で小さく腰が揺れた。理玖がいけないんだ、と真輝が言う。さっきまで怒った顔をしていたのに、今度は今にも泣き出しそうな声だった。
「ほんとは俺のいないところで飲んでなんてほしくない。でも理玖には理玖の付き合いがあるだろ。だから俺、頑張って待ってたんだ。だけどどうしても気になって、それで、お前が八時から二時間だって言ってたから、」
ああつまり、不安だったんだなと納得する。俺はやはり呼ばれていたのだ。可愛い可愛い、大好きな恋人に。
大丈夫だと口で言っても、きっと真輝には伝わらない。だから俺は、代わりに彼を抱きしめた。
真輝の肩が震え出す。その振動を感じながら、いつでも、どこでも、何度でも、俺はこいつを抱きしめてやりたいと思った。
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